若い神と老いた女神と人間
「あなたは、何もできませんよ。川へ行こうとする人を、止めることはできません。だって、あの人は川に向かって一心に向かっているんですから。海の深さ、山の高さを知ったところで、どうなりますか。行かせときなさい。行きたいように行かせなさい」
「でも、あの人、死にたがっているんですよ。悲しいじゃないですか。なんで悲しいのか知らないけれど… 死んでほしく、ないじゃないですか。見れば、まだお若い。いや、中年、かな。この下界の国は、平均80年ほど生きるそうです。ほら、あと何十年も生きたくないなんて仰っている。今が、イヤなのかな。今がイヤで、先のこともイヤになっちゃったのかな」
「放っておきなさい。あっち側の岸辺に行けば、分かりますよ。そう、この世は苦しい。生きていることは悲惨だ。彼は、正しいんです。何も呼び戻すことはありませんよ。本人だって、分かっていらっしゃる。強くない自分がいけないのだと。弱い自分がダメなんだと。これが自分の運命なのだと思っていらっしゃる。そう思う、彼の自由です。誰も、彼の自由を奪うことはできません」
「でも、ああ、もう片足を踏み入れてしまった! かわいそうに、泣いている! 死にたくなんかないんだ、ほんとうは。でなけりゃ、嬉しそうにするものでしょう? でも、泣いている。悲しそうに、泣いている…生きたいんだ、ほんとうは。ほんとうを、嘘のほんとうに塗り固めてしまったんだ。どうしたら助けられる? ぼくはどうしたら…」
「あなた、人が人を救うことなんて、できませんよ。誰もが、自分にとって、自分が貴重なものなんです。地獄の血の海で喘ぐ人々に、一本の蜘蛛の糸が下りてきた物語、あの糸は、ひとりひとりが頭の中でつくった幻影でした。あまりにも苦しいので、皆が同じ幻影を見たのです。集団になって、重みに耐えられなくなった糸、あれが切れたのも幻でした」
「そうだったんですか。 じゃあ、この世は? 人間社会って、集団でしょう? 人間って、集団で生きているんでしょう? そこからこぼれ落ちた人が、ダメな人間なんだって、みんな言ってるみたいですよ」
「嘘なんですよ。みんな、自分ひとりのことで精一杯なんですよ」
「ああ、もう胸まで浸かっている! 見ちゃいられない」
若い神は天から舞い降り、川に入った男を救おうとした。
老いた女神の声がする。「わたし達の声も聞こえない人間の、その手をつかめるわけないじゃないの…」
