衣出③
***
「――そこでその秋の彼岸ではそれきりだったそうです。」
佐伯某がぼそりとそう零した刻限は既に十七時を越えていて、日は暮れなずみ炎は赤赤と滾り、彼と私という二人の男の面を焼いていたのだった。天は薄墨色と薄朱色が互い違いになっていた。私と佐伯某の表面や、ともすればテントの一部分だけが炎のために赤く染められまた強風に揺らされている。ぎゅうと寒さが肉躰の芯を刺すようだった。
私は黙って二つのホットワインを用意した。佐伯某は黙って受け取る。私の愛用のステンレス製のマグは人気のブランド製でロゴが目立っていたが、佐伯某のマグは百円均一で売られていそうなぼこぼこの安物だった。しかしそれがかえって良い塩梅に思えた。年季も入って見えた。堂々と安物を使い切れるように使うというのは、そこに人生観其の物が現れているようにも思えた。そして私は、果たして分相応な生き方をしていると言えるのだろうか。今は特に強くそう感ぜられてならない。佐伯某の滔々と語るのは、戦時中に命を落としたある一人の軍人青年の激烈なまでの告白の物語だ。その幽鬼が語らうのは彼の生前思慕した僧侶に対する絶句を齎すまでの執着であり、更にその僧侶に対して彼の語るのは彼が死地で経験した魂を振り絞るような情交経験である。
私には死んでも経験することのない激しくも切実な命の内容だ。その重さを佐伯某の語り口は切々と本質を零し余すことなく伝えてくるのである。と佐伯某はマグの中の物に目を落としてふっと目許を細めた。
「果物も入れていただいたのですか。」
「はい。乾物ですがこうすると美味いので。」
「ありがたい。」
佐伯はふうふうと吹き覚ましてホットワインをすすり飲んでから、ほうと中空に白い息を吐き散らした。
マグを焚火台の縁に置くと佐伯某は背凭れに全身を預けて薄墨色の空を見上げた。私から見た佐伯某の向こう側には闇色に染まり始めた壁がある。風防の為に一直線に並べて植えられた樹々である。これは夫々がもう十メートル近くはあろうか。肩を並べて行儀よくざざんざざんと揺れている。
「日記によると斎藤三郎が次に現れたのは春の彼岸だったそうです。」
佐伯某がそう言うので、私は「ああ。」と少し笑った。
「どうしました、後藤さん。」
「否失礼、私なんかは感性が下衆なので、斎藤氏は年に一度の逢瀬では我慢がならなかったのだなと、そう思いましてね。きっと半年を待つことも苦しかったろうなと。」
彼岸は年に二度ある。春の彼岸と秋の彼岸だ。そして斎藤三郎は、その両彼岸を余すところなく逢瀬の機会としたのだと判じたのである。そしてその勘繰りは外れていなかったらしい。しかし。
「ええ、そういうことですが。」
と、佐伯某のどうにも歯切れが悪い。漸う気付く。
「あの、続きをお伺いするのは、さすがに無遠慮になりますかね。」
「ああいえ、寧ろこれ以上先を聞くのは貴方がお厭ではなかろうかと、」
「ああ。」
ここで伏せたその言葉の先を汲み取り理解した。私の対応次第でこの先の話しを続けるかどうかを決めるということだろう。つまりこの先は斎藤三郎という男の、本当の男の本懐の部分に当たるということだ。
「差し支えなければ。乗り掛かった舟ともいいますし。」
否、既に乗ってしまった舟であるか。私は最早斎藤三郎という男の執心の在処を知りたいと強く興味を沸かせていた。明慶という美僧が何故にしてそこまでこの斎藤三郎という男を引きつけ執心せしめ死地で恋狂うように他の男とまぐわうに至らしめたのか。
ばちりと炎が爆ぜる。かくりと佐伯某の頭がこちらを向く。ぬぼっとして見えていたはずの禿頭の男の眼差しがぎらりと光って感ぜられた。
「日記では、続いて次の春の彼岸でのことが描写されています。」
***
春の彼岸はまだ冷える。庫裡の寝間には蚊帳の代わりに火鉢が出されていた。就寝間際、明慶がその火鉢で冷える指先を炙っていると、ふと雪見障子の向こうに影が差した。その向こうが明るいのは灯のためではなく、月が満ちていたからだった。
「入らないのかい。」
そう声を発すると「赦しがなくては境は越えられないのだ。」と僅かにくぐもった三郎の声が答えた。先の秋の時とは違い静かな声音だった。
「そうなのか。」
