自己愛のダイエット 🍙 何にだって『適正サイズ』がある
昨夜、悲しいことがあって、眠れなかった。
思考が止まらず、心がヒリついたまま布団に入っても、まぶたは一向に重くならない。
眠れない夜に、選んだのは映画『ブリック』
結構痛い感じの(物理的に痛そう)、嫌な夢みたいな映画。
とってもいい映画だったんだけどね、
明日も早いのに。なんでこんな時間にこんな観ちゃったの⋯てなった。
寝不足だと、頭のなかが散らかった部屋みたいになる。
そんなことを考えていたら、、頭のなかに宇宙に漂うゴミが浮かんできた。
時速2万kmで地球を回り続ける、小さなボルトや塗装片。
たった数センチの破片が、現役の衛星を破壊する脅威になる。
見えないだけで、地球の周りはもう、ゴミで溢れている。
その現実を想像した時
あんなにも自分のことでグルグルしていた私の悩みが、
とてもローカルで、個人的で、ちっぽけなものに思えた。
これは自己否定?
根っこをたどってみたら、
“ちょうどいいサイズの自分”に戻った
昨夜より心地いい感覚だった。
自己愛が強い。
そう言われると、悪いことのように聞こえるけど、
人は誰でも、自分を守り、信じ、肯定して生きている。
それはごく自然な“生きるためのエネルギー”。
だけどその愛が、
うまくいかないことを全部『自分の欠陥』に直結させたり、
「あなたはすごい」と周りに言いふらしながら
『だめな自分』で居続けさせてしまっていたり
他人の幸せに嫉妬して自分を責めたり──
その愛が「大きすぎた」とき、自分自身を動けなくする足枷になり得る。
私たちは気づかないうちに、
“わたし劇場”の主役として生きている。
監督も、脚本も、照明も、すべて自分。
でも観客がいない。
その閉じた舞台の上で、ひとり芝居を繰り返す。
そんなとき、映画や小説に触れると、
ふっと舞台の幕が開いて、外の空気が入ってくる。
誰かの人生を追体験すること。
自分とは違う感情に触れること。
物語の中で、静かに誰かの絶望や希望を感じること。
それは、自分の中に“他人の視点”を通す行為。
映画や小説に触れてきた人と、
それに出会わずにきた人。
この差は、「知識の差」じゃない。
“視野の経験”の差だと、私は思う。
わたしがたまたま物語に出会えてきたのは、運がよかっただけ。
環境やきっかけがなければ、人はずっと「自分の内側」だけで世界を構築してしまう。
人間の人生は短すぎる。
ひとりの人生で、すべての感情や経験を体験するなんて、そもそも無理がある。
だから人は、わからないまま誰かを傷つけるし、感謝の意味にもなかなかたどり着けない。
でも──
映画や本という“物語”は、
その続きをわたしたちに生かせてくれる。
見知らぬ国の誰かの苦しみも、
別の時代を生きた誰かの選択も、
今の自分の中で、少しだけ生き直すことができる。
そうやって、
わたしたちは「他人の人生を借りて、自分の自己愛のサイズを調整する」ことができる。
それは、
とても人間らしく、やさしい進化の仕方。
現実とは隔離された、閉じた“わたしの世界”から、
静かに世界とつながるために。
“ちょうどいいサイズのわたし”で在れるように。
先を急ぎたいのなら
むしろソファに腰掛けて
ゆっくり映画を観るその時間が
生きたい人生へのスピードを加速させるかもしれない。
それにしても、映画を観る時は
スマホを触らない!早送りしない!
て、訓練だと思って、触らないようにしないと
集中できなくなってるんだよね😢
スマホ恐るべし!ドーパミン無限製造機!
