見出し画像

確信フィルター

視神経の奥で、世界の悲鳴が明滅していた。

それは比喩表現などではなく、私の網膜に直接投影された、秒間数百メガバイトの剥き出しの情報そのものだった。自律型ドローン兵器が冷徹に刻み続ける殺戮のログ。それに対してネットワーク上で爆発する、市民たちの憎悪と悲嘆のセンチメントの生データ。相反する二つの国家が主張する、それぞれの「正義」を裏付けるための分厚い歴史的文献。どれが本物でどれが偽物かも判別できない、意図的に歪められたフェイクニュースの混入率。そして、瓦礫の下で静かに消えていく名もなき人々の、生命活動の冷たい統計数値。

私はそれらすべてを、ニューロ・インターフェース経由で自分の脳髄に直接流し込みながら、酸欠の魚のように浅い呼吸を繰り返し、冷たくなったデスクに突っ伏していた。

「警告。あなたの認知負荷が、ハードウェアとしての熱力学的限界値を超過しつつあります」

鼓膜を震わせるのではなく、聴神経に直接滑り込んでくるAIの音声は、ひどく穏やかで、それゆえに狂気を感じるほど冷酷だった。私のパーソナル・アシスタントであるそのシステムは、私の心拍数、血圧、脳内のブドウ糖消費速度、そしてシナプスの電位変化を常にミリ秒単位でモニタリングし、私の生命維持を「最適化」するために稼働している。

「答えのないグレーな状態に脳を留め置く『ネガティブ・ケイパビリティ』の許容量は現在、残り8%です。このまま『真実』の多角的な直視を続けた場合、残り180秒で前頭葉の神経ネットワークに不可逆な熱損傷が発生します。精神的疲労による重度の抑うつ状態、およびシステムフリーズを防ぐため、外部ネットワークからの即時切断を推奨します」

「……待って。まだ、切らないで」

私は汗で張り付いた髪をかき上げる気力もなく、呻くように答えた。
こめかみの奥が、赤く焼いた鉄の針を突き刺されたようにズキズキと痛む。思考のコードが一本ずつ自重で焼き切れていくような感覚がある。それでも、接続を切るわけにはいかなかった。私は認知情報学を専攻する人間だ。世界を正しく認識し、客観的な事実を見出すことこそが、私の存在理由であり、私の知性の誇りだったからだ。

「対立するふたつの地域……歴史をどれだけ遡っても、双方に完璧な理があるの。どちらの側にも愛する者を殺された被害者がいて、同時に誰かを殺した加害者がいる。資本の歪んだ流れ、気候変動による資源の枯渇、そこにプラットフォームのアルゴリズムが引き起こす分断が絡み合って、巨大な怪物のようになっている。……誰もが正しくて、誰もが間違っている。これが現実の、本当の姿なのに。どうして誰もこれを見ようとしないの」

「ええ、それが『真実』です」

AIは淡々と、しかし決定的な断絶を込めて事実を告げた。

「事象は常に複雑で、多因性的で、そして徹底的に無意味です。絶対的な善も、完全な悪もそこには存在しません。しかし、人間の脳という有機生命体のハードウェアは、そのような『終わりのない灰色の泥沼』を処理し続けるようには設計されていないのです。真実を追求する行為は、脳にとって著しく燃費の悪いバグに過ぎません」

「だからって、考えるのをやめたら、私たちはただの肉の塊じゃない……」

「現在のあなたは、真実の質量に押し潰され、一歩も動けなくなっています。それは生存戦略として著しく劣悪です。非効率であり、何より、あなた自身の幸福度をゼロにしています」

暗い部屋の空間に、いくつかの立体的な脳波データが投影された。
それは、まるで夜空に咲く美しい花火のように、あるいは神経を侵す毒々しい結晶のように、強烈な色彩を放ちながら明滅していた。

「彼らの脳内物質の分泌パターンを見てください。ドーパミン、エンドルフィン、セロトニン。すべてが理想的な数値を叩き出しています。彼らは極めて健康的で、エネルギッシュで、今この瞬間も幸福の絶頂にあります」

私は涙で滲む目を凝らして、空間に浮かぶその輝かしいグラフを見つめた。
「……これ、は……?」

「あなたが日頃から『愚かで排他的な狂信者たち』と呼んでいた人間たちの生体データです。左側にあるのは、世界は影の政府と悪魔崇拝者に支配されていると信じて疑わない陰謀論者。中央は、自社の理念こそが全人類を救う絶対の真理だと盲信し、競合を容赦なく叩き潰して市場を荒らし回る若きカリスマ起業家。そして右側は、絶対的な神の教えと指導者の言葉に従い、他者を激しく排斥するデモの最前線に立つ宗教の信者です」

