衣出⑤
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N県Y山の奥深くにひとつの禅寺があるという。
この寺に類稀なる美僧があった。深謀遠慮かつ博識の人格優れた人物でもあった。村民の尊敬も深かったという。
しかし何時のころからか、春の彼岸と秋の彼岸の夜には誰も寺に近付かないでくれと言い出した。
村民も夜は眠る。さして問題になるとも思われなかったから住職がそう言うならばと快く了承したものであるが、これがことの発端であったと後々に判る。
この村に斎藤という家がひとつあった。
この家の男は挙って気性が荒かった。特に女使いが手酷いというので村の内からは嫁の来手がなく、上手く誤魔化して余所から女を呼び寄せていた。羽振りと見目は良いので精々騙されたのである。村人は気の毒に思いながらもこれを看過した。自分の家から娘を出そうという者は何処にもなかったからである。男振りは良いため村の娘達は秋波を出したが、親が決して関係することを許さなかった。結婚は家と家で行うもの、それが当然の時世だった。
だが、この家の三男坊に本気の懸想をした村の娘があった。この三男坊は斎藤の男とは思われぬ程に辛抱強く働き者でまた心根が強く正直で一途な質であった。それでこの男が兵に取られると決まった折に、一夜のことと知りながら自らがその妻になると申し出た。時世柄、村の外から嫁を呼べるものでもなかった為、反対は出なかった。
しかしこの祝言の夜、三男は娘を抱かなかった。
己には懸想する者がある。よって君に応えることはできぬと。
娘は泣いた。せめて一夜の情けをと請うたが男は聞かなかった。
三男が出征した後、家にいた長男がこの嫁を凌辱した。自らの嫁には多大なる暴力をふるっていたためこれには逃げられている。嫁は身籠り娘を生んだ。産後間もなく長男の母、つまり嫁からすれば姑に当たる女が死んだ。病で床に就いていたが誰もこの看病には当たらなかった。この姑もまた自らの夫や舅姑から暴力を振るわれていた。そして己の息子や夫が三男の嫁としてきた娘に暴力を奮い凌辱しているのを庇わなかったのである。ただ胡乱な眼差しで一部始終を見たり見なかったりしていた。だからというわけでもないだろうが嫁もまた姑に何もしなかった。
そんな中、長男の方にこの嫁に対する情が湧いた。
なんということもない。この長男が再び戦地へ赴くことが決まった夜、組み敷いた下で嫁が泣いた。「どうぞご無事で」と小さく呟いた。只それだけの為だった。
戦後復員した長男は全てを改めた。この嫁を大切に扱おうと誓った。父や母や祖父母の暴虐を自らは引き継いではならぬと思ったのである。父親の気性の荒いのは進言しても変わらなかったので、なるべく嫁を庇い父親のいう命令は自らで聞いた。嫁の長男を見る目も変わり、穏やかなものへと少しずつ変貌していった。
父親はやがて記憶障害を起こした。家内に糞尿を垂れ流し、これを壁に塗り付けるようになったが、仕事の時以外はなるべく長男自らでこれの面倒を見た。娘も実の父親とは知らぬまま長男に懐き、戦後の事なので大変ながらも倹しく家族は暮らしていた。
そんなある日、三男の戦死の報せが届いた。三男は南方に送られたため骨も返されず、ただ粉砕目前の手帳がひとつきり戻った。長男だけがこれを確認し、弟の懸想の相手が寺の住職という同性であると知った。自分の汚した嫁が真実処女であったと知り頭を抱えた。その程度には人間が回復していた。これを正式に自らの妻子として扱うべく逃げた妻の特別措置法をもって死別と見なし、正式に籍を入れることにした。これは後に実現する。
さて、長男はこの手帳を骨代わりで墓へ納める前に住職へ報せた。父にも嫁にも知らせられぬことを己一人で抱えているのが重荷であった。住職は――詰った。
「長一さん、貴方はなんと無体なことを私に対しても強いるのか。」
住職の尤もな批難に長男は頭を垂れた。それで「俺も鬼だが償いには生涯をかける。」と言い残し庫裡を辞した。嫁と娘には真っ当な家庭を生きさせてやろうと心に誓っていた。
しかし本当に歯車の狂いだしたのはそれからである。
先述の通り住職からのたっての願いで春と秋の彼岸の夜は何人たりとも寺に立ち入ってはならぬと決まった。決まりは長く守られた。そうして数年が過ぎたころ。
住職との決まりを破り、彼岸の夜に寺に立ち入った者が終に現れたのだ。
この者曰く、死んだはずの三男が、住職と寝間の蚊帳の内で裸で抱き合っていたというのである。そしてこの者は真っ先にこれをハルに伝えた。
噂は瞬く間に駆けた。それは正式に長男の妻となったばかりのハルが血相を変えて寺に駆け込みその件について大声で喚き散らしたが為である。
この時畑にいた長男の下へ村長が報せに飛んできた。それと共に二人寺へ駆けつけたところ、ハルは村人数人に取り押さえられており、その前には頬を赤紫色に染めた明慶が倒れ伏していた。その傍らには警策が落ちていた。ハルが明慶を酷く打ち据えたのは明白で、打ったものの方が激しく泣き喚いていた。
「どこや、三郎さんをどこに隠したんや。三郎さんはうちの夫や。返せこの色情坊主が! 男の癖によくも人の夫を誑かしよって……!。」
ハルの声は遠くとおくまで、すうっと明瞭に突き抜けて、村全体に届くほどかと思われた。
決まりを破り、ハルにこのことを知らせた者は、その発端が引き起こす事態など理解も自覚もしてはいなかった。それ程までに其の者は未だ幼かったのである。
