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最後の人

 30年間、その男は、基本的に自室から出なかった。母に、朝昼晩と飯を作らせ、彼の部屋に持って来させた。けっして顔は合わせない。ドアの前に置き、母が2回ノックする。そして母が引き下がると、彼は盆にのった炒飯やらスープやらに舌鼓を打つのだった。
 彼の部屋は二階にあり、トイレもその廊下にある。彼が階段を下りるのは、一週間に一度入る風呂の時だけだ。それも、家族と会うのを避けるため、皆が寝静まった深夜に入浴した。
 年頃の妹の結婚にも、この兄の存在は決定的な障害になっていた。ひきこもりの兄がいるだけで、家全体が彼に引っ張られていた。父は脳梗塞で既に死んでおり、家の経済は、この妹のアルバイト収入と、老いた母の年金だけだった。

 ある日、彼は家の中が静か過ぎることに気がついた。耳を澄ますと、近所も静かだ。往来の人間の気配、動く音、空気の振動のようなものが皆無なのだった。
 30年振りに、彼は一階の茶の間に行ってみた。誰もいない。テレビをつけてみた。
「○○ウィルスにより、また人類の総人口が…アメリカでは×万人の死亡者、インド、中国では過去最多となる…○×島では、依然生存者が確認されず…」
 彼は、あわてた。社会と断絶して30年。 人間が、この世からいなくなる!恐慌に駆られ、家を飛び出した。誰もいない。みんな死んでしまったんだ。ウィルスとともに!

 途方に暮れる彼に、道の向こうでヒトの歩く姿が見えた。ああ、人間だ、まだ生きている人間がいた…
「おおい!おおい!」涙をふりまいて、彼は走りだした。
 彼の家から1キロほど離れた所に、彼同様に引きこもり生活を送る女がいたのだ。歳も、たいして変わらない。彼女も、彼を見つけると涙をこぼして、彼に向かって走り出した。
 スネかじり。怠け者。役立たず。人非人。家族や親戚からそのように見られ、ずっと引き籠っていたふたりが、子孫をたくさん残し、創世記の第二部を創造した。