明慶が小さく呟くと、ことりと軽い物音がした。軍服の胸から下が縁側に腰掛けている様が硝子の向こうに見えていた。胸から上は障子に隠され明慶からは影しか見えない。向けられた背中はしゃんとしていたが表情が見えぬから心までは捕らえられぬ。しかし声音から窺い知れる何かはある。明慶は手を炙っていたのを下ろして膝の上にきちんと揃え置いた。
「ねえ君、あの世ではどんなふうにしているのだい。」
微かな稚気から明慶がそう言うと、三郎は「ふ」と笑みに胴を震わせてその影が小首を傾げた。
「どうもしないよ佐伯君。生きていたころと何も変わりはしないのだ。地獄というのはその心持ちひとつで視える世界が変わるに過ぎぬのだ。」
「では、生きている私もこの世が辛く視えていれば、只、人間ではなく地獄の囚人ということになるものだろうか。」
「俺のような人殺しの軍人が坊主の君に対してあの世の真実について教えるというのもまた不可解なものだな。」
「仕方ないよ斎藤くん。だって私はまだ死んでいないのだもの。」
「あはは」と軽やかな笑いが雪見障子の向こうからおこった。
「死んだ俺と生きている君。隔てるものはこの薄い障子ひとつきりか。」
「言葉が交わせるのだもの。そういうものかも知れないね。」
「ならば心もまた交わせるものだろうか。」
ちり、とその言葉は何処か焼け付くような真剣に満ちていた。明慶は微かに目を伏せ「心が何であるかにもよるかも知れないね。」と混ぜ返した。
「佐伯君。君も随分と非道い。」
「非道いって、なにが。」
「そうだろう。俺は君に包み隠さぬ本心を綴ったものを既に読ませているじゃあないか。魂や心というならばあれが生きた俺の本心の全てだ。それを知りながら君はなお俺を受け入れぬと情のない。」
「情といって、君は何も私に伝えてはいないよ。」
「そんなわけがないだろうに。」
「だって君、心をといったってあの手帳にあったのは私の肉躰を自らの一物で永遠に狂う程に穿ちたかったと、そういう情交や欲情の果たせなかった無念についてばかりだったじゃあないの。」
「――村のものが今の言葉を聞いたら魂消るぞ、佐伯君。君の口からそんな、」
「いいじゃないの。どうせここでは斎藤くん、君と私しかいないのだもの。」
「井田さんは。」
というのは寺男の名である。
「井田さんも、ミツエさんにも外してもらっているよ。彼岸には必ず君が来るものだと思ったからね。夜は一人にしてくれと頼んだの。」
す、と障子の向こうで三郎の半身が此方を向いた。
「佐伯君。君」
「地獄とは、」
明慶が三郎の言葉を遮る。
「地獄とは本当になんだろうね。君の言葉が本当ならば、生きていた君の目が見たこの世もまた地獄であったのだろう。地獄とは、君の目からはどう見えたのだろうね。」
「――ただ、赤かったよ。」
ぽつりと呟きが落ちた。明慶が視線を向けると、窓の向こうにひらりと白い雪が落ちた。
「視える全てが赤く、そして苦しかったのだ。」
三郎の上半身は此方に向けられたままだ。顔は障子に隠れて視えねども、その眼差しは恐らく苦しく熱で焼け爛れていることだろうと明慶には察せられた。
「吸う息は全て甘く苦く眩暈を起こすのだ。それも全て、この世に君がいるためだ佐伯君。君という存在は俺の生きる場所を天も地も赤く焼け爛れさせて地獄へと塗り替えるのだ。」
「ならば、君は私がいない場所にずうっといればいいよ。そこは極楽か、若しくは君を人間にしてくれる場所となるのじゃない。」
「非道いことを言うな。君のいない場所など只無限の闇だ。地獄にこそ救いがあるというものだ。最早君のない世界に俺の存在する意味などあろう筈がない。」
ひらりひらりと季節外れの牡丹雪が落ちて――、
「嗚呼、やっと君の心が視えたよ、斎藤くん。」
明慶は、安堵した。
***
はや日は暮れ果てぬ。焚火の勢いも落ち着いた。受け皿の内で、ぱつぱつとささやかな小声のようなものが爆ぜる限りである。
「心が視えた、と。」
我知らず独り言ちていた私に佐伯某が「ふふ。」と笑った。その手の内にはいつの間にやら再びマグが握られている。
「温め直しましょう。」と手を伸ばすと「ありがたい。」と佐伯某はじっと私の目を見つめ返してマグを持つ手を伸べた。私の手と佐伯某の手が一瞬触れる。只それだけの事が異様にくっきりとした事実として其処に発生していた。それを振り払うように私は佐伯某の呑み残しをパンに移し替えて温め直しはじめた。
