なんでもない日専門店
裏通りの角に、その店はありました。
ええ、気づかない人には見えません。
そういう店です。
中へ入る前に、私は硝子戸に映った自分の襟元を少し直しました。
誰に見られるためでもありません。
そういう場所へ入るときは、自分のほうも少し、値札のついたものになる気がして。
扉には、金の細い文字でこう書かれていました。
なんでもない日専門店
おかしな名前でしょう。
でもね、世の中は、誕生日だの、記念日だの、祝祭日だの、名前のついた日ばかりを大事にしすぎるのです。
名前のない日にも、値打ちはあります。
むしろ、名前がついていないぶん、取り扱いには気をつけなくてはいけません。
私は手袋の指先をつまんで、片方だけゆっくり外しました。
それから、扉を押しました。
ちりん。
古い鈴の音が、眠っていた空気をゆらします。
だれかが昔、聞きそびれたような、ありふれていて澄んだ音でした。
店内には、懐中時計、片方だけの手袋、口紅の跡が残ったティーカップ、誰にも渡されなかった手紙が並んでいました。
壁は熟れすぎたような深い葡萄色。
照らすものを優しくなでる蜂蜜色の灯り。
空気は、古い香水と、秘密を開けたあとのスパイシーな香りを含んで漂っています。
奥から出てきた店主は、孔雀色のベストを着た細い男でした。
帽子には、枯れた薔薇と、小さな値札が刺さっています。
「いらっしゃいませ。本日は、どのような何もない日をお探しで?」
私は笑いました。
笑うまでに、少しだけ間を置きました。
返事を急ぐと、こちらの値段まで安く見られてしまいますもの。
「何もない日を、探すの?」
「ええ。探さずに手に入るものほど、失くしやすいのでございます」
「ずいぶん贅沢ね」
「まことの贅沢は、何もない顔をして現れるものでございます」
嫌なことを言う男でした。
でも、嫌なことをきれいに言う人って、少しだけ耳を貸してしまうものでしょう。
「使い道が分からないわ」
そう言って、私は硝子棚の上に置かれた小さな缶を、爪の先でそっと弾きました。
ことん。
小さな音がして、店主の目が細くなりました。
「使うものではございません。何もない日は、置いておくものです」
「置くの?どこに」
「棚の隅に。ポケットの底に。手帳の白い余白に。あるいは、胸の奥の、誰にも見せない引き出しに」
「そこはもう、いっぱいよ」
「皆さま、そうおっしゃいます」
店主は硝子棚から、小さな箱を取り出しました。
くたびれたリボンがかかっています。
札には、こうありました。
午後三時すぎ、理由のない安堵
価格:期待はずれのため息二つ、または送信できなかったメッセージ一通。
「人気商品です。紅茶によく合います」
「少し高いわね」
私は値札を指先で持ち上げました。
薄い紙なのに、いやに重い。
「安いものは、効き目もそれなりです」
「嫌な言い方」
「お気に召したでしょう」
私は答えませんでした。
答えないことが、いちばん上品な返事になる場合もあります。
次に店主が見せたのは、薄桃色の封筒でした。
駅までの道で、なぜか空がきれいに見える日
価格:昨日の後悔ひとつ。
「後悔なら、余っているけれど」
「余りものを出してはいけません。後悔は古くなると膨らみます」
見ると、天井近くに灰色の風船がいくつも浮かんでいました。
ひとつには、「言いすぎた」と書いてあり、
もうひとつには、「言わなかった」と書いてありました。
人は、どちらにしても膨らませるものなのですね。
なんてわがままなのかしら。
「もっと甘いものがいいわ」
すると店主は、いちばん奥の棚から、小さな丸い缶を持ってきました。
壁の色よりも少し透明な葡萄色の缶でした。
金色のふちどりが特別を思わせて、蓋の文字がそれを笑っているみたいでした。
なんでもない日 一日分
効能:生活に支障のない程度の不思議。
注意:夜中に蓋が開くことがあります。
私は缶を手のひらに乗せました。
軽くて、それでいて温度があります。
まるで、さっきまで誰かが胸元に隠していたものみたいに。
「生活に支障が出るものもあるの?」
店主は、黒い布のかかった棚を見ました。
私もつい目で追って、
そして、見なかったふりをしました。
そういう仕草は、たいてい失敗します。
札だけは、読めてしまいました。
完璧になんでもない日
開封後、本人の意味が薄くなるおそれがあります。
「それは、売れているの?」
「ええ。よく売れます」
「なぜ?」
「皆さま、意味に疲れていらっしゃるようで」
店主は、声だけで微笑みます。
私は葡萄色の缶を買うことにしました。
代金は、けさ見た夢の、最後の場面。
どうせ覚えていなかったので、安い買い物だと思いました。
店主が銀の匙を差し出してきて、私はしずかに目を閉じました。
夢の最後の場面をすくわれる感覚は、少し冷たく、霧のようにくすんでいて、昔の恋文を燃やしたときの煙に似ていました。
でも、ほんの少し甘い。
覚えてもいないくせに、無くした途端に惜しく感じます。
みんな、そうでしょう?
「忘れているものほど、上物でございます」
店主はそう言って、匙の中身を小さな硝子瓶へ移しました。
瓶の中で、私の忘れた夢が、金色にひとつ瞬き落ちていきました。
店を出ると、外はいつもの裏通りでした。
鉢植えは傾き、自転車は錆びた音を立て、空は灰色に陰っています。
何も起きませんでした。
いいえ。
正確にいうなら、何も起きないことが、少しだけ艶やかでした。
家に帰って、私は缶を机の上に置きました。
開けるつもりはありません。
置いておくものだと言われたのですから。
けれど夜になって、机の上で小さな音がしました。
コト。
缶の蓋が、ひとりでに開いています。
中には、昔の切符ほどの大きさの小さな午後が入っていました。
薄く、甘く、何の役にも立たない午後です。
私はそれを、手帳の白いページにはさみました。まだ何も書かれていない空白の日。
翌朝、そこには金色の文字が、ひとつ浮かんでいました。
おめでとう。
ただそっとそれだけ。
あらいやだ。
何もないのに特別な日みたい。
