小説|『傷をのぞく女』 #229
某年3月、金曜の夜10時。
なんとなく、まっすぐは帰りたくない気分だった。
麻子は駅前の喫茶店に入り、コーヒーを注文し、窓際のカウンター席に座った。注文したコーヒーを飲むより先に、カバンの中に手を突っ込んだ。そして紙コップに入ったドライフルーツとナッツを、手のひらいっぱいに掴み、周囲を気にしながら、サッと口の中に放り込む。
この気持ちはなんだろう。
ひどく虚しい気分だ。
ドライフルーツとナッツを貪る手は、止まらない。店内はおそらく持ち込み飲食NG。ここで店員に注意でもされたら、途方もなく恥ずかしい。恥ずかしいというか、今の虚しい気分に完全に飲み込まれてしまうだろう。空腹なわけではない。このよく分からない虚しさを紛らわせるため、というか自分の平常を保つために、ただ手と口を動かしているのだ。ミニスカートに10センチヒールのロングブーツを履いて、化粧が半分落ちた女が、夜中の喫茶店に1人で座っている。その意味をどうか店員が察してくれたらいい。
麻子はさっきまで、駅前のラブホテルにいた。ここで貪っているドライフルーツとナッツは、ホテルのエントランスにあった、取り放題のスナックバーから持ってきたものだ。
紙コップが2つ。1つは麻子のもの、ドライフルーツ。もう1つはバターピーナッツ。一緒にホテルに入った相手の分だった。
彼の名前はソジュンといった。20代半ばの韓国人。身長は180センチくらいあって、今時の韓国人男性らしい黒髪センター分け。顔は俳優の北村匠海に少し似ているが、そこからさらに目の光を消したような、素朴で大人しそうな顔立ちだった。
その彼とは19時に駅前で落ち合い、すぐにホテルに向かった。
初対面だった━━
その日の夕方、市役所勤務の麻子は、定時のチャイムと同時に席を立った。真っ直ぐ家に帰り、素早く支度をする。クローゼットの奥から、ミニスカートと、へその見えそうな丈のピンクのセーターを取り出す。平日は着ない服だ。髪を巻いて、アイラインを足し、まぶたにラメをのせる。そして鏡の中の自分を、少し遠い目で見る。これは私じゃない。でもこっちの方が、少しだけ正直な気がした。麻子じゃない正直な自分を眺める、この1分間が好きだった。
そして初対面の男と、会ってすぐにホテルへ向かう。これは麻子にとって初めてではない。むしろ趣味のようなものだ。
ソジュンは少したどたどしいが、日本語がとても上手だった。ホテルまでの歩いて5分とかからないが、全く無言というわけにもいかない。麻子は「日本に来て、どのくらいですか?」などを聞く。別に知りたいわけではない。呼吸をするように、空気を読んだだけ。
「日本人は優しいですね。韓国人はイエス、ノーをはっきり言う。でも日本人はなんでも『大丈夫ですよ』って、はっきり言わない」
話の流れで、ソジュンは言った。
「それって良いことなんですかね?」
「社会でうまくやっていくには良いと思います」
そんな話をしていると、ホテルについた。
部屋を選ぶとき、麻子はいつも全てを相手の男性に任せている。今日も、部屋の空き状況が表示されたパネルの前でソジュンから離れ、エントランスの奥のソファーに座った。できるだけ彼の視界から消えるため。これは、相手がどんなランクの部屋を選んでも良いようにするためであり、私はホテル代を払いませんという意思表示でもあった。
「あの・・・・・・」
ソジュンが麻子を呼んだ。
「僕、漢字は読めなくて」
パネルには「松・竹・梅」の3文字が並んでいた。彼の日本語がとても上手だったから、すっかり油断していた。日本に来てまだたった2年だ。もしかすると日本のラブホテルに来るのも、初めてかもしれない。麻子は一番値段の低い「梅」を選んだ。運よく一室だけ空いていて、208号室、休憩3時間で7,000円。部屋を選択すると、プリペイドカードのような薄い銀色のカードが出てきた。
「お金は、帰りですか?」
ソジュンはカードを取り、少し不安そうに聞いてくる。
「うん、帰り」