「佐伯明慶という男は、」と佐伯某が言うので首を向けた。佐伯某は伏し目がちにその両手を顔の前でさすりながら「実際斎藤三郎よりも余程心のつかみ取りにくい人物だったのでしょう。」と述べる。
「そうですね。私もお話を伺う限り斎藤氏のほうが余程その心情が分かるし、なんなら共感も出来る。だが明慶氏は自分の考えについては何も語っちゃあいない。」
「そうなのです。」
我が意を得たりとしたか、佐伯某はゆったりと菩薩のように笑んだ。私達の間の闇は更に深まっている。それが佐伯某の顔だけが炎に照らされて揺れるのだから、私の腹の内側もざわりと怪しく惑った。
「周りが勝手に狂うのであって、それは明慶のせいではない、と僕は言いましたが、もしかしたら矢張り明慶のせいでもあったのかも知れない。」
「と言いますと。」
「明慶は極めて清く素直な人間でしたから、彼を見る者の本意を丸ごと返してしまっていたのかも知れない。そういう風にしてしまう存在だったのかも知れない。明慶自身の心は視えず、ただあるがまま、彼の視たままを人に返すような、そんな。」
「ああ、鏡ですか。」
ふと思いついて述べた私に佐伯某はなんとも辛そうな顔を向けて頷いた。
「そうです。屹度。鏡のような何かなのです。」
「私の聞いた話ですが、人間は鏡に映った自らに向かってその名を呼び話しかけ続けると精神が狂うのだそうです。それに似ているのかも知れない。」
「嗚呼、屹度そうだ。そういうことだ。」
佐伯某が苦しそうに口元を歪めた。
「非道い男です。佐伯明慶はね、後藤さん、この時君の心が視えたと微笑んだ。だのにこの後斎藤三郎を決して寝間には入れてやらなかったのです。」
私は言葉に詰まった。
「この後明慶氏は日記になんと書かれていたのですか。」
「何も。何も書いてはいないのです。」
「それは――、」
確かに情がない。
「後藤さん、僕はね、視えたというならばそれに対して何かしら述べて然るべきだと思うのです。少なくとも斎藤三郎には受け入れる受け入れぬの回答をして然るべきではなかろうか。でなければあんまりにこの男の純情に対する態度としては非道い。袖にするならするで終わらせてやればいい。それで屹度斎藤三郎も何らかの諦めが着くなり成佛するなり憑りつくなりできたはずでしょう。放置が一番厭らしいですよ。」
「まあ明慶氏からすれば憑りつかれるのは厄介でしょうが。」
「しかし打開にはなる。今の斎藤三郎の状態は言ってみれば無間地獄のようなものだ。これを放置するのは僧侶としてもあるまじき愚行だと僕なんかは感ぜられましたよ。無体だ。」
言わんとするところは私にも感情的に理解出来たので「そうですね。」と首肯した。
パンの中身は十二分に温まっていた。乾物の果物ごと再び佐伯某の安物のマグカップの中に戻して彼の前に差し出す。
そうして、私は、
自ら佐伯某の網にかかってしまったのである。
「――結局明慶氏はそのままにしたのですか?」
私のその問いをこそ佐伯某は待っていたのだと後になって知れたがもう遅かった。佐伯某が私を視る。目を見開き、熱の籠ったぎらりとした視線で私の心臓を突き刺す。そしてふうわりと微笑むと、マグを持った私の手毎その両手で覆ったのだ。いっそ、艶めかしく。
「いいえ後藤さん。佐伯明慶は動いたのです。」
「佐伯さ、」
「境を越えるというのはね、受け入れるばかりが赦すことではないのですよ。自らが越えてゆくという暴挙もある。明慶は立ち上がり雪見障子を開けたのです。そして、」
佐伯某の立ち上がり、唐突に、そして断りもなしに、私の唇を奪ったのを、私は止めもしなかった。
唇と唇の離れた先から、闇と凍えが濃くなり、私はぶるりと震えた。
「「外は本当に寒いね斎藤くん。私の手は炙っておいたから少し暖かいよ。どれ、君の首筋をこれで温めてあげよう。」――そう言って佐伯明慶はね、後藤さん。」
佐伯某はマグを焚火台の縁に置き、その両手を私の襟元に忍び込ませた。その手は温め直したホットワインの熱で熱かった。そしてそれは私の頸動脈を緩やかに圧迫した。ほんの僅かな匙加減を変えただけで今にも私を縊り殺せそうな、本当に繊細な境界にあった。
***
幽鬼が生きた坊主に縊り殺されるなどという珍事が果たして起こりうるものだろうか。しかしこの時私はそういうこともあるかも知れないと、何となくそんなように思ったのである。
この後佐伯某はすとんと椅子に座り直して、全く何事もなかったかのように再び話し始めたのだ。
