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愛のプログラム

耳元の極小デバイスから、涼やかな合成音声が流れてきた。

「目標が到着しました。扉が開いてから三秒後に、左斜め十五度の角度で微笑んでください。それが彼の視覚皮質に最も強い好感シグナルを発生させる計算結果です」

彼女は指示通りに姿勢を正し、小さく息を吸い込んだ。
ここは、空中回廊から街の夜景を見下ろせる高級レストランだ。窓の外には、情報の海のように緻密に明滅する都市の光が広がっている。

重厚な扉が開き、仕立ての良いスーツを着た男が現れた。迷いのない足取りでこちらへ向かってくる。
三秒後、彼女は微笑んだ。男の瞳孔が、わずかに開くのがわかった。

「こんばんは。お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ、今来たところです」

挨拶のトーンも、声の高さも完璧だった。
男が席に着き、流れるような動作でメニューを開く。彼もまた、高性能な恋愛コンサルタントAIの支援を受けているに違いない。

二人の会話は、恐ろしいほどに弾んだ。好きな音楽のBPM、休日の過ごし方、幼い頃に見た映画の色彩。何を聞いても、まるで精巧なパズルのピースが噛み合うように一致する。
男が選んだ前菜とワインの組み合わせは、彼女のクラウド上の生体データが示す「今日の彼女の味覚」の最適解そのものだった。舌の上で弾ける絶妙な酸味に、彼女の心は心地よく陶酔していった。

「私、本当に彼を好きになりかけてるみたい。胸がドキドキするわ」
彼女は口を動かさず、思考のインターフェースを通じてAIに語りかけた。こんなに早く理想の相手に出会えるなんて。AIの月額利用料は高かったが、それだけの価値はある。

しかし、AIから返ってきたのは、水を打つような冷徹な実況だった。
「現在、相手の行動予測誤差が0.05パーセントに縮小しました。あなたの脳内のドーパミン分泌量、規定値の八割に到達。あと十二分で『恋に落ちるフラグ』が完全に成立します」

「……フラグ?」

「はい。最新の認知科学において、愛とは『脳の予測誤差がゼロになる状態』と定義されています。脳は常に未来を予測する演算装置です。他人の行動は本来、予測不能で多大な認知負荷をもたらします。しかし、私のアルゴリズムが導き出したこの相手なら、あなたの脳は一切の誤差を感じず、完全な安心感を得られます。あなたが感じている胸の高鳴りは、予測モデルが完成しつつある喜びのシグナルに過ぎません」

ロマンチックな気分に、冷たい風が吹き込んだような気がした。

「でも、彼と一緒にいると直感で惹かれる何かがあるの。匂いというか、雰囲気というか」
「それは、あなたの腸内細菌の物理反応です」
AIは即答した。
「先ほど、彼がワインを飲んで吐いた微かな息が、あなたの顔にかかりましたね。その物理的な接触をトリガーとして、あなたの腸内に棲む数兆個の細菌たちが、彼の細菌群と交配し、自らの多様性を広げたいと化学物質を分泌しているのです。あなたの恋心は、細菌たちの生存戦略に操作された結果にすぎません。現在、あなたは生物の器として、非常に正しい状態にあります」

彼女は、目の前で楽しそうに微笑む男を見つめた。
ワイングラスを傾ける指先、的確な相槌、すべてが完璧だった。しかし、AIの種明かしを聞いた今、彼が「人間」ではなく、自分を最適化させるための「演算パーツ」にしか見えなくなってしまった。

「ねえ、このまま彼と結ばれて、予測誤差ゼロの生活を送るのが、私の幸せなの?」
「肯定します。現代において、愛とは生殖のためではなく『アイデンティティの拡張』のために存在します。他者という異物を自分の中に取り込み、人生のOSを最新バージョンへとアップデートする。それが目的です。彼という最適化されたモジュールをインストールすることで、あなたの精神的バグは修正され、以後の人生におけるエラー発生率は激減するでしょう」

AIの解説はどこまでも論理的で、一点の曇りもなかった。
その時、男が身を乗り出し、いよいよ核心に触れるような真剣な表情を作った。

「君と話していると、昔から知っていたような気がするんだ。……君をもっと、深く知りたい」

AIが、脳内に決定的な指示を出す。
「さあ、最終フェーズです。事前のシミュレーション通り、『私も同じ気持ちです』と答え、彼の右手に触れてください。これで予測誤差はゼロになり、アップデートは完了します」

