♭7 ”カニしゃん”に願う
『お父さん。だらしない人に思われるのはイヤでしょ。
キチンとしなさい』
大学で一人暮らしをしている娘から、帰省するなりいきなり叱られた。
肌が弱く、白髪を放置していた頃のことだ。
『“いけおじ”くらいでいいかな~』などと一応お伺いを立ててみるが、
彼女の好みではないようだ。
今朝大学へ戻ってしまったが、そんな彼女の姿を見ながらふと、
ずいぶん昔の“キラキラした”眩しいような出来事を思い出していた。
まだ娘がほんの小さな子どもだった頃の話だ。
いまでも時折、妻との会話に登場する——
“カニしゃん”の記憶である。
ある日、漁師をしている父の友人から
『ワタリガニがたくさん獲れたから』と、
かなりの量をいただいたことがあった。
娘は、まだ幼稚園にも上がる前だったと思う。
『カニしゃーん!』
バケツに入れられたワタリガニを、彼女は飽きることなく、
目を輝かせて眺めていた。
しかし、やはりその時はやって来る。
そう——お料理の時間だ。
鍋に張った水が沸騰し始めるころ、娘も周囲の異変に気づく。
我々にとっては“わくわくする瞬間”であるが、
娘にとっては決してそのようなしろものではない。
そして、かわいそうだからやめてほしいと、必死に懇願する。
私は取って付けたように“命の尊さ”や“そこからの恵み”を、
幼児にも分かるように説明し、父親を気取ってみせた。
だが、そんな理屈が彼女に届くはずもない。
とはいえ、カニさんたちの行き先は、すでに決まっている。
泣き叫ぶ娘は、妻に別室へ連れて行かれ、なだめられる。
その間に、カニは茹で上がり、
やがて食卓に並ぶこととなった。
赤くきれいになったとはいえ、
原形をとどめたままでは刺激が強すぎるだろうと、
ささやかな配慮もする。
適度な大きさに切り分け、娘の前にもそっと皿を置いた。
ほどなくして戻ってきた彼女は、目を赤く腫らし、
皿の上の“それ”を見つめたまま黙り込む。
その沈黙には、正直なところ、
こちらが身構えるほどの“脅威”があった。
それでも我々は平静を装い、
『いただきま~す』
『美味しいね~っ』
と、いつも通り食事を始める。
やがて、周囲の様子に押されるように、
彼女も恐る恐るカニに手を伸ばした。
先ほどまで『カニしゃん』と呼んでいた存在の、
その成れの果てだと知ってか知らずか。
皆の視線が、自然と彼女に集まる。
疑心暗鬼のまま、ついに彼女は“それ”を口にした。
すると、
『カニしゃん、美味しいね~っ!』
悪びれる様子もなく、瞬時にこぼれるような笑顔。
あのとき、娘は初めて“命の尊さ”と“そこからの恵み”を、
頭ではなく体で受け取ったのだと思う。
ただし、ひとつだけ想定外のことが起きてしまった。
彼女が夢にまで見るほど怖い存在——
それが“カニしゃん”になってしまったのだ。
水族館でも松葉ガニには近づかず、
スーパーの鮮魚売り場では、
足をくくられて並ぶ姿から目をそらして素通りするという。
ああ、こんなことを公然と書いてしまって、
また叱られはしないだろうか。
だが、ここまで書いてしまった以上、
削除するには忍びない。
若干の誇張はあるが、虚偽ではないし、
なにより私はこの話題が気に入っている。
次に帰省してきたら、
美味しいものでも食べに連れて行こう。
もちろん、カニ料理は避けるとして……
いや今でも、
食べる分には『美味しい』と言っていたような気もする。
蛇足ながら、彼女は父に厳しいだけの人間ではない。
周囲への配慮を忘れない、素敵な女性に育ってくれた。
それもこれも、すべては——
あの日の“カニしゃん”のおかげなのだろう。
娘が帰った本日、食卓に並んだカニにそっと感謝しながら、
懐かしい日々を思い出した。
『カニしゃん。本当にありがとう。いただきます』
できれば、彼女への“呪縛”も、
そろそろ解いてやってほしいと願いつつ。