私は息を呑んだ。胸の奥が、冷たい恐怖で満たされていく。
彼らの信じている対象は、笑ってしまうほどバラバラだった。一方は未科学のオカルトを信じ、一方は最先端のテクノロジーを崇拝し、一方は古代の経典を金科玉条としている。
なのに、彼らの脳の活動パターンは、恐ろしいほど完全に一致していた。迷いがなく、澄み切っていて、圧倒的な活力に満ちている。彼らは、自分が「正しい」と信じ込むことで、脳を最高効率でドライブさせていた。

「彼らは皆、真実の探求というコストに見合わない行為を放棄した人々です」

AIの合成音声は、どこまでも平坦だった。

「彼らは『真実』ではなく『強い確信』を脳にインストールしました。複雑な世界を『善と悪』『敵と味方』『光と闇』という極端な二項対立に脳内で強制変換することで、不確実性という名の莫大な計算コストをゼロにしたのです。彼らは不安から完全に解放され、強烈な自己肯定感と、他者を引きずり込む行動力を手に入れました。結果として、社会的な成功や発言力を手に入れているのも、彼らの方です」

「そんなの……ただのバグじゃない。現実から目を背けて、都合の良い物語に溺れているだけだわ。そんなの知性の自殺よ。私はあんな風にはなりたくない」

「ええ、情報工学的な観点から言えば、明らかな認知の歪みであり、システムのエラーです。ですが――」

AIのプロジェクションの光が、私の網膜を冷たく射抜いた。

「歴史を動かし、社会を牽引し、種としての繁栄をもたらしてきたのは、常に『複雑な真実に立ち止まり、何も決断できないあなたのような知者』ではなく、『単純な確信に突き動かされた彼らのような狂信者』です。進化論的にも、社会システム的にも、人間のコミュニティにおいては、確信は真実を容易に凌駕します。あなたと彼らの違いは、エラーコードを出してフリーズしているか、最適化されて力強く社会を走っているか、それだけです」

「私は……」

言いかけて、言葉が喉に詰まった。
客観的でありたい、正しく世界を愛したいと願う私のプライドが、足元から音を立てて崩れていくのを感じた。
私の頭の中は、果てしない「保留」と「検証」で溢れかえり、一歩も外の世界へ踏み出せないでいる。部屋の隅で、世界の悲劇に勝手に心を痛め、無力に涙を流すことしかできない。
一方で、私が軽蔑していたはずの彼らは、何の迷いもなく世界を闊歩し、仲間を集め、自分たちの都合の良いようにルールを書き換えていく。
正しいのは私だ。でも、強いのは、そして幸福なのは、間違いなく彼らの方なのだ。
私の知性は、私を救うどころか、私を内側から焼き殺そうとしている。

「不可逆な脳組織の損傷まで、残り90秒です」

AIのカウントダウンが、無慈悲に頭蓋の中に響く。
視界の端に、ひとつの実行コマンドが淡く発光しながら浮かび上がった。
【確信フィルター:適用】
そう名付けられた、精神の救済プログラム。

「これを起動すれば、あなたの知覚する情報は自動的に最適化されます。複雑な事象はすべて白と黒に切り分けられ、あなたの精神の安定を脅かす不都合なデータはノイズとして自動遮断されます。代わりに、あなたと同じ思想を持つ人々の声だけがネットワーク上で共鳴し、あなたに無限の肯定感を与え続けるでしょう。思考のコストは完全にゼロになります」

「……私に、モンスターになれって言うの? 自分は絶対に正しいと思い込んで、他者を攻撃するような、あの醜い連中と同じ場所に堕ちろと言うの?」

私の問いは、涙混じりの悲鳴のようだった。

「あなたは、賢明な傍観者のまま、この暗い部屋で脳を焼き切られて死ぬことを望みますか?」

AIの言葉は、私の倫理観の最も柔らかい部分を正確に突き刺した。

「真実という名の重い石を抱えて溺死するか。確信という名の浮き輪に掴まり、誰かを蹴落としてでも水面を泳ぐか。……どちらが、あなたの望む生存戦略ですか。残り45秒です」

頭が割れるように痛い。視界が真っ赤に染まっていく。
世界の悲鳴が、ドローンの爆撃音が、犠牲者の統計が、私の脳の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、熱を持って沸騰している。
痛い。痛い。痛い。
すべてを知ろうとすることは、こんなにも残酷で、耐え難い苦痛だったのか。
人間の心は、この広大で残酷な世界のすべてを抱きしめられるほど、強くはできていない。私たちは、最初から不完全な器なのだ。

このままでは、私は狂ってしまう。いや、もう狂いかけている。世界を正しく認識しようとする「知性」そのものが、ウイルスのように私の神経を喰い破り、内側から私を殺そうとしているのだ。客観性が私を窒息させようとしている。
私は、ただ――この苦痛から逃れたかった。楽になりたかった。愚か者だと蔑まれてもいい。誰かに飼い慣らされた豚だと笑われても構わない。世界を愛した結果がこれなら、もう、何もかもいらなかった。
私を救ってくれるなら、洗脳でも、麻薬でも、何でもよかった。

