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ゴッホの墓参りへ祈りに行ったら、ヨハンナに感謝した

2023年1月、フィンセント氏の墓参りで、オーヴェル=シュル=オワーズ Auvers-sur-Oiseを訪れました。

雨風強い朝でしたが、やがて雨も止み、帰りの電車で乗り換える際に、まんまとお気に入りの大きな傘を置き忘れました。今頃誰かの役に立っていることでしょう…。

オーヴェル=シュル=オワーズ

Réellement c'est gravement beau, c'est de la pleine campagne caractéristique et pittoresque.

町の案内板より
彼が生きた時代の町の様子
彼がここで描いた絵たち
世界中に散らばってしまっているのが
少し悲しい

それでは、現地にあった案内をGoogle翻訳したぎこちない日本語をベースに、加筆修正した文を載せます。


画家の道 Le Chemin des Peintres
制作:フランス鉄道歴史協会
Réalisé avec le concours du Cercle Historique du Rail Français
ゴッホゆかりの地

Le Chemin des Peintresは、この村の景観遺産の大部分と19世紀の偉大な建造物のいくつかを巡る、歴史と文化を巡る路です。
村全体を6つの地区に分けて保存されたこれらの遺跡は、時代を超えた感動を呼び起こします。

印象派と鉄道

19世紀、2つの発明が屋外での絵画制作、つまり印象を表現する新しい方法を促進しました。
1つ目は、絵の具チューブ(Le tube à peinture)。
1841年に発明された絵の具のおかげで、画家たちは手軽に移動できるようになりました。

翻訳だと絵の筒と訳されたので何かと思ったら、絵の具のことですね😅

2つ目は鉄道。このおかげで、彼らは風景と光を捉えることができる場所へと旅することができました。

「印象派画家たちにとって鉄道がどれほど画期的な転換となったか」についてはモネやピサロを巡る旅でも、よく言及されていました。

パリから1時間

オワーズ渓谷は現在、パリから1時間の距離にあります。1846年に鉄道駅が開業したオーヴェルは、パリの人々、特に画家たちの日帰り旅行に便利な場所でした。
北鉄道会社によって建設された旅客棟、その向かいにあるプラットホーム待合所、そして貨物小屋は当時のまま残っていますが、増加した交通量に対応するため、1904年に拡張されました。


・北鉄道: Chemins de fer du Nord
・旅客棟: le bâtiment des voyageurs
・プラットホーム待合所: l'abri de quai
・貨物小屋: 通称 la Petite Vitess

・増加した交通量に対応するため、1904年に拡張された:
Ces édifices※ sont agrandis en 1904 pour faire face à l'accroissement du trafic.
※édificesは、単なるbâtimentではなく、芸術的な価値や歴史的な意味合いを持つ、大規模で立派な建築物を指す。


麦畑での埋葬 1890年7月30日

人々は彼が偉大な芸術家であったことを知るべきだ。それは偉大な人物であることとしばしば同時に起こる。
時が経てば彼は認められ、多くの人が彼がこれほど早くこの世を去ったことを惜しむだろう。

1890年7月、画家フィンセント・ファン・ゴッホは自ら命を絶ちました。2日間の苦しみの末、彼はオーベルジュ・ラヴーの小さな屋根裏部屋で、彼の親友であり揺るぎない支えであった弟テオに見守られながら息を引き取りました。

聖堂での葬儀は拒否された

7月30日水曜日、パリとその周辺地域から多くの友人や親戚が葬儀について話し合うために集まりました。
テオは、フィンセントが不朽の名作としたオーヴェルの聖堂で葬儀を執り行おうとしましたが、司祭に拒否されました。自殺者であり、しかもプロテスタントである彼は、宗教儀式を執り行う権利を主張できなかったのです。
テオはすでに印刷された原稿を訂正しなければなりませんでした。

ラヴー亭での葬儀

葬儀は1890年7月30日、黄色いダリアとヒマワリ、彼が最後に遺した絵画で飾られた、ラヴー亭の食堂で行われました。
司祭から霊柩車やロープの貸与も拒否されたため、メリ=シュル=オール出身の同僚が、オーベルジュ・ラヴーからオーヴァン墓地へゴッホの棺を運ぶために必要なものをすべて提供してくれました。

