水を得た魚だったあなたへ #228
2025年の秋、京都大学で一緒に写真展のチラシを配っていた青年がいた。彼は京都大学の4回生だった。キャンパスを歩けば、あちこちで知り合いに遭遇する。
「おお、久しぶりやん!」
そう言って、彼は友人と立ち話を始める。私は「先に行っとくで」と彼を放っていく。なかなか戻ってこない。やっと戻ってきたと思えば、また別の友人に声をかけられて、気づけば、またいなくなっている。
犬みたいな人だな、と思った。ただ誰とでも自然に話せて、楽しそうで、自由で、そのままにしておきたいと思った。
──水を得た魚。
その言葉がぴったりだ。彼は、AV事務所が開催する京都の写真展に、アルバイトとして応募してくれた。はじめて会う大人たちの中で、緊張もあるだろう。それでも一生懸命に働いてくれている。だからこそホームである大学に来ると、やはりホッとして楽しくなるのは分かる。
これから社会に出ても、どうかそのキラキラしたままでいてほしい。そう思いながら彼の背中を見ていた。
あれから半年。
その彼、信田くんと、東京・大手町で再会した。
今年の春、就職で東京にやってきたのだ。職場は大手町。誰もが知っている大きな企業だ。待ち合わせ場所へ向かう途中、私は周囲を見渡した。大手町には、高層ビルが立ち並んでいる。どこもかしこも三大財閥系の会社。すごいなぁ、というより、ガチガチに固められている感が、少し不気味に思えた。
18時半、白、黒、グレー、紺の、同じ色調の服を着た人たちが、歩道の右側と左側をきっちり分けて早足に歩いている。みんな同じ方向を向いて。エスカレーターの上りと下りみたいに。私も自ずと早足になる。
信田くんとは、大手町駅のタクシー乗り場で落ち合った。半年ぶりだ。何かの歌詞にある「見間違うようなスーツ着た僕」に変わっている、ことはなかった。白のTシャツを着ていた学生の彼が、水色のワイシャツに着替えただけ。しかし一つ、圧倒的に違うものがあった。彼は疲れていて、全然溌剌としていなかった。
「有楽町に行こう。皇居側と東京駅側、どっち歩きたい?」
そう聞くと、信田くんは「皇居側で」と答えた。
いい選択だな、と思う。
彼は以前、こう言っていた。
「京都って流れる時間がゆっくりで、大学時代を過ごすのにぴったりやったなぁって思います」
あの空気を恋しく思っている今の彼には、きっと東京駅前の圧倒されるビル群より、皇居側の広い空の方が似合う。
「ここだけこんなに空が広いんだよ」
「皇居のお堀には白鳥がいるんやって」
「緑がいっぱいあるけど、ここの芝も松も、全部人工物やんな」
などと、私の方が東京初心者みたいなテンションになっていた。
店は適当に選び、半地下のイタリアンに入る。全然客はいなくて、少しリッチなサイゼリヤ、みたいな店。そこで、彼は会社の話をしてくれた。
入社2ヶ月。
早速、自信を失った。
1つ年上の先輩と、自分を比べてしまうのだと言う。
先輩の1年前の資料を見ることができる。だから、今の自分と並列に比べられる。先輩が1年目の頃、どんな資料を作っていたか、上司からどんなフィードバックをもらっていたが見れてしまう。
「ああ、自分はここまでできてないな」
そう思ってしまうらしい。
きっと新入社員あるあるだ。夢いっぱいやる気いっぱいで入った会社だもの。存分に自分の力を発揮したい。活躍したい。評価されたいと思うだろう。しかし上には上がいる。どう頑張っても、同じフィールドで勝てない相手がいる。自分の負けを静かに突きつけられた瞬間、これが現実だ、と受け入れざるを得ない苦痛がある。毎日少しずつ、自分への期待値を下方修正していくような、そんな感覚。
彼は京都大学の理系を卒業し、今まで、頭脳で負ける経験は、どちらかというと少ない方だっただろう。しかし社会人になると、頭脳だけでは勝てないものが多い。自分をアピールする力。人脈を作る力。上司の好きな時計の話に合わせるために、自分のリソースを割く力。
良くいうと自分をどれだけ演出できるか。
悪くいうと自分にどれだけ嘘をつけるか。
「会社員としての能力、僕、30点くらいだと思います」
信田くんは言った。毎日同じ時間に、同じ場所に行って、飲み会に参加して、上司に気を遣って、土日だけ休む。そのサイクルにハマる能力が、0点だったらいっそ楽なのに。自分は中途半端に低いのだと。
60点なら頑張れる。0点なら諦められる。でも30点だから、なんとか適応できてしまう。
