さらば、愛の言葉よ Adieu au Langage (2014年) ゴダール抜粋して書き起こす
人の感覚を超越した、映像とセンス
通常、映画作品において書き留めておくべき言葉は、いくつかのシーンしかない。
けれどゴダールの場合、作中のほぼすべての言葉を、
まるで神からのお告げ
のように、一言一句書き留めなくてはならない。
だから、彼の作品を観るのは、
本当にとても疲れる。
シナリオが必要だ。
と言う訳で、自分を助けるために、抜粋して書き起こすことにした。
それにしても、
この邦題は大概だと思う。
「言葉」と聞くと、Paroleを思い浮かべてしまう…。
彼は Langageと言っているのに…。
さて、気を取り直して進めます。
プロット
プロットはシンプルだ。
既婚女性と独身男性が出会う。
二人は愛し合い、言い争い、そして雨を降らせる。
一匹の犬が街と田舎の間をさまよう。季節が巡る。
男と女は再び出会う。
犬が二人の間にいる。片方は片方の心に、もう片方はもう片方の心に。そして、この三人が登場人物だ。元夫が全てを吹き飛ばす。
二作目が始まる。
一作目と同じ。それでいて、違う。
人間という種族から、メタファーへと移っていく。最後は吠え声で終わる。そして、赤ん坊の泣き声で終わる。
Twitterで本人がこう書いたらしい。
芸術家の中の芸術家学生時代に
ゴダールの『映画史』
を観た時、私は仏語を理解しなくてはならないと理解した。
彼の作品を翻訳する人を、どんな書物や映像、専門書、最も高度な仕事の1つである絵本の翻訳より誰よりも、私は尊敬する。この映画も例に漏れず、
映画というより論文だ。
原題について
通常Adieu とは、
スペイン語のアディオスの気軽な挨拶と異なり、仏語では永遠の訣別の意思を伝える時の、別れの言葉。
語源は「à Dieu」(神のもとへ)で相手の身を神に委ねる、と言う意味。このため、死別など、生きて再会することが絶望的な状況で使われる。
但しこれはどうやら、
ゴダールの罠らしい
この映画のタイトルには二重の意味がある。ゴダールが生まれ育ったスイスのフランス語圏、ヴォー州では、adieuという言葉は「さようなら」と「こんにちは」の両方の意味を持つ。
「時間帯や声のトーンによって」
ゴダールはこの解釈がヴォー州でしか理解されないことを認め、「今では、話すことはもはや何の意味も持たないかのように思える。もはや言葉は存在しない」と述べた。彼は言葉があらゆる意味を失いつつあり、「私たちは本質を見失っている
私が言語にAdieuと言う時、実際には私自身の言ったAdieuということばに対して、Adieuと言うことなのだ。
第1章【 自然】
La nature
この章にゴダールは、映画の半分以上使っている。
自然とは植物や山川海と言う景色よりも、動物、特に作中の犬と言った、野生動物のことを表すと私は解釈した。
何となく、BBとゴヤの犬を思い浮かべた。
1986年に「ブリジット・バルドー動物愛護財団(Fondation Brigitte Bardot)」を設立し、様々な活動を行なった。
犬=世界をありのままに見ることができる存在?
良心によって盲目にされ、世界をありのままに見ることができない人間
Pas de pourquoi!
意味なんてない!
と登場人物である彼女に叫ばせる。
神の領域から、彼は人間として、最後の抵抗を試みる。
「英雄誕生の神話」の中でランクはこう分析した。
水中での浮き沈みは夢に現れる誕生の描写とよく似ている
シュワルツ=ディラック曲線で
ゼロという1点を除いた全ての点で無限となる、と学んだ。
登場人物に言わせている
2大発明とは、♾️と0の概念だ
違う、セックスと死だ
と彼は言わせる。
自由な生き物だけがお互いに干渉しない?
手にした自由こそが、お互いを隔てると言うのに。
人が「話す」ためには、それを聞いているのだと確信させて欲しい。
言葉の貧しさ
- 「彼」は私たち貧しい人たち(Les ambients)を変えることはできなかった。
- 彼って?
- 変えたくなかったの、それで彼は私たちに屈辱を与えた。
- 彼って?
- 神よ。
Les ambients
と私には聞こえましたが、間違っていたらすみません💧
訳すとしたら、取り巻きたち、主役になれない人たち、て感じでしょうか…。
森と小さな丘と谷でできた、
君の円形競技場の中で、青白い
死に神が暗い軍勢を慌てさせた。
明らかに女体
のことだと思うが、
彼は常に提示し問い、
そして、決して答えを出さない。
第2章 【比喩】
La métaphore
人間という種族から、メタファーへと移っていく。呪文「アブラカダブラ 毛沢東 チェゲバラ」
沈黙を学んだ。
言葉で争いが始まる。
社会との関わりを見出す者は、純然たる自由に向かう。
話す時は主体、聞く時は客体だ。
自由を放棄したら、全てが戻ってくる。
ロシアではカメラのことを牢獄と呼ぶらしい。
もうすぐ、誰もが自分にとっての「通訳」を必要とする。
自分の言葉すら分かっていないのだから。
君に従う、と言ったけれど、それってどういうこと?
もう意味はない。
大事なのは、考えたり、何かを見ることじゃない。
まだ答えてない。
言葉ではなく、声はあげた。
森をカメラで撮るのは易しい、だが、森近くにある家をどう表現するか、それは難しい。
女は人を苦しめない、相手を退屈させるか、殺すだけ。
アパッチたちは、世界のことを、森と呼ぶ。
言葉なんてもう聞きたくない。
動物には、裸という概念はないのだから、彼らは裸ではない。
哲学者とは、他者の顔に悩み、記号の革新的な力を
社会は殺人を認めるかしら
…を減らすために
イデアとメタファーは、どこが違うの?
第1章自然のブリュノーとシュヴァリエのシーンは夏に撮影され、
第2章比喩のゴデとアブデリのシーンは冬に撮影された。
まとめ
「言語」にAdieuと言う。
= 「私自身の言ったAdieuということば」に対して、Adieuと言うこと。
監督にとってのadieuはダブルミーニング。極一部では、「さようなら」と「こんにちは」の両方の意味を持つ。
だとしたら、単なる終わりではなく、新たな始まりの可能性を秘めている。
言語から離れることで、映像そのものの力に立ち返ろうとしている
のかもしれない。
第1章と第2章で同じでいて、違う。人間という種族から、メタファーへと移っていく。
第1章: 自然
あるがままの世界
夏の撮影、人間という種族、
役者はブリュノーとシュヴァリエ
第2章: 比喩
人間が解釈して意味を与えた世界
冬の撮影、人ではなくなる、
役者はゴデとアブデリ
最後に、三島の言葉とのリンク