この時、明慶の手に首を包まれた三郎は一条の涙を零して姿を消したのだそうである。それで春の彼岸はもう姿を現さなかった。
次に三郎が現れたのはその次の秋の彼岸の入りだった。丁度再会から一年が過ぎていた。その時の二人はまた蚊帳を挟んで対峙している。この時の会話はこうである。
「おハルさんの産んだ娘は、もう五歳になったよ。」
「そうか。」
「君のお父さんの容体は芳しくはないそうだよ。」
「そうか。」
「長一さんから内々に、お父さんの許可が出たと聞いたのだけど、おハルさんを後妻にもらって、娘も正式に彼の娘という事にするらしい。」
「収まるべきところに収まってくれれば善いのだ。」
そう言ってから三郎は「俺はもう死者だから関係がない。生者の世界のことは生者の内でやってくれればよいのだ。」と続けた。
「では私も生者なのだから執着を断ち切れば善いのではないの? 斎藤くん。」
それで三郎は心底可笑しく悲し気に笑った。
「君は本当に非道い男だ。死者の魂を導きもせず惑わせたままで平気な坊主だ。」
「ねえ斎藤くん。」
「ああ。」
「君は私に坊主であってほしいの? それとも愛人になってほしいの?」
「――嗚呼君は本当に非道いな。急にそうして核心に迫るのか。ああ良いとも答えよう。その両方だ。俺は君のその清らかな無関心に囚われて溺れたのだ。苦しくて苦しくて振り向いてもくれぬ君にこの灼熱地獄を分かってほしくてあの日君を池に落としたのだ。俺と一緒に溺れて、ずるずるに汚れて欲しかった。」
「じゃあ、私を抱けば君は本当に救われるの?」
「分からないさ。本当のことなど。」
「じゃあ、」
つ、と明慶が正座を崩した。横座りに姿勢を変えた所から、ついと右脚一本で着物の裾を割って三郎の方へと差し出した。眼差しは清くその唇は桜貝色でほんのり微笑んでさえいた。
「斎藤くん、君にこれを与えたところで、それが君の救いの本懐でなければ私は只の汚され損ではないかしら。」
唐突の無自覚な媚態に三郎は額を覆った。
「嗚呼お前は本当になんと非道い男なんだ。君は男の苦しみというものをまるでわかっちゃいない。だからそんな非道いことを平気でするのだ。俺はいっそ君を取り殺してしまいたいほどだ。そうして永劫に犯し狂わせてしまいたいのだ――」
「ならば入って来なさい。」
蚊帳の外で三郎がひょっと息を呑んだ。
「佐伯君、きみ、それは、」
「誰一人、指一本、私の純潔を汚した者はかつてないよ、斎藤くん。そんな私の肉躰を君は犯したいと言った。ならばやってみるがいい。」
「だって、しかし君の伯父は、先代は、幼い君を、」
明慶の眼差しがすうと冷えた。
「そんなわけがあるだろうか。あれは君らの勝手に邪推したものだった。罪ならば君ら村の者にあるのだ。あれが伯父上に無実の罪を着せたのだ。私に罪があるというならば私の言葉が引き起こす妄想の可能性を知らなかった穢れなき無垢の無知というべきか。否そんなことは今はいい。君、入りたいなら入り給えよ。そうして確かめるといいよ。」
ふわりと蚊帳が揺れた。
「君は私がエロチックに汚されたものと思って、その劣情を寄せる対象として見出したに過ぎないのではないかしら。幼いころの君は芽生えたばかりのリビドーに導かれて小さな君自身を呼び起こされてしまったのだろう。そうしてそのままその熱い血潮のどくどくとした手綱捌きのならぬもどかしい快楽の記憶から逃れられないだけなのだ。私はそう見ているよ。」
「違う、佐伯君、俺は真実君の事を愛して、」
「だったらばそれを実際に確かめてみるといいと言っているのだ! 汚され犯された私を同じように汚し犯したいというその歪んだ暴虐とも言うべき欲望の餌食にしたら君が救われ浮かばれると言うのならば、いいさ、やってみるがいい。」
蚊帳が、揺れる。
藤袴が。
女郎花、
萩、
桔梗が、ふわりと。
煉獄に身も心も焼かれるひとりの男が、すらりと蚊帳を持ち上げ、中に入った。
「相判った。これをただひとつの真実の恋情として、君に捧げよう佐伯君。俺は一途に君の為に、この魂を、死ぬ。佐伯君、俺の真実悪があるとするならば、これを望むことそのものだろう。俺の愛の為に山城は利用された。俺の愛を引き出したのは君なのだから、君、佐伯君、君はこの美しい蚊帳を被るの如く、俺と共にこの罪を被ってくれ。」
