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ある依頼

空からは、絶え間なく有毒な雪が降り続いていた。

それは遠い昔、人類が自らの手で引き起こした気候激変の名残だった。地表は厚い雲に覆われ、冷たく、そして静かだった。かつて緑に溢れていたという大地は、今や見渡す限りの白い荒野となっている。

人類の大半は、はるか地下深くに築かれたシェルター都市で暮らしている。太陽の光も風の匂いもない、完全な人工環境だ。いつの日か再び地表に戻ることを夢見ながら、彼らは世代を重ねていた。

若い女は、そんな地表にポツンと建てられた観測基地で、たった一人で暮らしていた。

彼女の仕事は、環境再生プラントを管理し、地表のデータを収集することだった。分厚い防護服を着て外へ出て、雪や土壌のサンプルを採取し、また基地へ戻る。来る日も来る日も、その繰り返しである。

孤独な任務だったが、彼女に不満はなかった。彼女は地表の広がりを愛していたし、何より、自分の仕事が未来の地球を作る一部なのだという誇りを持っていた。

地下都市との通信は、極めて困難だった。

何千メートルもの分厚い岩盤と、地殻に含まれる特殊な鉱脈が強力な電磁気異常を引き起こしており、通常の電波はまったく使い物にならない。唯一の通信手段は、物質を透過する素粒子を利用したニュートリノ通信機だけだった。

しかし、その通信速度は絶望的なほど遅かった。本来なら何万トンもの巨大な純水タンクが必要な受信設備を、地表の小さな観測基地に押し込んでいるのだ。素粒子のほとんどは検出器をすり抜けてしまい、数億回に一度の稀な衝突だけを拾い集めて「0」と「1」に変換していく。

一日に送受信できるデータは、せいぜい数十バイト。文字にすれば、ほんの数文字分にすぎない。現代の感覚からすれば、のろしや伝書鳩のほうがまだマシかもしれない。

ある日のこと。
通信機の受信ランプが、ゆっくりと点滅を始めた。

『い』
『つ』
『か』……

一日に一文字、あるいは二文字。暗号化されたデータパケットが少しずつ解凍され、スクリーンに文字列が滲むように浮かび上がる。
彼女は毎日、その文字が刻まれるのを辛抱強く待った。

気の遠くなるような時間をかけて、相手が削り出すように送ってきたメッセージ。それは、彼女が学生時代に師事していた、初老の気候学者からのものだった。
地下都市の環境維持局で重鎮となっている彼が、限られた通信インフラの権限を使ってまで地表の彼女へ送ってきた、いわば「仕事の依頼」である。

一週間が経ち、十日が経ち、ようやくひとつのまとまったデータファイルが完成した。

彼女の脳裏に、地下都市での記憶が蘇る。
常に安定した人工太陽の光しか知らなかった少女時代の彼女に、ホログラムのアーカイブを見せてくれたのは彼だった。
「昔の地球には、季節というものがあったんだ。秋になると、木々は燃えるような色に染まった」
老学者が指差した映像の中では、見渡す限りの森が鮮やかな黄金色に輝き、風に揺れていた。本物の太陽の光が、どれほど温かく、世界を美しく照らしていたか。彼女にそれを教えてくれたのは、他ならぬその恩師だったのだ。

数十バイトという極小の容量で送られてきたのは、既存の環境データベースに登録されたある植物の指定IDと、そこへ上書きするためのごく僅かな改変パッチのデータだけだった。そして、地表の特定の座標にその種子を培養して撒くようにという、具体的な指示が記されていた。

彼女は試しに、基地の環境管理AIに「現在の地表における大気浄化と緑化の最適解」を問いかけてみた。

わずか数秒後、モニターに弾き出されたのは『黒褐色の藻類による地表被覆プラン』だった。有毒な環境でも繁殖し、最も効率よく酸素を放出するからだ。地表一面が、ヌルヌルとした黒い絨毯で覆われることになる。
AIは「効率」と「生存確率」しか計算しない。人間が求める「美しい景色」という文脈は、そこには存在しなかった。

だが、恩師からの依頼は違った。
データの最後に、短い文章が添えられていた。一日に数文字しか送れない貴重な通信容量を割いてまで、彼が伝えたかった言葉だった。

『いつか人が地上に戻る日。秋に黄金色に輝く森を見せたい』

彼女はスクリーンを見つめ、静かに息を吐いた。

これこそが、人間同士の仕事の依頼なのだ。単に「植物を作れ」という作業の指示ではない。そこには「なぜ、その作業が必要なのか」という、依頼者の切実な願いが込められていた。あのホログラムの景色を、未来の子供たちに現実のものとして見せたい。その想いが、分厚い岩盤を越えて彼女に託されたのだ。

彼女はすぐさま、依頼されたパラメータをもとに種子の培養準備にとりかかった。

ところが、作業を進めるうちに、彼女はひとつの致命的な事実に気がついた。

彼女は日課として、地表の最新の土壌データを採取している。そのデータと、恩師が指定してきた植物の生育条件を照らし合わせたとき、計算の不一致が生じたのだ。

地下都市にある環境データは、数十年前に計測された古いものだった。現在の地表は、当時よりも鉛やカドミウムといった重金属の汚染濃度がわずかに高くなっていた。

恩師の指示通りの遺伝子で種子を作り、地表に撒いたとしよう。
間違いなく、芽は出る。そして数年のうちは、彼の望み通りに秋になれば見事な黄金色に輝く葉をつけるだろう。

