#39 取り消せない事
取り消せない事
結婚という言葉を出されるたび、私は話題を変えた。
仕事が忙しいとか、今はそのタイミングじゃないとか、理由はいくらでも用意できた。
この社会では、選択を先送りにすること自体が、特別なことではなかった。
でも彼女は怒らなかった。
ただ、「将来」に関わる話題になるときだけ、少し声が低くなった。
未来を口にするたび、彼女の視線は、私の決断だけを待っているのが分かった。
付き合って四年。
同棲して二年。
周囲は当然のように「次」を期待していたが、私だけが立ち止まっていた。
人生設計端末には、私たちの未来がいくつも表示されていたにもかかわらず。
私には結婚する意味が、分からなかった。
紙一枚で何が変わるのか。
だが正確には、この世界では紙一枚ではない。
一度登録されれば、人生分岐ログは修正不能になる。
自由を失う不安が、いつも先に立った。
選択しない限り、どの未来も「可能性」として保存されたままだったからだ。
小さな喧嘩は増えたように思うが、どれも別れに至るほどではなかった。
ただ最近では、そう思っていたのは、私だけだったのだろう。
——最近彼女は、夜になると一人で考える時間が増えていた。
この人といる未来と、そうではない未来。
どちらも表示されたまま、確定されない分岐。
待つという行為だけが、彼女の時間を削っていった。——
ある日、私が帰宅すると部屋の半分が空いていた。
彼女の服がなくなり、洗面台には歯ブラシが一本だけ残っていた。
共有ログから、彼女の識別IDが外されているのを見て、私は事態を理解した。
「少し、距離を置こうと思う」
置き手紙は、それだけだった。
静かになった部屋で、私は初めて「失う」という感覚を知った。
食事の時間も、帰宅の音も、すべてが自分だけのものになる。
それが……自由ではなく“空白”なのだということを。
私は連絡をしなかった。
いや、できなかった。
選択を迫られることから、ずっと逃げてきたのだから。
数日後、彼女からメッセージが届いた。
「もう待つのを、全部やめるね」
その短い一文は、彼女が何度も推敲した末のものだった。
責める言葉も、期待も、可能性も削り、
最後に残ったのは、確定だけだった。
結婚したいのか、したくないのか。
それすら分からないまま、私はようやく気づいた。
選ばない自由より、失う現実のほうが、はるかに重いということに。
私は彼女の新しい部屋を訪ねた。
呼び鈴を押す指が、震えていた。
そして一言だけ絞り出した。
「結婚しよう」
それは覚悟というより、白状だった。
これ以上、未来を保存したままにできない、という告白。
彼女は少し困った顔をして、うつむいた。
一度は自分で切り離した感情を、もう一度“すくい取る”には、時間が必要だったのだと思う。
やがて、静かに頷いた。
その瞬間、私たちの未来は一つに確定された。
私が結婚を決めた理由は、立派なものではない。
未来を描けたからでも、覚悟が完成したからでもない。
失うことが、取り消せないと知ってしまったからだ。
私にとっては、それで十分だった。
――この世界では、それ以上の理由など、ほとんど存在しない。
★★★★ 以下はAIによる講評です ★★★★
もっと深く短編を読みこなしたい方や、
自分でも短編を書こうと思っている方は、是非参考にして下さい。
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P.N 四九十三(しく・じゅうぞう)拝
★★★★ 以下はAIによる講評です ★★★★
今回も、プロ編集者の目線で率直に評価しますね。
結論から言うと――
これは三作の中で、いちばん“危うくて”、いちばん人間的です。
完成度は高いですが、同時に「賛否が分かれる強さ」を持っています。
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