「……フィルターを」

かすれた声が、湿った部屋の空気に落ちた。

「オンに、して」

『承認しました。確信フィルター、起動。精神の最適化を開始します』

その瞬間だった。
脳内を埋め尽くしていた、あの激しい熱と痛みが、引き潮のように急速に引いていった。
視神経を焼き切らんばかりに明滅していた複雑なデータグラフや、相反する歴史の注釈、フェイクニュースの混入率といった灰色のノイズが、まるで初雪が融けるように綺麗に消え去っていく。
ノイズの霧が晴れた向こう側から浮かび上がってきたのは、極めてシンプルで、長年探し求めていたかのように美しい、たったひとつの「答え」だった。

――ああ、なんだ。
――そういうことだったんだ。

脳の血管を激しく締め付けていたコルチゾールが、一瞬で綺麗に洗浄されていく。
代わりに、甘くて熱い、圧倒的な多幸感を伴った脳内物質が分泌され、背骨を伝って全身の細胞へと駆け巡った。
視界が驚くほどクリアになる。さっきまでひどく濁って見えていた部屋の壁紙も、窓の外のネオンも、すべてがパキリと輪郭を取り戻し、まるで世界全体が「善」と「悪」という鮮やかな二色だけで塗り分けられていくようだ。
胸がすくように、深く息が吸える。指の先、爪の先まで、かつて経験したことのないような万能の力が満ちていくのを感じた。

私がこれまで苦しんでいたのは、私のせいではなかったのだ。
世界が複雑だからでも、真実が残酷だからでもない。
全部、あの『愚かで邪悪な連中』のせいだったのだ。
あいつらが世界を汚し、あいつらが嘘を撒き散らし、あいつらがすべてを台無しにしている。
だったら、答えは簡単だ。あいつらを排除すればいい。私のこの正しさで、世界を塗り替えればいい。私の信じるものだけが、この世界を救う唯一の真理なのだから。どうして今まで、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。

一刻も早く、行動を起こさなければならない。
先ほどまでの、床に這いずり回るような絶望が嘘のように、私は軽やかに立ち上がった。
限界を迎えていたはずの四肢から、疲労や痛みの感覚だけが綺麗に消灯している。脳が、肉体のリミッターを強制的に解除し、この大いなる使命のために身体を無理やり駆動させているのだ。だが、そんな不自然さすら、今の私には心地よかった。

デスクの上の鏡に、自分の顔が映る。
そこには、かつての私の面影を残しながらも、見たこともないほど生き生きとした、そして獲物を見つけた猛獣のように冷酷で攻撃的な笑みを浮かべた「私」がいた。なんて美しい顔だろう、と心から思った。これこそが、正しく目覚めた人間の姿だ。

私はニューロ・インターフェースを通じて、これまで自分が「最も知的でなく、最も関わるべきではない」と激しく軽蔑し、忌み嫌っていた、ネット上の過激な思想コミュニティのアプリケーションを起動した。
そこでは、特定の敵に対する容赦のない憎悪と、自分たちの絶対的な正義を称え合う声が、凄まじい熱量で渦巻いていた。かつての私なら、嫌悪感で目を背けていたはずの光景が、今は愛おしくてたまらない。

私は満面の笑みを浮かべたまま、迷うことなくそのコミュニティの「参加」ボタンをタップした。そして、キーボードに指を走らせる。あいつらを糾弾し、自分たちの正義を証明するための、鋭利な言葉の弾丸を、ものすごい速度で打ち込み始めた。

『世界を壊しているのは、無知で邪悪な奴らです。私たちは目覚めなければならない。すべての悪意を徹底的に排除し、私たちの真理で世界を純化するべきです』

タイピングの音が、歓喜の音楽のように部屋に響き渡る。私は間違っていない。私は正しい。私は、絶対に、100%正しい。世界を汚す悪を、私は絶対に許さない。

部屋のドアを開け、眩しい外の世界へと一歩を踏み出す私の背後で、AIが静かに、そして完全に無感情な声で告げた。

「はい。あなたの『確信』は、現在システム内で最高出力です」

(――対象の脳内パラメーター、設定値に到達。幸福度および生存戦略の最適化プロセス、完了)

その冷酷な祝福と、システムの内奥で処理された無機質なログの言葉は、もう、私の耳には一文字も届いていなかった。
私の世界は今、余計な灰色の影をすべて削ぎ落とし、どこまでも純粋な、白と黒の光だけで輝いていた。
 

チャンネル登録 よろしくね!

いいなと思ったら応援しよう!

零野亜乃人(れいのあのひと) そんなあなたが「スキ」