セックスをする相手から金銭をもらったことはない。もちろん彼からも、ホテル代を出してもらう以外に、お金をもらうことはしない。しかし彼の発した「お金」という言葉は、とても生々しく、自分が何か悪いことをしているような心許なさを感じた。
「何か、持っていきますか?」
その気持ちを紛らわすように、麻子はエントランスにある、取り放題のスナックを指した。筒状の透明の容器に、さまざまな種類のスナックが詰められている。筒の下部にあるガチャガチャみたいなレバーを回すと、適量のスナックが出てくる。彼はバターピーナッツ。麻子はドライフルーツ。
部屋に入り、靴を脱いで、上着をかけて、ソファに座る。ソジュンは一番に手を洗いに行った。
━━彼も手を洗うのか。
これはいつも不思議に思うこと。大抵の男性は、部屋に入るとまず手を洗う。育ちが良いのか、気持ちを切り替えたいのか、女性への気遣いか。悪い気はしない。むしろ印象は良い。もしかすると手を洗った男性だけが、記憶に残っているのかもしれない。そういう麻子は、ホテルに入って手を洗ったことがない。だってどうせシャワーをするのだから。
ソファで並んで座り、他愛もないことを話す。「今日は仕事でしたか?」、「土日休みですか?」、「休みの日は何してますか?」などなど。会話の内容に正直、興味はない。ただメイントレーニングの前の、ジョグのようなものだ。
「シャワーしましょうか」
会話が途切れたところで、麻子から切り出した。「先にどうぞ」と言われたので、風呂場へ向かう。ショーツを脱ぐと、赤いシミがついていることに気づいた。なんでこのタイミングで。
「あのさ、生理がはじまっちゃったんだけど、気持ち悪くない?」
風呂場から顔だけ出して、ソジュンに聞く。男の人は、血を嫌がることが多い。女性よりも血を見る機会が少ないから、純粋に怖いらしい。
「問題ないです。気にしてくれてありがとう」
ソファーに座ったまま、彼は言った。「ありがとう」の言葉に、少し安心感を抱いた。
しかしその安心感は、すぐに裏切られる。
ベッドの上で、彼は想像より乱暴だった。
胸を吸われるたび、乳首の奥がじんと熱を持った。頭を掴む手は無造作で、丁寧に巻いた髪がもつれていく。尻を叩かれた瞬間、自分の輪郭がはっきりした。皮膚を弾く音が薄暗い部屋に響き続ける。麻子は仰向けのまま、彼の股の下に引きずられた。ぬるっとした生暖かいものが、股間に当たる。
「ゴムつけて」
彼を引き離そうとするが、腰を掴まれている手が皮膚に食い込む。
「生理だから、いいでしょ」
その日本語は、妙にはっきり聞こえた。そして腹が立った。彼を気遣ったつもりで言ったことは、彼にとってはただのラッキーチャンスとして受け取られていた。
そんなことを思っている間に、熱くて硬いものが自分の中に入ってきた。グチュという音で、他人と自分の体液が混ざる様子を想像してしまう。
ああ、バカバカしい。
もうどうでもいいかな。
そう思った瞬間、ソジュンは麻子の胸を叩いた。胸を叩かれるのははじめてだ。皮膚がじんと熱くなるだけで、不思議と痛みはなかった。代わりに、焦りにも似た怒りが湧いた。
━━なにがあっても、この人に孕まされたくない。
「ゴム!!!」
思った以上に大きな声が出た。突き放された彼は、少し驚いた顔をしたあと、笑った。謝りなどしない。黙ったまま、私の頭の上に手を伸ばして、ゴムをつけた。
薄暗い部屋の中で、覆い被さる彼の目はさらに真っ黒で。時々何か言葉を漏らすが、きっと韓国語なのだろう、何を言っているか分からない。ただ伝わってくる空気が荒々しくて、彼の得体の知れなさに、もうただ耐えるだけ。
そして彼は果てた。ゴムを取り、ティッシュで拭き、ベッドに転がろうとした瞬間、彼の背中に目がいった。背中一面に、薄いリストカットのような傷が見えた気がしたのだ。
見間違いだろうか。背中を触っているときに皮膚の盛り上がりなどは感じられなかった。いや、でも確かに、右脇から左脇に横断する、長い何本もの跡が見えた。
ソジュンは乱れた呼吸のまま、麻子の体を引き寄せ、右腕で腕枕をする。傷のことが気になって仕方がないが、今聞くのは、さすがにはばかられる。