「本当よ。嘘じゃないの。お父ちゃんの写真のお顔そのままだったわ。お彼岸の七日間、わたし毎日かよって確かめたもの。住職様は天女様のようにお綺麗だったし、お父ちゃんは一生懸命でくるしそうだった。生きてらしたのよ。」
そう、ハルの産んだ娘は、にこにこと母に教えたのである。
彼女にとって実父とは相変わらず三郎に違いなく、またハルもそうと思い込み娘にそうと伝えていたものだから。それは長一と舅からの凌辱の過去を忘れるための、彼女の心を護るための、嘘であった。
***
明慶住職は男に狂った色情である。そんな評価が元々あったはずの彼の評価を瞬く間に塗り替え地に落とした。
三郎の死亡は間違いのないことであったから匿ったなどという話がある筈もないのだが、それでも寺の内を漁られた。明慶はただ黙って俯いていた。
そして娘の視たのは三郎ではなく三郎によく似た男だったのだろうという事で片が付いた。
結果、そもそも明慶に対して不穏なる劣情や色情を煽られていた村の荒くれ共が数人がかりでこれに暴行を働いたのである。
秋の彼岸の過ぎたその朝。
明慶は、楓の樹で首を括った。
ぶらぶらと風に揺らされて、糞尿垂れ流す足元はかつて埋めた池であり、赤や茶や黄色に汚された紅葉が土を覆っていた。
醜聞は駆け巡る。
明慶を襲った男共の大凡の見当はついていたが、彼に対して劣情を抱いていた村人はその限りではなく、これに対する罪悪感を打ち消すためか犯人捜しは終ぞ進まず闇に紛れた。
と同時にこのころ、村にはダム建設の話しが起こっていた。反対派と賛成派の何れの内でもこれに関する噂は囁かれた。人の口に戸は立てられぬ。
そして春の彼岸。その夜中。
斎藤の家の戸を叩く者があった。長一がこの戸を開く。気の狂ったハルの面倒を見るので長一はやつれていた。両目の下には隈がくっきりと刻まれている。その隈の上にある胡乱な眼差しを持ち上げるとその先に大きな影があった。その相貌を認識して長一は悲鳴を上げた。静かなる悪鬼羅刹の三郎がそこにいた。
翌朝、斎藤の家の内に生きた者はなかった。
内臓を引き摺り出されて息絶えた長一とハルの肉塊が、屋内の彼方此方にかつての父親が糞尿をそうしていたかの如く塗り付けられていた。唯一生き延びたのはハルの両親の家に預けられていた娘一人だけである。
これが春の彼岸の入り。
それから七日の内に総勢三十八人が死んだ。
何れも明慶に暴行を働いた疑惑のあった者、若しくは不埒な妄念を抱いていたと思しき者共であった。それに老若男女の別はなかった。
震えあがった村人はダム建設に早々に賛成し村を離れた。
この時、移住先として挙げられていた候補の内で、最も遠い二十キロも先の地を選んだのには、そういう理由が隠されていたからだった。
今でも彼岸の折には、楓の樹の傍らに佇む三郎の姿が見られるという。
明慶の墓は寺ではなく、村からやや離れたOの地に建てられたそうだ。
「矢張り、君がいけないのだ。」
佐伯某はそう囁いてから、私の首を静かにゆっくりと絞めつけていった。
かつて斎藤三郎が、情交した後の山城を汚泥の底で絞殺した時と同じように。
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霧けぶる朝ぼらけ。
いつの間に戻ったのか自身のテントから表に這い出ると、隣のキャンプに張られていたはずの軍幕はなく、また佐伯某の姿もなかった。
彼にホットワインを供した痕跡も残っていなかった。
その日の内に町立図書館を訪ねてみたが、佐伯某の話していた禅寺などというものはこの地になく、またダムの底に沈んだ村もないと、定年間際と思しき女性図書館員は、怪訝そうな厭そうな顔で俯きながら言った。胸に着けた名札の名が偶然にも斎藤姓であった。
佐伯明慶も斎藤三郎もこの世には存在しなかったのである。
私は、図書館を後にした。
車に乗り込んでからつと右手を自らの左襟元に這わせた。その手でつうと衣服を肩口まではだけさせると、バックミラーに生白く仄かに光るような肌が映し出され、その上には赤紫色の花のような痛ましい痕が残っていた。
ふふと嗤いが漏れる。
嗚呼、そう。そういうことか。
「君は本当に非道い男だ。」
溺愛の花痕だけを遺して、君の愛撫に溺れた一夜の記憶だけをぴたりと私の肌と魂に纏わりつかせて、そうしてまた君一人だけで彼岸へと渡っていってしまうのだから。最早、昨夜の一部始終を記録した筈のテープを再生して、その真実を確認してみようなどという気も起らなかった。
良いよ。
また次の彼岸が来たら、
「入って来なさい。」
そうして確かめると良いよ。
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カウンターを後にした男の背を見送ると、やおら老女性図書館員は立ち上がりバックヤードに下がった。扉の奥の書架の前に独り立ち、顔を覆う。
「――お父ちゃんたら、どうしてもまだ似た人をさがしてしまうのね。」
震える声で歯を食いしばる。
もうこれで何度目だろうか。色白一重で奥手そうで、明らかに遠方から来たと思しき男性が、彼岸の度にこうしてあの古い事件を蒸し返しに来る。わざわざ図書館まで調べに来る。その都度そんな寺はない、惨殺事件のあった村などない、ダムにも沈んでなどいないと彼女は否定し続けるのだ。
その来訪は彼女の眼前に容赦なく突き付け続ける。
彼女の罪を、その穢れなき無垢の無知の為に奪い失わせた命の重みを、思い報せんが為と言わんばかりに。
ちりん、と何処かで風鈴が鳴った。
ああそうだ。矢張り、君がいけないのだ。
(了)
