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衣出④

 ***

 明慶めいけいが寺の養子に貰われてからおおよそ数ヵ月のころ。暑さの消え肌あたりの良い秋が訪れていた。天の青はすっきりと抜けるように高く、石畳いしだたみ濡らすうるみの濃い落葉も赤か黄か茶。田畑の脇を毛細血管のように走ることで分け隔て、つるつると水を届ける細い溝渠こうきょは、何処いずこかで落とされた金木犀の濃いオランジュ色の小さ星をいくつもいくつも天の河の様に流していた。明慶が六つ、三郎が七つの時分であった。

 その日、三郎さぶろうは家の使いで寺へ向かった。はぎしげる角を曲がり見慣れた寺の石段(これは御影石で出来ている)をのぼろうとして、その石段にうずくまり泣く明慶と出会った。見れば彼はその膝を両方擦りむいていた。

「転んだのか。」

 それが三郎から明慶へと掛けた最初の一声であった。顔を上げた明慶のおもては矢張り色白く唇は桜貝のように艶やかな薄紅色で頬は涙に濡れていた。

「うん。」
「おじゅっさんに手当てしてもらえよ。」
「うん。」

 歯切れが悪い。

「なんだお前𠮟られでもしたのか。」
たれるの……。」

 と言いながら明慶は小首を傾げてその小さな右手を自らの左襟元に這わせた。その手でつうと衣服を肩口まではだけさせると、生白くほのかに光るような肌が現れ、その上には赤紫色の花のような痛ましい痕が残っていた。というのはつまりきょうさくで与えられたものなのだが、それは三郎の身の内をどくりと動揺させ、次いでその憐れな様に同情と憐憫の情を覚えさせたのだった。思えばこれが全ての始まりであったのだろう。

「でも痛むなら薬を貰わねばいかんだろう。おじゅっさんが怖いなら井田さんか能美のうみのおばちゃんにこっそり手当てしてもらえばいいさ。」
「一緒に行ってくれるの?」

 ちらと上目遣いで見上げる明慶の睫毛はまだ涙でしとどに濡れている。それを苦しいような気持で見つめながら三郎は「ああ、行ってやる。」とその紅葉もみじの如き手を伸べた。

 馬手めてに届けの荷を抱え弓手ゆんでで明慶の手を掴み、細かな砂利石を靴底の下ににじらせながら上る石段の時間は、金木犀のと共にくっきりと、正に印画紙の如く三郎の心に焼き付いたのだった。

「僕、アキくんというの。明慶あきよしくん。君は?」
「三郎。」
「サブちゃんね。サブちゃんは大きいのね。それにしっかりしている。しっかりものね。それ、おつかいでしょう? 一人でもうおつかいにもやられるのね。立派だと思うな。」
「アキくんは早生まれなのだろう? 先生が言ってらしたよな。だから仕方ないさ。俺は四月の生まれだからな。」

 二人石段を上り切り境内を行く。井田が毎日丁寧に掃除をしているから落ち葉などほとんど見当たらないのだが、唯一池のふちに植わる楓から落ちた紅葉だけが水面に透かし模様の如く浮かべられたままになっていて、それはそれで自然で美しいからそうしているのだった。二人繋いだ手の内にしっとりとしたぬくみがあった。

「おじゅっさんも相変わらず厳しいな。り何時までもお独り身なのがいかんよなぁ。大国さんがござればもう少し丸くなられるじゃろう。」

 という三郎の言葉は彼の父親の時折垂れる陰口であるのだが、これを息子が聞いていたなどと親の方は知らぬし、ましてや三郎もこれが口に出しては不都合であるとの理解もない。更にはこれを又聞きする明慶にも意味は分かっていなかった。ただ素直に疑問が出た。

「大国さんというのはなぁに?」
「なんだアキくんたら寺の子なのに知らぬのか。嫁さんのことだ。母ちゃんになる人のことだ。」

 そこで明慶がきょとんと歩みを止めた。それにつられて三郎も脚を止める。

「どうしたアキくん。」
「でも伯父さんはお坊様だから、お嫁様はもらわないのだと思うの。」
「とても偉いお寺さんならそうだろうが、おじゅっさんは村のお寺さんだからなぁ。まあアキくんが来たのだからいいのかも知れんが、本当ならば寺のことを回してくれる女の人がいたほうが良いし、寺の跡継ぎもいるのだから。」

 明慶が「ほう、」と何かに思い至ったように息を吐いて笑った。

「ああ、そうかそうだわ。」
「なにがそうなのだ。」
「僕よ。僕をおもらいになられたのだから、僕が伯父さんのお嫁様みたいなものなのかも知れないよ。」
「いやそれは変だ。」
「そぅお? どうして? だって色々お寺のお手伝いのことなんかも教わっているし、夜も一緒のお寝間で休むのよ? 僕がさみしくて泣いていると、いっしょのお布団で眠って身体を撫でてくださるよ。」

 思いついた答えを否定された明慶が言い募った論拠は三郎の心を不快にざわめかせた。

「そんなの変だ。だって、大人と子どもじゃあないか。大人と子どもが結婚するなんて変だよ。」
「僕だっていずれは大人になるもの。そりゃあ今は小さいけれども。」
「でも今は違うのだから、矢ッ張り良くないと俺は思う。」
「うう。」

