見出し画像

涙と共に種を蒔く人は

涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

詩編 126:5-6


先日は永眠者記念礼拝だった。
つい普段の礼拝の延長線上の気分で来てしまったが、入ってみるといつもよりずっと多くの方が見えていて驚いた。

キリスト教を信じる人が亡くなったときに発生する具体的な手続きを一切知らない私は、その圧倒的な場違い感に来なければよかったと一瞬後悔したが、来てしまったものは仕方ないのでそのままこそこそと出席した。
私の知らない世界はまだまだ多くある。





大学三年の冬、高校でとてもお世話になった先生の訃報が届いた。
音楽科の担当で、私が活動していた合唱部の顧問でもあった。

どう考えても、自分の親よりも若い恩師が亡くなっていいタイミングではなかった。

確かに私が在学していた当時から体が弱くてよく病院に行っている様子ではあったけれど、その年の夏の定期演奏会で指揮をされているのを見たばかりだったので、到底信じられなかった。
来年も定演で姿を見れるのだと当然のように思っていた。


大学生活の終わりに私は客観的に見てあまりよくない精神状態に陥り、四年生がやってはいけないことを全部やるようなやけを起こしていたのだが、その遠因のひとつでもあったように思う。

大好きなあんなにいい先生が早く亡くなって、なんで自分が生きているんだと、わりと本気で思っていた。





それから時が経ち、私は当時の自分を慰めるような気持ちで祈りの言葉と説教を聞いた。

恩師の葬式は仏教のそれだったので、「亡くなった人々があなたのみもとにいることを、あなたのみ国で平安を見出したことを信じます」という祈りに恩師を重ねるのは、そうだったらいいな、くらいのものだとしてもあまり褒められたことではないかもしれない。

しかしここで重要なのはどんな形かではなく、どんな形であれ、残されたわたしたちがいなくなった人の幸せを祈り、それを通して救いを見出すことだと信じている。


聖書の中で、何かの比喩として「種まき」が用いられる箇所はいくつもあるが、なかでも冒頭に載せた詩編126編の一節が私は好きだ。
内容がそれ単体で完結していて(文脈の説明が必要なく)分かりやすいのもあって、もしも今だれかに好きな聖書の言葉を聞かれたらたぶんこれを答えると思う。

尤も私はこの一節をもっと人生の普遍的な話として読んでいたので、ブラームスのドイツ・レクイエムの歌詞に使われているとこの日の説教で知ってから見え方が少し変わった。

きっと私もあのときに悲しみの種を蒔いていて、時間をかけて大きく育ったそれが今まさに目の前にあるような、そんな気がしてくる。




(Wikipediaにレクイエム全体の歌詞と日本語訳が載っているので参考までに。くだんの詩編の一節は第一曲にある)

いいなと思ったら応援しよう!