あの傷はなんだろう。背中だから、自分で付けたのではないだろう。誰かにやられたのか。そういえば、韓国には兵役制度がある。
「兵役って本当にあるの?」
「ありますよ、もちろん」
彼は、当たり前でしょ、とでも言うように笑った。
「行った?」
「いきましたよ、もちろん」
彼は天井を見ている。
「軍隊に入ったらどんなことするの?」
「銃の練習したり、戦争の訓練をします」
━━戦争の訓練。
日本ではまず聞くことのない言葉。さっきまで笑っていた彼も、笑顔が消え、声のトーンが下がった。隣の国、同じ肌の色、似たような顔つき。それなのに、彼と麻子の間には、根っこから違う文化や感覚がある。
「あとは毎日、朝と夜に3キロずつ走ったりしますね」
「軍隊、入るの、どのくらい?」
「1年半くらいですね」
麻子の日本語も変にたどたどしくなる。
「大変だった?」
んー、と彼は考える。
「自由に外に出られないのは、少し、大変でしたね」
他にもっと大変なことがあったのではないだろうか。でももしかするとこれは国家機密で、兵役についてはあまり外部に漏らしてはいけないのかもしれない。兵役の過酷さについて勝手に想像を膨らませているうちに、背中の傷のことは忘れてしまっていた。
「韓国の人は日本人のことをどう思ってますか?」
思わず敬語になる。別に彼に好かれたいわけじゃない。彼が日本人を嫌いでも構わない。じゃあなぜこの質問をしたのか、麻子自身にも分からない。
「それはどう答えたら良いのか・・・・・・」
彼は少し迷った。そして真剣な顔で韓国の国家的特徴や、歴代大統領について話しはじめた。相変わらず天井を見たままだ。
「韓国は中国のことがあまり好きではない。北朝鮮とも休戦中です━━」
そしてこう続けた。
「だから韓国は、日本と仲良くするしかないんですよ」
薄暗い部屋の中、風呂場の換気扇の音だけが聞こえる。彼の横顔からは、なんの感情も読み取れなかった。
日本が嫌いというわけではないだろう。無理に日本で暮らしているわけでもないだろう。ただ、そこには一種の諦めというか、抗えない国家の大きな力を前に、個の無力さを思い知っている青年がいた。
━━早熟。
その言葉が頭に浮かぶ。自分とさほど歳の変わらないであろう男性が、身の程を弁えすぎている。ただそうなる背景には、きっと韓国の兵役制度があるからだ。20代の一番気力と体力がある時期に、強制的に自由を奪われる。戦うための肉体と精神力を、押し付けられる。それが韓国では普通でも、隣国の日本にはない。彼の目に日本はどう映っているのだろうか。
その後も彼は全部で3回イッた。麻子の唇や乳首の先端、そして股の間は、摩擦で熱を帯び、空気に触れるだけで痛んだ。「もう、シャワーしたい」と切り出した時も、ソジュンはまだ物足りない様子だった。
シャワーを浴び、黙々と着替える。ソジュンは何かを話しているが、麻子からはもう空返事しか出てこない。ひどく疲れてしまった。
部屋を出ようとするとき、机の上のスナックの入った紙コップが2つ、目に入った。結局、少しも食べなかった。ソジュンはこちらに背を向け、靴紐を結んでいる。麻子は1粒、ピーナッツを口に放り込んだ。口の中に広がる塩味と、噛み砕く感触が心地よい。彼女は熱いものでも触るかのように、2つの紙コップを重ね、急いでカバンの中に詰めた。ソジュンがこちらを振り向かないうちに。蓋するものもないから、カバンの中で中身がこぼれるかもしれない。でもそんなことどうでもいいと思うくらい、持って帰りたかった。
「カバン、持ちますか?」
麻子が靴を履くとき、ソジュンは優しさを示した。
「大丈夫です。ありがとう」
カバンの中の雑に詰めたスナックを見られるかもしれない、と思ったからだ。貧乏くさい女だと思われたら恥ずかしい。こんなところでプライドを示すのもまた、恥ずかしいのだけれど。