「それと、僕、気づいちゃったんです」
彼は言った。
「会社員である限り、お金はあっても時間はないって生き方から、抜け出せないんだなって」
それを聞いて、少し途方に暮れた。まだ入社2ヶ月。それに気付くのには、あまりにも早すぎる。
「これに気付いちゃったら、これからずっと地獄ですよね」
胸がギュッとなる。「そんなことないよ」とか「まだ2ヶ月じゃ分かんないよ」などとは言えない。だって私自身が同じことを思い、耐えられなくなって、会社員からAV女優に転身したからだ。
ただ私がその地獄に気付いたのは、入社3年目くらい。新入社員の頃なんて、USJ の年間パスポートを買って、「社会人サイコー!」と、毎日遊び呆けていた。
信田くんは、最近あった会社の飲み会の話もしてくれた。
幹事を任されたらしい。主要な上司の日程を押さえ、社員みんなに候補日を送り、店を探し、座席表を作る。始まりの挨拶、中締め、締めの挨拶をお願いする人にも連絡する。
「お忙しいところ恐縮ではございますが、乾杯のご挨拶をお願いできますと幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。ってメールするんですよ!」
そういうメールを送りすぎて、最近は友人とのLINEでも「ご返事ありがとうございます!」などと送ってしまうそうだ。
ちゃんと社会人やってるなぁ、と微笑ましい。同時に、そこへの違和感には非常に共感した。
「ご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます」
「ご教示いただけますと幸甚に存じます」
会社に入った途端、普段は絶対に使わない日本語を使い始める。
ご鞭撻、何卒、幸甚って。
武士かよ。
そう違和感を感じながらも、そのルールに従っていく──
信田くんには、飲み会が終ったあとも仕事があった。「傾斜表」を作るのだ。私ははじめて聞く言葉だった。会計を精算するための表。役職順に名前を並べて、その横に飲み会代を記載していくのだとか。
「役職順に並べるんですけど、役職の中でも年次が逆転してたりするじゃないですか。そこもちゃんと年次順に並べるんです」
それを聞いて、ゾッとした。面倒なルールだ。しかも間違ったら冷や汗をかくやつ。でもそれが会社。無駄な仕事だとは思わない。誰かがやらなければいけないことだから。
そして彼は言った。
「僕、後輩ができたら、座席表とか傾斜表の作り方を教えると思うんです。でも、それって社内だけのルールじゃないですか」
さらに少し考えてから続けた。
「一歩外に出たら、そのルールは全然当たり前じゃないですよね。でも会社にいる限り、そのルールに従うしかなくて、そうやって染まっていって、視野が狭くなっていくんだろうなって思いました」
これが入社2ヶ月目の言う言葉だろうか。彼のことを、誰とでも仲良くなれて、どこにでも順応できそうな、万能陽キャだと思っていた。でもどうやら違ったみたい。組織やルールや人間関係での違和感を敏感に感じとる、超現実的な人間だった。
「もう少し、自由な時間がほしいです。最近、空が広いって思うこともなかった」
──自由な時間がほしい。
これは私がAV女優になる直前に思っていたことだ。もっと読みたい本がある。バレエだって行きたい。でもそこに割く時間がないまま、人生は着実に短くなっていく。女優の仕事を選んだ理由はたくさんあるが、その中の一つに、短時間でしっかり稼げるから、という理由が確実にあった。
「1年くらい休みたいです」
半分冗談ですが、という口調で言う。彼は大学に入学した時も、コロナが重なったこともあり、1年間ほぼ学校に行かずに留年したそうだ。受験勉強で疲れてしまったから。切り替えの時に、休憩が必要な性格なのだろう。いや、本当は多くの人がそう思っているような気もする。
「1年、休んだら?」
彼は「うーん」とピンときていない。そらそうだろう。休職したとて、会社員でいる限り、きっと彼のモヤモヤは消えない。
モヤモヤを払ってあげたいが、どうしたらいいのか分からない。おそらく現実的な彼がほしいのは、抽象的な精神論とかではなくて、今のぼんやりした不安を突破できる具体策。
そこで私は、現実的な話をしてみた。
「とりあえず、2年間働かなくても生活できるお金を計算してみたら?」
そう言うと、信田くんは「そういう話、聞きたい」と身を乗り出してきた。
