「千利休は切腹せず、加茂地域に隠棲した」 矢筈城跡の県史跡指定20周年記念講演会
岡山県指定史跡「矢筈城跡」の指定20周年を記念した講演会が7月5日、津山市加茂町塔中の加茂町公民館大会議室で開かれる。
茶聖として知られる千利休は切腹せず、黒田官兵衛の助けを受けて九州へ向かう途中、加茂町物見に一時身を寄せていた――。講演会では、史料や地域に残る史跡、伝承をもとにした利休生存説などが紹介される。
講演会は2部構成。
第1部では、矢筈城跡保存会理事の草苅啓介さんが「矢筈城跡調査・研究最前線」と題して基調報告する。鶴山吟友会加茂支部による詩吟「矢筈山」と、民謡舞踊の会による舞踊「矢筈城懐古」も披露される。

第2部では、文教大学教授の中村修也さんが「千利休の切腹と黒田官兵衛―利休切腹の真実―」をテーマに記念講演する。
一般に、千利休は豊臣秀吉の命令を受け、1591(天正19)年に切腹したと伝えられている。 一方、中村さんは、当時の公家の日記などに、利休が切腹したことを直接示す記録が確認できないことに着目。さらに、利休が切腹したとされる翌年の1592(文禄元)年、朝鮮出兵のため九州の名護屋城にいた秀吉が、母・大政所の侍女に宛てた手紙に「利休の茶を飲んだ」とする記述があることなどをもとに、利休は切腹せず、堺を追われた後、黒田官兵衛の案内で九州へ渡ったとする説を唱えている。
加茂町物見には、「利休屋敷跡」と伝わる場所や、利休の末裔とされる「千八兵衛の墓」が残っている。元日の朝に抹茶を点てて味わう風習も地域に今なお伝わっている。 草苅さんは、こうした史跡や伝承から、九州へ向かう途中の利休が一時、物見に隠棲していた可能性があると考えている。
物見の近くには、草苅氏が本拠とした矢筈城がある。
草苅さんによると、豊臣秀吉が黒田官兵衛に矢筈城の受け取りを命じた際、官兵衛が物見に陣を置いた可能性があるという。土地の事情を知る官兵衛が、後に利休をかくまった場所が「利休屋敷跡」ではないかとみている。
草苅さんは「歴史ロマンとして語られていた話が、調査を重ねることで、限りなく史実に近づいてきました。講演会を地域の活性化にもつなげたい」と話している。
主催する矢筈城跡保存会は当日、矢筈城の御城印を会場で販売する。 御城印は縦16センチのカラー印刷で、本丸があった矢筈山山頂を描き、草苅家の家紋「九曜紋」を金色であしらった。1枚税込み500円。

講演会は午後1時開会。受け付けは午後0時15分から。入場無料で、定員は先着100人。問い合わせは矢筈城跡保存会の能勢信一会長(電話090・4696・6553)。
