衣出②
***
――それがですね。こんなような事が書かれていたのですよ。
と、私に言ったその舌の根が乾きもせぬうちに佐伯某は「ああ否、一寸その前にがあるか。」とそれを覆した。日記の内容それそのものに先んじて、少しばかりその書き手の方について伝聞されている事を前置きしたいのだと言う。
佐伯某曰く、この戦中戦後のころの住職というのが随分と肌の色の白い、また凛とした美しい青年だったそうだ。名は明慶。アキヨシであるが僧侶としてはメイケイと読む。時世柄当然これも一度戦地に赴いている。生きて帰れたのは現地で肺を病んだためだった。使えぬので送り返されたのである。これが幸甚となり彼はそのまま終戦まで二度と戦地に赴くことはなかったそうだ。視線の明瞭な、頭脳も明晰な男だったという。華奢ではあるが矜持があるため咳で背を丸めることはあってもそれをすぐ真直ぐに伸ばした。常に前を向いている人だったというのが村民の心象であったそうだ。
美僧、ということなのだろう。
これだけですでに何か妖しい心象を持つのは何も私の性根が不埒だからというだけの理由でもあるまい。佐伯某の語りがすでにそういった予感をふくんでいた。背徳の涼やかさを想起させる、否、させようとしている思惑が、佐伯の吐息や瞬きの節々から零れ出ていた。
佐伯某の語り口が矢鱈と上手いが故かどうかは知らぬが、私自身も瞬く間にこれによって語られる明慶の為人に呑まれた。否、一人勝手にその人物像を妄念したのである。
例えばある早朝のこと。しっとりとした粒さえ明瞭に視えるほどの霧の中、この明慶が庭樹を見上げて佇んでいたとする。その視線がとらえているのは新緑の楓であったかも知れぬ。纏う夏の道服の墨色が蜻蛉の羽の如く透ける様など、その内に白衣を着崩れなく肌に絡ませていようが、どうにも生々しく涼やかで芳しくあったろうと容易に想像がつくのである。眼差しは涼やかであろうか。恐らくは切れ長の一重で劣情などからは切り離された清廉の人であったに違いない。だのに、
それを視た周囲が勝手に狂うのだ。
類稀なる媚態の権化であると。
これは佛門の徒としては仇であったかも知れぬ。在りし日のアナンダと類するものであったかも知れぬ。
私にはいわゆる同性愛の気はないはずなのだが、語りから浮かび上がる美青年僧の像に対し、こうして妙に何度も生唾を飲みこまされた。決してこの明慶自身が色情であったわけではないのだろう。その事実は佐伯某の語る言外の部分からも十二分に察せられた。色情であったとするならばそれは周囲なのだ。明慶の周辺に屯する者共が明慶に誘因して色情を喚起せらるるのだ。明慶本人が僧侶としての自らに誇りや自負があったとすれば、それはけだし迷惑な話であると言えよう。明慶自身が清廉なのであればそれは明らかなる邪推であり邪淫発想のとばっちりであるのだから。故に私は私自身の感じる感性に、なんとも申し開きのし難い自己嫌悪を感じたものである。
さていい加減本題に入ろう。
佐伯某によれば、この明慶の遺した日記は実に淡々とした筆致で書かれていたそうだ。
彼は復員後先代の跡を継いで住持となった。先代は彼の伯父であったという。
ことが起きたのは戦後すぐの秋の彼岸の入りであった。
寺男も手伝いのばあやも寺を出て明慶一人の夜だった。蚊遣りを焚き、蚊帳をつっていた。この蚊帳が少々厄介だった。四方各々に季節の草花を染めと刺繡の技法で描いた上、縁取りに朱の房飾りがあるという典雅なものなのだ。以前使っていた蚊帳が破れた時にどこぞの蔵から出たものを寄進されてそのまま使いだしたというのが始まりらしいが、寺で使うには少々艶めかしいのが過ぎる。言い換えれば不相応に雅な品なのだった。しかし他に蚊帳はないし、見栄えを気にして新たなものを態々用意するというのも本末転倒。不要な贅沢を忌むべき佛弟子としては本意ではない。山奥ということで縁側の障子も開け放っていた。それで十分に過ごせるのだから良いだろうと気にしながらも看過していたそうだ。
