ビザ失効のカウントダウン、すがりついたアーティストビザの話【NY回想録 #3 】
T社をクビになったのは、J-1ビザが切れる直前のことでした。私は必死になって、次なる雇用主を探し始めました。
毎日どこかしらに応募したり、大学の同級生に相談したり。さらには在学していた頃に教わっていた先生と約束を取り付けて相談に乗ってもらったりと、自分にしては信じられないほど積極的に動かざるを得ない状況でした。
だけど、もう時間がありません。一般の雇用ビザ(H-1B)は絶望的かもしれない……。
そう思い、私は同時にO-1(アーティストビザ)を狙うことにしたのです。
当時のO-1ビザは、ちょうどその一年前くらいまでは「誰でも取れるビザ」として有名だったほど、取得が簡単なものでした。私の周りにも、売れっ子のアーティストだけでなく、「自称」レベルのアーティストや、専門学校を出てインターンをしているような子でも取得しているのを何人か知っていたからです。
ところがその年は、すでに政府が「どうやらO-1を簡単に発給しすぎた」と気づいたのか、以前に比べて取得が非常に難しくなったという噂が流れていました。そして私はその後、その噂が本当であることを思い知ることになるのです。
有頂天になったあの日
O-1のような、雇用主(スポンサー)を通さないビザを申請する場合、すべては弁護士選びから始まります。
通常であれば、まずは無料、もしくは1時間50〜200ドルほどのカウンセリングを何人かの弁護士と受けてから決めるのが普通だと思います。ですが、当時の私は深く考える余裕もなく、他の日本人から聞いた「ビザ取得成功率100%」を謳うとある弁護士さんに依頼することにしました。教えてくれた日本人によると、実際に知り合いが彼女に頼んでビザが取れたとのことでした(そのビザの難易度などは詳しくわからなかったのですが)。
その弁護士さんのオフィスへ行き、状況をすべて話した後のことです。
「いけると思います」
そう言われ、私は安堵と喜びで有頂天になりました。調子に乗って帰り道、その足で一人で柄にもなくスポーツバーへ行き、カウンターで隣り合わせた見知らぬおじさんとヘラヘラ笑いながらラムコークを飲んだのを、今でもよく覚えています。
ちなみにアメリカはビザの申請中であれば、結果が出るまではJ-1ビザが切れていてもオーバーステイ(不法滞在)にはならないシステムでした。それも私の心を楽観的にさせていた理由の一つでした。
自分じゃないみたいだった日々
弁護士さんにポジティブな言葉をもらったとはいえ、O-1ビザの準備が大変なのは事実でした。取得できるか否かは別問題として、とにかく準備がもの凄く面倒なのです。特に私のような、人に頼るのが苦手な人間にとっては地獄のような作業でした。
簡単に言うと、著名な人たちから「推薦状をかき集める」ことが必要なのです。政府に「自分はこのような人たちから推薦状をもらえるくらい、すごいアーティスト(デザイナー)なのだ」と如何にアピールできるかが重要になります。
そこからの私は、かつてないほど積極的に、自分なりに社交的に動きました。
デザインのグループ展を企画して開催したり、単発でフリーランスとして働いた会社の中の1つがそこそこ有名なブランドだったので、「社長(創始者)に会いたい」と上層部に掛け合ったりもしました。まあ、「社長は滅多にここに来ないし、忙しいから」と、やんわり断られてしまったのですが……。本当に、普段の自分からは想像もつかないくらい、なりふり構わず動いていました。
ですが、今思えば、結果はともあれ「やってよかった」と心から思えることがあります。
あの時、必死に動いたからこそ出会えた友達や、新しく築けた人間関係が確実にありました。あの泥縄のような準備期間の中で得た繋がりは、今でも私の大切な財産になっています。
なんとか昔の雇用主やギャラリーオーナーから推薦状をかき集め、作品集やウェブに載っているすべての作品を証拠として準備し、申請は完了しました。あとは待つだけです。
あの時の私は、けっこう楽観的に考えていたのだと思います。「弁護士の先生の成功率は100%だし、いけるって言ってくれたし」と。
国からの拒絶と、半年間の猶予
しかし、政府から届いた結果は、私にとって冷や水を浴びせられるようなものでした。レターに書かれていた内容は、簡単に言えばこうでした。
「あなたが『優秀なアーティスト』であることを示す証拠が、現時点では十分ではありません。追加の証拠を提出してください」
頭を殴られたような心地のまま、追加料金を支払って、証拠をさらにかき集めて提出しました。
しかしそれでも、二度目に届いた結果は非常に非情なものでした。
「Denial(ビザ発行拒否)」
追加資料も含めて審査した結果、要件を満たしているとは認められません、という最終宣告でした。
終わった……。
それはまるで、一方的に突きつけられた別れ話のようでした。
あんなに憧れて、あんなに片思いをして、ここで生きていくために必死にしがみついてきたのに、大好きなニューヨークから、アメリカという国家から、「お前はここにいる価値がない」と、はっきりと拒絶されたような、そんな身を切られるような切なさと苦しさが、胸の奥に広がっていきました。
H-1Bビザももう間に合わない中、O-1ビザの道も絶たれ、J-1ビザはすでに切れていました。基本、ステータス(合法的な滞在資格)を失った後のアメリカでのルールは以下になります。
180日を超えて1年未満の不法滞在後に出国すると、その後3年間は再入国できない対象になる。
1年以上の不法滞在後に出国すると、その後10年間は再入国できない対象になる。
つまり私はここから「半年以内」に国外に出なければ、立派なオーバーステイ、国から拒絶された不法滞在者となってしまうのでした。
日本に帰るか、それとも。。。
そして私はついに、昔の自分には絶対に想像もできなかった、「その決断」をすることになるのです。
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