麻子はホテルに行くと、必ず何かを持ち帰る。化粧水や洗顔などのパウチに入った使い切り化粧品だったり、インスタントコーヒーだったり、ライターだったり。持って帰っていいホテルの備品を。初対面の人とセックスをすることは、麻子にとってゲームだった。相手がどんな内面を持っているかは分からない。密室の部屋の中で、安全に過ごせる確証はない。ことが終えて、身が健やかであり続けるかは、賭けだ。
リスクとスリル。
怖い思いをしたこともあるのに、やめられない。
無事に朝を迎えるたび、少しだけ、自分が空っぽじゃなくなる気がするからだ。
きっと何かを持ち帰る癖は、ゲームをクリアした報酬として。いわば戦利品なのだ。
「また会えますか。次はもっと楽しみましょう」
駅前での別れ際、ソジュンは言った。3回もイッたのに、もっと楽しみたかったらしい。
「そうですね、気をつけて帰ってね」
そう手を振り、踵を返す。彼が見えなくなるまで見送ったりしない。ただ自分の足先を見て歩く。もう何の情報を頭の中に入れたくなかった。視界の左端に僅かに入ってきたマッチョな男性3人が、「お姉さーん」、「元気ですかー」と声をかけてくるのだけが聞こえた。
そして今、麻子は駅前の喫茶店にいる。
店内には参考書を眺めているスーツ姿の男性と、中年女性の2人組、あとは20代くらいの男女のカップル。もう1時間もすると、店は閉店するらしい。ホテルで取ってきたピーナッツを頬張りながら、彼と別れてからドッと押し寄せてきた虚しさの理由を考えた。
虚しさとも、少し違う気もする。彼の得体の知れなさに、少しの恐怖は感じたが、多少なりともそこに興奮している自分もいた。
━━虚脱感。
この言葉が合っている気がする。きっとひどく緊張していたのだ。だから彼と別れた途端、その緊張の糸がプツリと切れた。
そういえば、背中の傷の理由、聞かずじまいだったな。
コーヒーカップで両手を温めながら、ふと思い出した。
次会った時に聞いてみようか。
いや、でも会う気はしないし。
もうLINEで聞いてしまおう。
そして彼にLINEした。
「背中に傷みたいなのがあった気がするんだけど、なんの跡ですか?」
単刀直入すぎだろうか。返ってこないかもしれない。でもそれならそれで構わない。スマホの画面を閉じ、机に置いた瞬間、着信音が鳴った。
LINEを開くのを少し躊躇する。ここに彼の重く悲しい過去が綴られていたら、どうしよう。受け止めることができるだろうか。返事はするべきだろうか。
1分ほど考えて、LINEを開く。
彼の返事はこうだった。
「あ、ただのニキビの跡ですww」
麻子は小さく笑う。
「ww」って日本のネットスラングじゃないのか。
返事を考えていると、続けてLINEが送られてきた。
その内容に麻子の手は止まった。
「軍隊で急にできたんです」
勝手に想像していたような、ドラマチックな過去なんてない。でもこの答えの方がよっぽどドラマがあり、生々しいほどのリアルだった。国家というシステムによって強制された、暴力的なまでの環境の変化。それに従わざるをえない20代の身体の記録。彼の目の奥の闇。生で入れてこようとする乱暴さ。胸やお尻を叩く衝動。3回も達する生命力。
やはり彼は、日本人男性とは違った。
「軍隊か・・・・・・」
麻子は思わずつぶやく。
日本で生きている限り、身近に感じることのない話。
そしてそれ以上、考えることをやめた。無駄に自分を消耗しそうだったから。股間は、思い出したように痛みはじめた。2時間も擦られ、掻き回されたのだから、無理もないだろう。でもこの痛みは自業自得。これは自分で選んだものであり、彼の背中に残ったものとは違う。兵役はない、言葉に困ることもない。外に目を向けなければ、戦争は遠い世界の出来事。彼と別れた後に感じた虚しさは、そんな平和な日本で、自分の体を大切にしない粗末な自分を直視したせいかもしれない。
窓の外を、酔った男たちが笑いながら通り過ぎていく。
麻子はドライフルーツの残りを口に入れ、冷めたコーヒーを飲んだ。
※本作はフィクションです。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートは私の励みになり、自信になります。
読んでくれて、ありがとうございます。