 面と向かっての強い口調で三郎にそう言い切られてしまっては、幼い明慶に反論する程の強い心はない。眉間に皺を寄せる。

「じゃあ、僕は何のためにもらわれてきたというの? 伯父さんのお一人でおさみしいのをほんの一寸ちょっと御慰おなぐさめするためだけなのかしら? 本当の家族にはしていただけないということ?」
「それは……。」
「僕はお父さんやお母さんや姉さん兄さんとも別れさせられて、いっぱい泣いて我慢してこのお寺にやってきたのに、偽物でしかいられないというのならばそれは非道いと思うの。僕だってちゃんと本物の家族として愛されたいわ。」

 ぽろりとまたひとつ明慶の目から涙が零れ落ちて、三郎の心臓がぎゅっと甘苦く痛んだ。それは三郎に強い責任意識と決意を抱かせたのだ。明慶の小さな白い手を握り続けていた手にぎゅっと力を込めて、一寸ちょっと二人の間で持ち上げた。

「じゃあ、俺が君をお嫁にもらってやったらいいのじゃないか。」

 途端明慶のまなこがぱちくりとまばたいた。

「サブちゃんの?」
「ああ。大きくなったら屹度きっとそうしてやる。俺が君に白無垢を着せて大事に迎えてやるんだ。だからそれまで辛抱するんだぞ。」
「痛いことは時々しかない? 夜には一緒のお床でくっついて休んでくれる? お風呂ではちゃんと抱っこしてくれるの?」

 ここで心の幼い明慶と早熟した三郎との間に大きな認識の齟齬そごが出た。それが後になって住職の明慶に対する虐待疑惑となり、引いてはその噂の為に彼の嫁の来手きてを失わせ終生独り身でまからせるという極めて不幸な禍根を残すことになるなど何人なんぴとも思いはしなかったのであるが、これはまた別の話しか。

「痛いのは……痛くないように、する。夜は夫婦は同じ布団で寝るものだ。ウチは父ちゃん母ちゃん別の布団だけども母ちゃんは夜によく父ちゃんの布団に移って朝には自分の布団に戻っているから同じことだろう。風呂も抱っこして洗ってやる。」

 そこまで三郎がいうのを聞いて明慶はようやくにっこりと笑った。

「うん。わかったわ。ならば僕はサブちゃんのお嫁さまになるね。大事にしてくれるのならば、それは僕、うれしいことなんじゃないかしらと思うわ。」

「――本当に、だから非道い男だと言うのだ、君は。」

 すっかりと忘れ去っていた過去を三郎のかいなで聞かされ、明慶はわずかに赤面した。

 警策に打たれた赤紫のこんはとうの昔に消え失せていたが、今はまた違うふじばかまの如き鬱血の華を明慶の肩に咲かせている。抱っこされているのは風呂ではなく四方を季節の草花に囲まれた蚊帳の内、しとねの上、三郎の膝の上であるが、素肌と素肌の間にしっとりと薄く汗ばんだものがあるのは、もしかしたら湯殿でそうするのと変わりがなかったかも知れぬ。

 ***

 焚火ははや落ち着きぬ。後から申し訳程度に放り込んだ炭の赤赤としたものが闇の中、焚火台の低い位置に浮かんで見える。佐伯さえきなにがしの語りに聞き入り過ぎたか。知らぬ間に喉の奥に痰の絡んでいたものを私は咳払いで押し込んだ。明慶めいけい三郎さぶろうの二人の身の上において情交の至ったエピソードはそれ程までに私の情緒を揺さぶったらしい。胸を走る動悸は思わぬ速度であった。吐息が零れる事を自らに禁じえない程であった。

 苦しい。確かに私は苦しかった。何が。心が。何故。何故と言って明慶が。嗚呼そうだ通じたのか。幼い時分の小さな約束ともつかぬ遣り取りをこの美僧が思い出してくれて三郎が随分嬉しかったろうと心を震わされて。ずるりと、既に埋められてしまった筈の池に共に落ちてくれて。韓紅からくれないの紅葉の色に汚れて、落ちて、純情を明け渡してくれて、俺の為に俺の恋着俺の後悔俺の魂、俺の――はじまりに犯されることを赦してくれて。

 そうか、私は知らぬ間にこの三郎の心に打たれ、この男の烈火の如き執着に心が共鳴りし、この愛だか情欲だか知れぬ囚われ心地の報われることを一心に祈ってやってしまっていたのだ。

 そして呆然と茫漠ぼうばくと宙に浮いた私の眼差しを捕らえる者がたった一人、そこにある。

 当然、それは佐伯さえきなにがしでしかない。

 ぱちん。ぱちぱちり。

 りーりりー。

 びおうおう、ゆううう。

 虫の風の山鳴りの、ひっきりなしに四方八方より私と佐伯さえきなにがしを揺さぶるのは、今更私の脳裏に追いついて認識された、彼によって行われた無許可の口付けという暴挙が、まごうかたなき事実として既に私達の間に存在している為か。それに対して私の抱く強い困惑が、更にそれらの音を五月蠅うるさく聞かせているようなそんな気がしてならなかった。