まばゆい太陽が野原を照らしていた

ゴッホの友人であり医師でもあったガシェ医師は、深い感銘と深い悲しみに満ちた表情で、非常に感動的な言葉を語りました。

わずか半年後、弟テオの死

6ヶ月後、33歳のテオも、若い妻ヨハンナ・ボンガーと、生後わずか1歳の息子、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホを残し、この世を去りました。

ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルの3つの献身

1. ゴッホ作品の管理と普及

フィンセントとテオが亡くなった後、大量に残された作品の管理を引き継ぎ、美術展の開催などを通して作品を世に広めました。

2. 兄弟の書簡集を出版

フィンセントとテオが交わした膨大な手紙を編集し、出版しました。これにより、ゴッホの人間性や芸術観が明らかになり、作品の評価が確立されるのに大きく貢献しました。

3. 夫テオの墓を移設

当初オランダのユトレヒトに埋葬されたテオの遺体は、1914年にヨハンナによって移され二人の兄弟が死後も再会できるよう手配されました。
二人の兄弟の強い絆を永遠に称えたいという彼女の願いだったのでしょう。ヨハンナの行動は、彼ら自身とその才能に対する深い愛情と敬意に満ちていました。

詳しくは、The Woman Who Made Van Gogh Famous  などをご覧ください。
色々と見逃したくない方には、こちらMMM - メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンドも便利だと思います。

それではいよいよ、歩いてみましょう
Parc Van Gogh内、ザッキン作ゴッホ像。
同じもの(サイズ違いも幾つか)が、彫刻の森美術館や、山梨美術館などにありました。

パリのザッキンミュージアムについてもその内まとめます。
城への道

公園裏を進んでいけば、城に行きます。
夜が近づくと移民の子供たちが集まりだして、少し怖かった
まさにこの辺りに座っていました

『ゴッホとヘレーネの森 クレラー=ミュラー美術館の至宝』2018年にて、教会が描かれたのは、亡くなる数週間前だったと知りました。

教会のなか
ゴッホのピエタを初めてみました
ピエタをキャンドルにしてくれていたので、寄付をして灯します。
もう拒絶されていないようで、一安心
マリアさまの部屋は落ち着くので好き
市民の絵画展みたいなのが催されていました
レプリカを飾ってくれていました
絵に描かれた部分の裏手
教会からの階段
教会への階段
1890年5月20日、この町に到着した彼は
市役所前広場にあるラヴー亭に宿泊した。
5号室の宿泊料金は1日1フラン、
食事代は2.50フランだった。
今はこちらでご飯は食べられないそうで、
代わりに、ここのお向かいのバーに立ち寄って、帰りの電車を待ちました
1890年のオーベルジュ・ラヴー

大工のルヴェールと宿屋の常連客、
ゴッホが2度描いたことのある、アドリーヌも映っています。
アドリーヌ・ラヴー

彼は昼食のために正午頃やって来ました[…]。当時の宿屋ではよくあることでした。肉、野菜、サラダ、デザートです。彼は何もお返ししませんでした。彼は決して面倒なことはしませんでした。

アドリーヌ・ラヴーの回想録、
パリ・マッチ紙 - 1954年
ラヴー亭前の市役所
1890年7月14日当時は、オーヴェル町役場でした
麦畑へ
麦畑へのみち
彼がまさに座ったであろう場所
《カラスのいる麦畑》、オーヴェル=シュル=オワーズ、1890年、
油彩・カンヴァス、50.5 x 103 cm
アムステルダム・ファン・ゴッホ美術館

「曇り空の下、広大な麦畑が広がっている。私はためらうことなく、憂鬱と極度の孤独を表現しようと努めた」
(テオ宛の手紙649、1890年7月)。

オーヴェル=シュル=オワーズ市役所および観光局より
墓に向かう道すがら、カラスが多かった。
「彼の絵は盛っていない。正直に、あるがままを描いたのだろう」と感じた
もうすぐ
小麦畑に建てられた二つの墓

この日は墓おこし?墓入れ?みたいなのを近くの墓でしていて、少し怖かったけども。

ヨハンナのおかげです
彼のことを思うと悲しみに支配されますが
こうして2人が並んでいると、少しあたたかい気持ちになれました。
ありがとう、Jo
安らかに🙏

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