褥でうつらうつらとしていると、ちりんと風鈴が鳴った。
ふ、と、何か冷たい。
冷たい空気が明慶の首筋を撫でたのだ。
身を起こすと蚊帳の向こうに影がある。人影である。明慶はじいっと眼を眇めてその姿形を凝視した。
きちんとした姿勢の良い軍人が一人いた。
明慶はひとつ瞬いてから自らも褥の上で正座する。見覚えのある姿だった。
「――久方ぶりです。」
低く穏やかで静かなその声に聞き覚えがあった。
「斎藤くんですか。」
明慶が問うと軍人は「ああ。」と肯定した。それは斎藤三郎だった。幼少期より同じ学舎で学んだが竹馬の友という程に親しくした記憶はない。そしてこれが戦死したことを明慶は知っている。南方からその肉体が戻ることはなく、骨の代わりに唯一帰って来た手帳を墓に埋葬した。これの兄からたっての願いだというので明慶はその手帳に目を通している。だから既に現世の身ではない彼が明慶の前に姿を現した理由に心当たりがあったのだ。
ちりん、ともうひとつ風鈴が鳴り、明慶と軍人幽鬼との間で蚊帳の秋草が揺れた。
***
その時斎藤三郎が軽く頤を上げた、と日記には続けてある。
蚊帳の秋草越しに明慶が目にしたのは、曽て檀家の娘達がこぞって色めき立った出征前の彼の面差しそのままであった。くっきりとした眉と二重の眼。高い鼻梁に分厚い唇。役者絵から抜け出たようなその顔は母方の祖父によく似たものだったと聞いているが、明慶はその祖父という人との間に面識を持たない。三郎の母は遠方から嫁いできた人だった。この母親も当時既に病没している。
斎藤三郎という男は明慶とは違い男らしい男だった。よく日に焼け筋骨は逞しく無口で働き者だった。が、恐らく南方の戦地ではこのままではいかなかったろう。食料事情なども当然芳しくはなかったろうし、随分と痩せ細ったに違いない。ではこの逞しい男の姿は何時頃の状態を再現したものなのだろうか。否、幽鬼にそんなことを思っても致し方はないのだろうが、それでも明慶はふと思わずにはいられなかったようである。
ふ、と風がまたひとつ流れた。
明慶はただ一点「ご自宅には帰られたのですか。」と問うた。これに対し三郎は、ふるりとひとつ頭をふるう。彼の実家には出征前夜に急ごしらえで祝言を挙げたハルがまだ留まっている。三郎の父と長兄が残る中、ハルが一粒種の娘を抱えて日々を懸命に暮らしていることを明慶は知っていた。幼い頃より彼女が三郎に懸想していたのは知らぬ者がなかった。
三郎はまたひとつ首を横にふるい、明瞭と目を見開いた。
「俺の帰る場所はあそこではない。俺は君のもとへ出たのだ。」
「斎藤くん、しかし。」
「君は今年、」
三郎は言いかけてから、つと庭へ目を向けた。しかしその表情が困惑を帯びる。明慶は三郎の顔色が転じた理由に思い至り、「ああ。」と自身も其方へ目をやった。そこには色付きかけた楓の木が一本あるが、もうひとつ、その足元に有るべき物がなかった。
「――もう池は埋めたのだよ、斎藤くん。」
ふう、と明慶の唇から静かな吐息が落ちる。
かつて池の上を覆った赤い赤い紅葉の錦繍。
まだ二人が尋常小学校に籍を置いていたころだ。秋深まりし昼下がり、この庭でどんと背中を押されて明慶は池に落ちた。ぐじゅりと赤を巻き込み池の泥にまみれて明慶は汚れた。その場にいたのは三郎と明慶だけだった。池の中で赤と泥に汚れた明慶は呆然と三郎を見上げた。
「君がいけない。」
冷たいのに熱い、そんな目で明慶を見下ろしながら三郎は「君がいけないのだ。」と繰り返した。ぐっと握りしめた拳がその内にどんな感情を秘めていたのか、明慶は恐ろしくて尋ねられなかった。