しかし、十年後にはどうなるか。
植物は土壌から有毒な重金属を限界まで吸い上げ、細胞死を起こす。やがて根から腐り、枯れ果ててしまう。彼が夢見た黄金の森は、わずか十数年で全滅する運命にあった。

彼女は作業の手を止め、考え込んだ。

言われた通りに作業をするだけであれば、簡単だ。指示された通りに種を撒き、「作業を完了しました」と報告すればいい。もし十年後に森が枯れたとしても、それは古いデータを元に指示を出した恩師の責任であり、作業者である彼女の責任ではない。

「言われたことだけを、正確にこなす」
それは一見すると正しい態度のように思える。だが、それは本当に「プロフェッショナルの仕事」と呼べるのだろうか。

彼女はスクリーンに映る『黄金色に輝く森を見せたい』という文字を再び読んだ。

恩師の本当の目的は、「一時的な黄金色の景色を作ること」ではないはずだ。
未来の世代が地上に戻ってきたとき、彼らを歓迎し、その先もずっと寄り添って生き続ける「命の象徴」を残すこと。それこそが、彼の真意に違いない。

彼女は決断した。

「このままではダメだ。私が、最善の形に書き換えなければ」

彼女は基地の実験設備をフル稼働させ、自らの手で遺伝子パラメータの再構築を始めた。

過酷な環境で生き抜く極限バクテリアから、特殊な金属結合タンパク質のDNA配列を抽出する。それを、恩師の設計した植物のゲノムに精巧に組み込んでいく。重金属を体内で無毒化し、むしろ自らの細胞壁を強化するために利用する、新しいシステムだ。

しかし、作業は困難を極めた。
シミュレーションを回すたびに、無機質なエラー音が実験室に響き渡る。タンパク質の折りたたみがうまくいかず細胞が崩壊するパターン、光合成サイクルが停止してしまうパターン。何万通りもの組み合わせを検証し、失敗するたびに微細な塩基配列の調整を繰り返した。

血を吐くような試行錯誤が何日も続いた。睡眠を削り、充血した目でモニターを睨み続けながら、彼女は現場の真実を知る者としての意地だけでコードを叩き続けた。

そしてついに、彼女は完璧な配列を完成させた。

これなら、重金属に汚染された土壌でも、枯れることなく千年先まで生き続けることができる。地球の毒すらも糧とする、完璧な環境適応型の樹木だ。

ただし、ひとつだけ妥協しなければならないことがあった。

極限まで効率化された重金属の代謝プロセスにより、葉の色素が根本的に変質してしまうのだ。
秋になっても、葉は黄金色にはならない。

恩師のたっての希望であった「黄金色」を、自分の判断で奪ってしまう。
それは、依頼に対する重大な違反とも言えた。地下で待つ彼は、色が違うと激怒するかもしれない。悲しむかもしれない。

それでも彼女に迷いはなかった。
枯れて消えゆく黄金よりも、千年続く命を。
現場のプロとして、未来に対する責任を果たすこと。それこそが、仕事を託してくれた相手への最大の敬意だと信じたからだ。

数ヶ月後。

彼女は完全密閉の防護服を着て、指定された座標の雪原に立っていた。
手には、彼女が自ら設計し直した無数の種子が入ったカプセルがある。

彼女がカプセルのボタンを押すと、種子は風に乗って白い雪の上へと散っていった。
それらはすぐに雪を溶かし、地中深くに根を張り始めた。

やがて春が来れば、有毒な雪を割って、力強い芽が顔を出すだろう。

そして秋になれば、そこには彼女が計算し尽くした景色が広がるはずだ。
土壌から吸い上げた重金属をその幹に抱え込んでいるため、木々はチタンのように鈍く重厚な光沢を放つ。そして、金属質に変異した葉は、分厚い雲の隙間から差し込む冷たい太陽光を乱反射し、まるで無数の氷の彫刻のようにシャラシャラと瞬くのだ。

恩師が愛した温かい黄金色ではない。しかしそれは、有毒な世界を生き抜く新人類の森としての、息を呑むほど凄絶で美しい「銀色」の姿だった。

基地に戻った彼女は、ニュートリノ通信機に向かった。
そして、地下で待つ恩師に向けて、事後報告のメッセージを打ち込み始めた。

『種まき完了。現地の土壌に合わせて仕様を変更。寿命は千年。色は銀色』

たったこれだけの文字を送るのにも、また何週間もかかるだろう。
彼からどんな返事が来るかはわからない。激怒するかもしれないし、悲しむかもしれない。

だがどちらにせよ、この種が芽吹き、巨大な森へと育っていく何十年、何百年という途方もない時間を、老齢の恩師が生き抜くことはできないのだ。
彼は、自分の目では決して見ることのできない景色を彼女に託した。
そして彼女もまた、完成した未来の景色を彼に見せることはできない。

しかし、彼女の心は不思議なほど穏やかだった。

ただ命令に従うだけの歯車になるのではなく、相手の想いを受け取り、自らの頭で考え、最善の形に作り変えて未来へと手渡す。

通信機の送信ランプが、ゆっくりと点滅している。
そのかすかな光は、何千メートルもの暗い岩盤を抜け、たしかに誰かの心へと届くはずだ。

彼女は窓の外を見た。
まだ何もない真っ白な雪原の向こうに、いつか風に揺れるであろう銀色の森の姿を思い描きながら、彼女は静かに微笑んだ。

地下からの数十バイトの依頼は、間違いなく彼女の手によって、千年続く銀色の希望へと翻訳されたのだ。
 


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