これは実際に、私がAV女優になった頃にやったことだった。
会社員を辞めて、自由な時間を手に入れた。でもそれと同時に、「この先どうなるんだろう」という恐怖があった。一生この仕事を続けられるとは思えない。じゃあ収入がなくなった時、どうやって生きていけばいいのだろう。
だからまず計算をした。毎月の生活費はいくら必要なのか。そして「2年間は働かなくても生活できるお金」を確保することにした。
「なんで2年なんですか?」
いい質問だな、と思う。
「2年あれば、なんでもできるから」
休憩してもいい。旅に出てもいい。資格を取ってもいい。再就職を考えてもいい。一度、関西に帰ってもいい。
2年あれば、人生を立て直せる。
もちろん、人によって違うだろう。半年で十分な人もいるだろうし、5年ほしい人もいるかもしれない。でも私にとっては2年だった。
数字は残酷なほど正確。でもその正確さは安心でもある。何より数字を軸にすると、物事がブレない。
2年間の生活費を確保する。そう簡単なことではないが、数字でチェックポイントをつくるだけで、心は不思議と安心するのだ。安心するとやる気が出る。そしてその先に、本当にやりたいことが見えてきたりする。
とはいえ、私もそんなにすんなり安心したわけではない。
2年分のお金はこれから確保するとして、AV女優のその先に、何をしよう。AV女優という経歴に左右されない、強い肩書きがあれば安心ではないだろうか。じゃあ、国家資格を取ろうか。
そう考えて、公認会計士を目指そうとした。
その話を事務所の社長にすると、「理系の国立大院卒って資格を持ってるのに、まだ資格取るん!? 学歴オバケやな」と笑われた。そしてこう続けた。
「せっかく自由な時間ができたんやから、ほんまにしたいことしたら? もっとワクワクできること」
その言葉にハッとした。
不安を消すための選択と、心が躍る選択は、必ずしも同じではない。
だから文章を書くことを選んだ。人生は思っているほど長くないから。
その話をすると、信田くんは「税理士っていいですね」と反応した。
私の話、聞いてた? って感じだが、この短時間で彼の頭はいっぱい回転していたらしい。
「大きな企業に入ってみて思ったんです。僕は自分を選んでくれた人と仕事がしたいなって」
そうなると、大企業を顧客とする会計士よりも、中小企業や個人事業主を顧客とする税理士の方が自分に合っている気がすると。その後、彼は税理士について黙々と調べ始めた。
これでよかったのかなと少し心配になったが、彼がイキイキしていたから、そのままにしておいた。一緒に大学でチラシを配っていた時の彼が、少し戻ってきていた。
──自分を選んでくれた人と仕事がしたい。
私は、その感覚がよく分かる。
人間Aじゃなくて。
「私」を必要としてほしい。
私だからできることをしたい。
そして「この人のため」と思って仕事がしたい。
その欲求を満たす方法が、企業という組織では見つからなかった。
夜10時、店を出て東京駅まで歩いた。彼は言った。
「入社2ヶ月で、会社員ってこういうことなのかって知ってしまって、これからずっと地獄やんと思ったんです。でも違いました。早く気づいてよかったです」
早く舵を切れるから。
その言葉を聞いて少し安心した。
会社員を続けてもいい。
続けなくてもいい。
今すぐ変わってもいいし、
変わらなくてもいい。
ただキラキラしていた自分を、忘れないでほしい。
──心躍ることをしよう。
キラキラ輝く高層ビルを見上げながら、自分自身にも言い聞かせた。
残業してる人がいる。それがキレイな夜景を生む。会社で働く人がいる。そのおかげで、私たちの生活は回る。
武士のようなメールを送り、傾斜表を作り、一つの歯車として機能していく。良いも悪いもない。でも、その先にワクワクする未来が待っているのか。その確信が持てなければ、きっと苦しくなる。
どんな道も大変なことは必ずある。
どうせ大変なら。
どうせ頑張るなら。
少しでも心躍る方へ──
かつて水を得た魚だったあなたへ。
あの時のあなたでいられる人生を選んでほしい。
時間は有限だから。
そして私もまた、そうありたいと思う夜だった。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートは私の励みになり、自信になります。
読んでくれて、ありがとうございます。