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ノーサインの背番号|第4話:「分析部屋の灯り」

紅白戦から数日が過ぎても、大河内との一件は俺の中で消化しきれずにいた。

 練習中、ふとした瞬間に彼の広い背中を目で追ってしまう自分に気づくたび、情けなさと悔しさが半分ずつ胸を占める。

 それでも足は止められない。ノックを受け、声を出し、汗を拭う。

 止まっている暇なんて、この学年にはなさそうだった。

 その日の全体練習の締めくくりは、二年生を交えた紅白戦形式のシート打撃だった。

 マウンドには桐生ではなく、二年の先輩投手が立つ。

 俺はまだ一年でマスクを被れる立場になく、ネット裏でバットを振る同期たちを眺めていた。

「棚橋、お前さっきから配球ばっかり見てるな」

 声をかけてきたのは、隣で守備練習の順番を待っていた白石蛍だった。

 一年生でありながら、すでに二年生からも一目置かれている遊撃手で、声の通りが良く、目つきに落ち着きがある。

 俺たちの学年の中では、誰よりも先に「試合を俯瞰する目」を持っている選手だという評判だった。

「バットは振れないからな。せめて頭は動かしとかないと」

「変な奴だな。でも――」

 白石は少し言葉を切って、グラウンドの方に視線を戻した。

「さっき、二死満塁の場面で、お前だけ先にセカンドの方見てたろ。あそこ、内野ゴロなら封殺のタイミングだった。あれ、狙って見てたのか」

 俺は一瞬、答えに詰まった。無意識のうちにやっていたことを、正確に言い当てられたからだ。

「……たぶん、癖だと思う。バッターのスイングの重心見てたら、勝手に次の絵が浮かぶんだよ」

「へえ」

 白石はそれだけ言うと、それ以上は追及してこなかった。

 ただ、俺を見る目の中に、それまでとは違う色が一瞬灯ったのを、俺は見逃さなかった。

 品定めをされている。そう感じたが、悪い気はしなかった。

 練習が終わり、道具を片付け終えた頃には、グラウンドにはもう自分たちの学年しか残っていなかった。

 校舎の隅、視聴覚準備室を間借りした小さな部屋――部員たちが「分析部屋」と呼ぶその場所に、灯りが点いているのに気づいたのは偶然だった。

 覗いてみると、詩織が古いビデオデッキの前で、紅白戦の録画を巻き戻しては止め、巻き戻しては止めしていた。

 机の上には、あのびっしりと記号の詰まったスコアブックが開かれたままだ。

「まだ残ってたのか」

「棚橋くんこそ。荷物、忘れ物?」

「灯りが点いてたから、気になっただけだ」

 言い訳のような台詞に、詩織は片眉を上げたが、何も言わずに椅子をもう一つ引き寄せてくれた。

 俺はその隣に座り、画面に映る紅白戦の映像を眺めた。

 四回、外角低めを要求した場面だった。

「これ、何度も見てるのか」

「うん。記号だけだと、後で見返したときに、自分がどう感じてそう書いたか忘れちゃうから。映像と照らし合わせて、記号の意味を固めてる」

 彼女は画面を止め、打者の重心が微妙に前へ寄っている瞬間を指さした。

「ここ。棚橋くんが外角要求した理由、たぶんこれだよね」

「……そうだ。だけど、よく分かったな。俺だって、言葉にしろって言われたら難しいのに」

「何度も見てれば、誰でも分かるようになるよ。特別なことじゃない」

 詩織はそう言ったが、俺は知っていた。

 これだけの映像を、これだけの粘り強さで見返す人間は、そう多くない。

 誰に頼まれたわけでもないのに、納得できるまで手を止めない。

 それは決して「誰でも」できることではなかった。

 しばらく、俺たちは無言で映像を見返した。

 ビデオデッキの駆動音と、詩織の鉛筆が紙をこする音だけが、狭い部屋に満ちていた。

 窓の外はすっかり暗くなり、グラウンドの照明だけが遠くに白く浮かんでいる。

 妙に落ち着く時間だった。

 誰かと並んで、同じ画面の同じ一瞬を見つめる――それだけのことが、こんなに心地いいとは思わなかった。

 沈黙を破ったのは、廊下から響いてきた足音だった。ドアが開き、顔を出したのは鬼頭監督だった。

「まだ残ってたか、二人とも。感心だが、根詰めすぎるなよ」

「すみません、もうすぐ終わります」

 詩織が慌てて答えると、監督は小さく頷き、それから思い出したように言葉を継いだ。

「ああ、そうだ。来月の練習試合の件、部長会議で決まったぞ。相手は――桜洋学院だ」

 その一言で、部屋の空気が変わった気がした。桜洋。

 円城寺樹がエースを務める、県内でも指折りの強豪。

 俺と円城寺が「いつか同じ舞台で戦おう」と誓った、あの相手だった。

「一年生からも何人か、ベンチ入りさせる予定だ。棚橋、お前も候補に入ってる。大河内と、どっちを使うかはまだ分からんが」

 監督はそれだけ言い残すと、電気を消し忘れるなよと釘を刺して部屋を出て行った。

 俺はしばらく、閉まったドアを見つめたまま動けなかった。

「棚橋くん?」

「……いや。ちょうど会いたかった奴と、思ったより早く再会できそうだと思ってさ」

 詩織は不思議そうに首を傾げたが、俺はそれ以上説明しなかった。

 円城寺との約束。大河内との肩の差。

 そのすべてが、来月の一戦に向かって、静かに動き出した気がした。

 分析部屋の窓の外、グラウンドの照明が、いつもより少しだけ眩しく見えた。

(第5話へ続く)

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