犬の最後
2026年1月22日、愛犬が亡くなった。
10歳4ヶ月だった。
尿路結石から尿道を作る大手術をした後、てんかんのような発作が起こり、約半年間の闘病生活を送った。
手術後5日ほど入院し、最終日に発作でかなり危うい状態になった。
しかし、そこから奇跡的に回復した。
トップの写真は、回復した後大好きなカフェに家族で出かけた時のものだ。
また一緒に出かけられるのが本当に嬉しかった。
そして2025年年末。
わたしがインフルエンザに罹り、その時はずっと側にいてくれていた。
治って活動再開、というところで犬は前庭疾患というめまいと眼振を伴う発作が起こる。
1度目の奇跡があったから、飼い主は「今回も必ず回復できる」と信じていた。
でも、2度目の奇跡は起こらなかった。
犬を飼おうと決めた日
10年前、犬を迎えたとき、私は転職したての会社で社風もパワハラ気質の上司ととにかく合わず、毎日が憂鬱だった。
夫婦で「いつか犬を飼いたいね」と話しつつ、きっかけがないまま先延ばしになっていた。
しかし、仕事で病みかけていた私を見かねたのか、夫が「犬を飼おう」と言い出した。
それでうちに来たのがパグのダリルだ。

愛らしくてたまらなかった。
毎日会社が地獄で、人間関係も何もかも嫌で嫌でたまらなかった。
だから、犬は「愛されることしか知らない世界」でいいと思った。
近所の人、宅配の人、友達・・・出会う人みんなに可愛がってもらうように努めた。夫婦でもたくさん愛情を注いだ。
パグという犬種の性質も相まって、人が大好きで、愛嬌があって、頑固だけどとても気立てのいい犬に育った。
家ではそれなりにわがままだったけど、要求吠えなどは全然しない犬だった。
外では特に周りの空気を読んで愛想よく振る舞う。
トリミングや病院などどこに預けても
「とてもいい子でしたよ!」
としか言われなくて、飼い主として本当に誇らしかった。
散歩先で、子供が「犬に触りたい」と言ったら、犬は私の顔をチラッとみて(子供は雑なとこがあるからちょっと嫌だけど)という表情をしながらも、おとなしく子供に触らせてあげたりもした。
そうすると私が喜ぶのを知っていて、私の期待に必ず応えようとしてくれているのが分かった。
男の子だし、強くあって欲しいという願いもあった。
なので、名前は、当時人気だったゾンビドラマ「ウォーキングデッド」で一番強くてかっこいいキャラクターの「ダリル・ディクソン」からとった。
しかし、一歳になる前に実家のチワワに追いかけられて、そこから犬が怖くなってしまった。

「強くはならなかったかな」と思いつつも、健康で元気でいてくれればそれで十分だった。
強くはなくても「愛されることに自信しかない犬」にはなったと思う。
甘えん坊で気立てがよくて人が好き。
パグらしい愛嬌たっぷりのダリル。
安らかではない最後
ペットの看取りでは、よく「安らかな最後」という言葉をよく聞く。
うちも安らかな最後を望んだが、ダリルの最後は安らかではなかった。
年末からほぼ夜中は発作で一晩中息が荒く、最後の最後まで生きようと苦しんで亡くなった。
亡くなった直後は、自分が無理をさせて頑張らせて苦しめたのではないかと思い、かなり後悔した。
私が治ると期待したから、ダリルは無理をして苦しんだのではないのかと。本当は安らかに逝きたかったのかもしれない。
私が苦しめたのではないか。
でも、亡くなってから数日経ってから、彼が「今を生きよう」と必死で生命力を振り絞っていたのだと分かってくる。
犬は今を精一杯生きる。
人間のように未来の心配などしない。今しか見ていない。
ダリルは強い犬だった。
強くあってほしいと願ってつけた名前のとおりの犬だったことを、今になって知る。
「絶対にこれから良くなるはずだ」
介護中、飼い主はそう信じて疑わなかった。
だって、半年前だって回復したくれたのだから。
それゆえに、介護中も弱った犬を励まし続けて食べさせ、薬を飲ませ、排泄介助をした。
そうすれば、前みたいに回復して、元気いっぱいとまでは言わなくても、また日常を一緒に過ごせるようになるのだと思っていた。

ダリルは生まれつき肝臓が小さく、昨年大きな手術をしてから、肝臓でうまくアンモニアを濾過できない。
薬がないと毒素が回ってアンモニア中毒になり、発作が起こるようになっていた。
その毒素を分解するための薬を飲ませること、抗生剤で体内の炎症を抑えることが最優先だった。
薬だけでは飲んでくれないから、薬を飲ませるに一緒にご飯を食べさせないといけない。
悪化してから、毎日が必死だった。
必死すぎて「犬の病状が実はかなり悪い」ということを認めることができなかった。
後から思えば思うほど、犬の病状ははるかに悪かった。
食欲はどんどんなくなっていく。
犬は苦しい中で、私たちの期待に必死で応えて食べようと最後までがんばった。
そういえば、秋頃の血液検査の結果は非常に悪くて真っ赤(異常値が多い常態)だった。
医者は
「これだけ悪いと相当気持ち悪いはずだけど。なんともないような顔してますね」
と話していた。

ダリルは半年前の手術の後に5日間入院した。
うちは夫がずっと在宅仕事だったため、1匹でお留守番をして過ごすことがほぼなかった。
それゆえか手術で痛く苦しい思いをしながらの入院が相当堪えたみたいで、かなり寂しがった。
これまで「クゥーン」と鳴いたことなどなかったのに、お見舞いに行って別れ後には毎日クンクン鳴いていたと看護師さんから聞いた。
切なくてたまらなかった。
その5日目に犬は初めての発作を起こした。
寂しさとストレスが限界だったのだろう。
私の目から見ても「もう大きな手術や入院は無理だ」とわかった。
またダリルも、もう家族と離れたくなくて、入院が嫌で、病院では特に元気そうに振る舞って平気なふりをしていたのだと思う。


犬の頑張りに気づくたびに、その健気さに心を打たれる。
同時に「限界まで頑張らせてしまったのではないか」「もっとできることがあったのではないか」という後悔が押し寄せる。
私はこれまで、何事も一生懸命やるのがいいことだと信じてやってきた。
一生懸命やることをやらずに後悔する人生はいやだ。一生懸命やれば、結果的にうまくいかなくても後悔はしないはずだ。
これは私の信念でもあった。
でも、どんなに一生懸命やっても、目の前の愛するものは苦しむ。
一生懸命やればやるほど犬も応えようと限界まで頑張って苦しむ。
信じていたものがそんなに単純ではなく、真実でもないことを思い知る。
所詮、未来の後悔の不安を先取りして、今を一生懸命になってるつもりに過ぎなかった。
犬が亡くなる前は自分の未来の不安ばかりを見て、亡くなった後は、過去の後悔ばかりを見ている。
不安を前提に動いても、何をしたってずっと不安が続くだけだ。
こんな自分にはもううんざりだった。
(続くかもしれない)