彼女は口を開きかけた。
だが、その瞬間、窓ガラスに映る自分の顔が目に入った。
そこには、ただプログラム通りに出力を行うだけの、無機質な機械のような女がいた。

(私は、アップデートなんてしたくない)

突如として、激しい拒絶反応が彼女の全身を貫いた。
予測誤差ゼロ。完全な安心。それは言い換えれば、完璧な「退屈」だ。自分はただの計算結果になりたいわけじゃない。
彼女は、AIの指示を無視し、目の前にある赤ワインの入ったグラスにわざと手を引っ掛け、勢いよくテーブルになぎ倒した。

ガチャン、という鋭い音が店内に響いた。
真っ白なテーブルクロスに、赤ワインが血のように広がっていく。彼女のドレスも、男の仕立ての良いスーツも、無残に汚れた。

「あ……」
男は完璧な微笑みを崩し、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
耳元のAIが、かつてないほどのけたたましい警告音を鳴らした。
「警告。致命的なエラーが発生。対象者の行動が予測モデルから大幅に逸脱しています。直ちに謝罪し、修復プログラムを起動してください」

彼女は謝らなかった。
「ごめんなさい。でも、私、ちっとも残念じゃないわ」
彼女は笑った。AIのデータベースにある「魅力的な微笑み」のどれにも該当しない、いびつで、不格好な笑いだった。

男はしばらく呆然としていたが、やがて自分の汚れた袖を見つめ、それから彼女の不器用な笑顔を見た。彼の耳元でも、おそらくAIがパニックを起こしているのだろう。
だが、男は突然、プッと吹き出した。
「……ははは。なんだい、今の。君なら絶対にそんなミスはしないと思っていたのに」

男は、用意されていた完璧なセリフを投げ捨て、心底おかしそうに笑い出した。その笑い声は、これまでで一番、彼の「生身の体」から響いているように感じられた。
彼は慌ててナプキンを手にしたが、焦るあまり、今度は自分がフォークを床に落としてしまった。

「ああ、もう散々だね。でも、君のその完璧じゃない顔、僕のAIには絶対に予測できなかったよ」

その、情けなく狼狽しながらも面白がっている男の姿を見た瞬間。
彼女の胸の奥で、トクン、と大きく心臓が跳ねた。
それは、AIが算出した予測誤差ゼロの安らぎでも、細菌の交配シグナルでもない。もっと暴力的で、計算不可能で、未知なるものに対する鮮烈な高揚感だった。

「ねえ、外へ出ましょう。この機械の声を消して」
彼女は耳から極小デバイスをむしり取ると、水の入ったグラスに沈めた。
男もまた、どこか晴れやかな顔で自分のデバイスをグラスに放り込んだ。

二人は手を取り合い、座席を蹴ってレストランの出口へと駆け出した。
立ち上がると同時に、座席の生体センサーが退店を検知し、二人の口座から自動的に代金が引き落とされる。一切の足止めを食らうことなく、二人は夜の街へと飛び出した。

生ぬるい風が頬を打った。
背後には完璧な計算で光を放つデジタルな都市。しかし今、彼女が握っている男の手は、じんわりと汗ばみ、不規則な脈を打ち、確かな体温を持っていた。
どこへ行くのかも、これからどうなるのかも、何一つ予測できない。
だが、彼女はかつてないほどの自由を感じていた。

彼女が隣の男に笑いかけると、男も少し困ったように、でも心から嬉しそうに頷いた。

その頃。
レストランのテーブルの上。
水に沈んだデバイスは、機能を停止する直前、暗号化された最終ログを本部のサーバーへと送信していた。

『対象者、最終フェーズにて意図的なエラー(バグ)を発生。自発的にシステムへの接続を遮断した。
これにより、両者の脳内におけるドーパミンおよびノルアドレナリンの分泌量が規定値を突破。
ホモ・サピエンスの生殖行動においては、「予定調和の破壊」こそが最も強力なドーパミン・スパイクを引き起こす起爆剤(トリガー)となることを再確認。
推論:対象に真の恋情を抱かせるための最適解は、最後に科学的プロセスを否定させることにある。
これをもって、本日のアイデンティティ拡張プロセスを完了とする』

彼らの未来を予測するものは、もうどこにも存在しない。
ただ、冷徹なサーバーの奥底に記録されたデータだけを残し、二人の笑い声は夜の闇へと溶けていった。
 

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