ことが発覚し大人達に問い質されて、三郎の答えたのが「紅葉を共に拾ってくれなかったから。」という意味の分からぬ言い訳だった。三郎が一晩納屋に閉じ込められて、ことは納められた。
「矢張り、君がいけないのだ。」
ちりんと、またひとつ。
明慶はゆっくりと息を吸い込んだ。
「斎藤くん。あの時私は、君から紅葉を拾いたいという言葉は言われていないはずだ。」
積年の疑問がゆっくりと解けて問う。
「君は何故私の背を押したのだろうか。」
「答えれば、君は俺を救ってくれるのだろうか。」
質問に質問が重ねられる。明慶は首を横にふるった。
「佛弟子として君の役に立てるならば本望だ。斎藤くん。君は彼岸にもって渡ってしまった心残りを現世に葬りにきたのだろう。ならば、言ってくれ。」
ついと、三郎の目が明慶を射た。
あの日のような、冷たく熱い目だった。
――明白な、情欲に満ちた目だった。
そう日記にも、明瞭とある。
「では佐伯君。俺の無念を晴らしてはくれまいか。君の肌の上に、俺の生きた痕を遺しに俺はこうして戻ったのだ。」
斎藤三郎はそう直入に言った。つまりは明慶に対して抱いている自らの本懐が明慶との情交なのだと、明白にまざまざと言ってのけたのである。しかし明慶に困惑はなかった。すでにこの三郎という男の情念は知っていた。
三郎の長兄はその名を長一と言った。次兄は二亮と言いこれも既に戦死している。極東に送られた後ロシアから帰還しそこない内陸に運ばれた。その先で衰弱死してこちらはありがたくも現地の集合墓に埋葬されたそうだ。斎藤の家で唯一生き残ったのがこの長一で、彼は三郎よりやや上背の低い肩幅のがっしりとした体格をしている。戦地にいる間に妻が男と逃げたようで以来やもめを通している。
三郎の戦死が知らされた後、夜分に父親ではなく長一の方が明慶を訪ねてきた。明らかに人目を忍んでの来訪だったため明慶も内密に庫裡に通した。
「こんなものを出してしまって申し訳ないとは思うのだが、骨の代わりにこれしかないのだからこれを墓に入れるにしても、どうにも一度、明慶君には知っておいてもらいたかったのだ。」
長一は伏し目がちにそう言いながら小さなぼろぼろの革袋を懐から取り出し、ぐいと明慶の前に差し出した。明慶が押し頂いて閉じ紐を解いて見れば、中からもう紙のばらばらになった手帳の残骸のようなものが出てきた。
「これはもうハルには見せられん。」
長一は「はあ。」と息を吐きだして自らの頭を両掌で覆い、ざっと髪を掻き揚げた。座敷で頑なに座布団を辞した長一は、掻いた胡坐の上で分厚い背中を丸めていた。
「ですが、長一さん、おハルさんは。」
「見せられん。何があっても、どうしても無理だ。これは明慶君の胸の内にだけ留め置いてくれんか。」
「長一さん。」
「済まない。俺の一存で親父にも見せていないんだ。こんなものは見せられん。それにこれ以上はハルの真心に対して冒瀆が過ぎるのだ。これではハルの心が死んでしまう。」
続けて長一の言った「俺も鬼だが償いには生涯をかける。」という言葉の真意は日記の末文に記されてあったという。
*
「――この時点では僕にもまだ知れぬ経緯が隠されていたのです」と佐伯某は赤く爆ぜる火の前で禿頭を撫でながら唇を歪めた。矢張りこの佐伯某は、ぬぼっとしてはいるが語り聞かせるのが上手いのだ。この挿入で更に私はこの物語に没入したのだから。
*
話を明慶と長一の側に戻そう。致し方なく長一の前で明慶は手帳を開いた。そして冒頭一頁でその意味を理解し手帳を閉じた。
「長一さん、貴方はなんと無体なことを私に対しても強いるのか。」
「済まん。済まない。だが俺もこんなものを一人で背負ってはゆけん。否、これは君が負うべきだろう。こんなもの血縁だからという理由で飲みこまされてなるものか。こんなもの強要されてたまるものか。」