 佐伯某の目はじっと私を見ている。見つめている。闇の中だのにそれが手に取るように判る。

 ぬぼっとして見えていた筈だったこの男の印象が、最早それとは真逆であった。今見えるこれは正に狩人のような男であった。ばくとして見せていたのは操作だったのだ。私に警戒心を抱かせる事なく、するりとテリトリに入り込み私に許させた。許す。何を? そうだ。佐伯某に私は許したのだ。この明慶と三郎の物語を、その日記の語る所を私の知識と情緒にじ込むのを。

 嗚呼、私はなんと無防備で愚かだったのか。

 相判った。

 これをただひとつの真実の恋情として、君に捧げよう佐伯君。

 俺は一途に君の為に、この魂を、死ぬ。

 ああ。私だってこんな言葉を言われてみたい。

 この年齢で平日に独り、こんな自由に野営などしている。出版出来る当てもないのに彼方あちら此方こちらで取材を続けて誰にも見てもらえない文章を書き絵を描き続けている。それだけで十分に実態のお察しのつくものだろう。私はずっと独りで一人で、ひとりなのだ。

 この魂を死ぬだなんて。そんなにまで一途に滅びを受け入れる程の強く激しい愛を、私だってこの身に受けてみたい。それ程までに誰かに思われて見たい。人とは誰だってそうなのではないか? 

 否然し実際はそうではないのかも知れぬ。激しく求められたいのは真実として、それが誰かにといっても本当は誰でも良い訳ではなかろう。何か屹度きっと線を引く物があるのだ。この人間にならば愛されたいと、この人間に愛されたらいいなぁと残酷なまでに明瞭はっきりと分ける線が。人間は贅沢で我儘で身勝手なのだから。そしてそれが許されるような、他に優れて蠱惑的な才能を有していたいのだ。先天的な魅力のような何かが自らの中に眠っていることを、本能的なセクショナリズムによってそれが揺さぶり起こされるのを期待しているのだから。何人なんぴとか、優れたる溺愛者にこそ反応をもたらすエロチックな才能を自らがもっていることを本音では懇願しているのだから。

 ――ああでは、今私がこの佐伯某の視線を嫌がっていないのはどういうことか。

 これは、この佐伯某が、私の引く一線を既に越えることに成功してしまっていることを意味するのではないか? 

 嗚呼、否、違う。待て。

 私には同性愛の気はない。

 何を考えている。酔いでも回ったか? ホットワインとはスパイスや果物を混ぜて熱したものなのだからアルコォル成分など飛んでしまっているだろうに。

 佐伯某の目がじっと私を見つめている。

 この目は誰の目だ。これは、

 斎藤さいとう三郎さぶろうの目ではないのか。

「おいで。」

 佐伯某の手が私に向けて伸べられる。私はゆっくりと立ち上がりその誘いに応えてしまう。捕まえられた手は佐伯某の引き寄せる力に従順であった。闇夜は深く、周囲には誰もいない。嗚呼そもそもこのキャンプ地にて今宵は我々二人しか客がない。

 引き寄せられて私は佐伯某の膝の上にまたがる。嗚呼、見下ろす顔は見覚えがあるようなないような、私はあの夜の三郎に跨った明慶のようであった。否、明慶であった。

 闇夜の中、私はこの男に溺愛される、或いは従順な溺愛者の魂を支配する魔性の美僧となっている。

 ――そうして私は私が何者なのかを忘れた。

 ***

 良いかい?

 そうか、良かった。

 ああ、良いんだよ、思うさまに鳴いて良いんだ。

 大丈夫。誰もいない。

 ここでは俺と君だけだ。

 己の本能に従うんだ。それが今この瞬間の真実であるのだから。

 
 そう。ふたりきりだよ。

 君の上にくっきりと痕をつけてあげよう。

 赤紫色の花だ。ぎゅうと熟したふじばかまの花のような。そんなこんを散らしてあげよう。

 嗚呼、矢ッ張り、

「君がいけないのだ。」

 そんなに物欲し気で淋し気で、いやらしく口元を僅かに開いて俺を見るから。

 そう。溺れて仕舞えば良いのだよ。俺が溺愛してやるから。

 曹衣出水という言葉があってね、これは中国北斉の曹仲達の佛画の画法なのだが、これの描く御佛は衣服が肉体にぴたりと絡みついているのだ。あたかも水中から御佛が出て参られたばかりのご様子の如く、御佛の肉体に衣服がぴたりと張り付いていて、その肉体の造作があからさまになっているんだ。

 君もそうであるといい。

 君が俺に溺れた証として、れかしと心底思うよ。

 更にいうならば、俺も俺の身に君を纏わりつかせたい。君に纏わりついて欲しい。この衣の如くぴたりと。

 池の泥に嵌り、その水面に散りばめられた韓紅からくれないの紅葉に纏わりつかれるように。

 ああされたいと焼け付くように願う心をって欲しかったのだ。

 ああそうだ。俺が、衣だ。


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