「それは、私こそ同じことを申し上げたい。」
長一はもう何も言わず、頭をひとつ乱雑に下げると庫裡を後にした。
一人屋中に取り残された明慶の困惑は如何ばかりであったか。しかしこの件においては明慶の心境について細やかな記述は残されていないと佐伯某は言った。
***
明慶は藤袴を見た。実際の花ではなく蚊帳に描かれた藤袴で、それは一条の風にゆるりと波打ちその向こう側に斎藤三郎の歪みのない正座姿を負っていた。
最早明慶の目に三郎の姿は幽鬼とは映らなかった。在りし日の彼其の物として其処にあった。白目の清らかで黒目の大きな強い眼光が、じりじりと焼くように明慶を見つめている。その思念の強さが如何程のものであるかを肌で感じられる。
「佐伯君。君は俺の手帳を見たはずだ。」
「ああ。見た。」
「ならばもう分かるだろう。俺ののぞみは君の一存次第で晴らされるか永劫の執着となって君の魂に纏わりつくかのどちらかなのだ。聡い君ならば理解の為らぬ筈がない。これは君のせいなのだから矢張り素直に率直にこの俺を受け入れ給えよ。」
「待ってくれ、」と明慶は流石に眉間を険しくした。
「斎藤くん。君の述懐を理解するのとそれを相判ったと受け入れるのとは話が別だ。」
「君がいけないのだよ。」
「斎藤くん、君は、」
ちりんと風鈴が――
「――嗚呼、是が罪業か。」
三郎の声がすうっと明瞭に蚊帳を突き抜けて明慶の全身を抱いた。それこそが手帳のはじまりの一文であった。
「斎藤くん!。」
「石に枕は耐えれども阿片に人品誇りを汚せども俺には売り渡せぬものがある。己が真に求める男でない男を求めに応じて抱くのは畜生か。嗚呼俺は畜生である。然し俺とて生身の人間である。嗚呼人間だとも。魂と血肉の欲する情欲を内腑に押し隠したとて戦地の果てでは敵兵の攻撃によって爆散し、無様に無念を撒き散らさぬとも限らぬ。ともすればこの鬱蒼とした密林にこの恋を下等な性欲と知られ嘲笑を受けるやも知れぬ。草木の連中に純愛と欲の見分けなどつくはずもなし。なれば今ここで山城の軍服を剥ぐのに何を躊躇うかとそう思ったのだ。」
三郎の声は低く明瞭である。
「山城の哭いて懇願する心持ちは俺の心に通じた。俺とて同じであるからだ。山城は俺に向けて言ったのだ。「後生であるから僕の地獄への道行の手向け花として一輪の情けをおくれ。それだけあればこの世を怨まず去れるから。真心愛してくれなどと贅沢は言わぬからどうか夢一輪恵んではくれないか。」と。そんな一途な男の純情を死地で踏みにじれるものだらうか。味方の死躰が彼方此方に転がりその腐臭の溶け込んだ腐った水の最中での懇願だ。闇夜で分かるのは匂いと体温と縋りつく掌の強さだけである。否地獄と言うなら既に此処が地獄。縋りつく腕を乱雑に払い、かえってその両頬を覆ってきつく口吸いをすれば最早相手が山城か佐伯君であるかなど俺の胸の内にしか真実はない。」
低く深みのある声音で語られる三郎の言葉が、藤袴を揺らして通って明慶の心の臓を射抜いた。
「嗚呼、そうだとも佐伯君。俺は、戦地で、君を思って山城を抱いたのだ。」
三郎は自らの右手を見た。握り、開き、また握る。ぐうと力を込めて。そこに何を観ているのかを明慶は想像した。その掌が何を嬲り何を可愛がり何を傷めつけたのか。その妄想の一々が自らの肌の上で再現したように感ぜられて明慶は身震いした。しかしそれは嫌悪ではなかった。だからこそ悪寒がした。そしてそれを見抜いた三郎の両の眼が爛爛とした。
「ああそうだ。君の身代わりにしたのだ。だからこれは最早俺だけの罪ではあるまい。」
「それはきみ、斎藤くん、あまりに言い分が横暴だ。」
「知るものか。君が俺をこんなにしたのだ。それだけは間違いがない。佛弟子であるのにだ。その罪を永劫贖い給えよ、佐伯君。」
