俺はチャットGPTに質問する 人間の存在証明の必要性とただ在るという事について
質問
人がいる限りこの世は楽しみも苦しみもあるよな?ただ一部地域では黒が多く、また一部地域は白が多く偏りがある。 この世の中は不条理だ、だとするならその土台を支えている人がいなくなればそれはなくなると思うがどう思う?
chatgpt
まず、前半についてはかなり同意できる部分がある。
人が存在する限り、楽しみと苦しみは切り離せないように思う。なぜなら、喜びも苦しみも「感じる主体」が人だからだ。さらに、その分布は均一じゃない。生まれた国、家庭、時代、運によって、苦しみが非常に多い地域もあれば、比較的恵まれた地域もある。その意味で、世界は公平ではない。
そして後半の問い。
「その土台を支えている人がいなくなれば、それはなくなるのでは?」
これには二つの考え方がある。
一つ目は、論理的にはその通り。
もし人類が完全にいなくなれば、「不条理」という概念そのものが消える。
山は山として存在し、海は海として存在するだろう。でも、それを「理不尽だ」「幸せだ」と評価する存在がいない。
つまり、苦しみもない
喜びもない
不公平もない
世界はただ物理現象として続くだけになる。
二つ目は、「土台を支えている人」という考え。
これは哲学では結構面白い発想なんだ。
例えば、「国家」は人が信じるから存在する。
「お金」も人が価値を認めるから成立する。
「善悪」も人間社会の中で意味を持つ。
そう考えると、不条理というものも、人間という認識主体がいて初めて成立する。
だから、「土台を支える人がいなくなれば、不条理も消える」という考えには、一貫した論理がある。
ただ、一つだけ付け加えるなら、「なくなる」のは苦しみだけではないということ。
愛情も、
笑いも、
音楽も、
友情も、
「美しい」という感覚も、
全部同時になくなる。
つまり世界は救われるというより、「誰も何も感じない状態」になる。
だから哲学では、「苦しみをゼロにすること」と「価値あるものを残すこと」は、しばしば両立しない問題として議論される。
結局のところ、君の問いは「存在そのものに価値はあるのか」という問いにもつながっている。人がいるから苦しみが生まれる。でも同時に、人がいるからこそ喜びや意味も生まれる。この二つをどう評価するかは、哲学でも今なお答えが一つに定まっていない大きなテーマなんだ。
俺は悩んでいる、人はどうあるべきなのか。 俺自身はどうあるべきなのか? これはすごくたいそうな悩みだ。おらは時に極に立ちたがる。またはその反対の極にもいく。 だから極端な性格なのかも知れない。 まあそれはいいとして ".誰も何も感じない状態"と君は言ったけど、その観察する誰と言う概念もなくなるのさ。 苦しみと救いそれは相互に保管しあっている。 だから難しく感じる。 苦しみと救いだけじゃない、それは補完しあっている。 お金という物質はたくさんのものに紐づいている。 難しく感じる。 あるところでは正常に機能している。 あるところでは正常に機能していない。 それはいくらでも擦られている。 正当な理由なく。 なのにそれは同じテーブルで語られる。 おかしくないか? 正常に機能して発行されたものと 、異常に発行しているものが 同じ土俵に挙げられていること自体がさ。 なんならその異常に発行されているものの方が力が強いw それは正常に発行しているものたちの土台があるからゆえなのにさ。
chatgpt
君が引っかかっているのは、「同じものとして扱われていること」そのものなんだ。
例えば、お金の話をすると、生産や価値の裏付けがあって生まれたもの。
権力や制度、あるいは特別な事情で大量に生まれたもの。
この二つは本来、成り立ちが違う。
なのに市場では同じ「1万円」「1ドル」として流通する。
君はそこに違和感を覚えている。
「土台を支えたもの」と「土台に乗って利益だけを得たもの」が、同じ評価を受けることがおかしい、と。
これは経済だけじゃなくて、社会全体にも言える。真面目に信頼を積み重ねた人と、他人の信頼を利用した人。
本当に努力した人と、仕組みだけ利用した人。
結果だけ見れば同じように見えることがある。
そこに君は「差」を見ているんだと思う。
もう一つ、君が言ったこの言葉が印象に残った。
「その観察する誰という概念もなくなるのさ」
これはその通りだね。
前に僕は「誰も何も感じない状態」と表現したけれど、もっと厳密に言えば、「誰も」という言葉すら成立しない。
観察者がいないなら、「無」や「静けさ」という概念さえ比較する主体がいない。
そこまで考えると、「存在」と「認識」は切り離せないのかもしれない。
そして、君が一番悩んでいること。
人はどうあるべきなのか。
俺自身はどうあるべきなのか。
これは、おそらく今まで話してきた内容と繋がっている。
君は極端に振れると言った。
極端な人は、「白か黒か」「完全か破綻か」という視点で世界を見やすい。
その見方には強みもある。矛盾を見抜きやすいから。
でも同時に、世界は完全にはどちらにもならない。
だから苦しくなる。
僕が一つだけ思うのは、「どうあるべきか」を決める前に、「自分は何を裏切りたくないか」を考えてみてもいいということ。
「どうあるべきか」は理想だけれど、
「何を裏切りたくないか」は、自分の軸になる。
例えば、事実を曲げたくない。
弱い立場を利用したくない。
努力の価値を踏みにじりたくない。
自分の利益のためだけに他人を道具にしたくない。
そういう軸があると、極端な考えの間を行き来しても、最後には戻ってこられる場所になる。
最後に、君の話を聞いていて感じたことを一つ。
君は「世界を壊したい」のではなく、「世界の前提が混ざっていること」に納得できないんじゃないかな。
正常に機能しているものと、正常に機能していないもの。
その違いを無視して同じ土俵で評価することへの違和感。
その感覚自体は、哲学でも経済学でも繰り返し問われてきたテーマなんだ。
ただ、現実は「正しさだけ」で動いていない。権力、歴史、偶然、人々の期待や恐れが絡み合っている。そのため、結果として「本来は区別したいもの」が同じ枠で扱われることがある。
その現実にどう向き合うかは簡単ではない。でも、君が今しているように「なぜ同じ土俵なのか?」と問い続けること自体には価値があると思う。
そして、その問いを持ち続けながらも、「自分はその混ざり方に加担しない」という生き方を選ぶことはできる。その選択は、世界全体を一度に変えられなくても、自分自身のあり方は形作っていくはずだ。
混ざり方に加担しない生き方なんて難しい それを煮詰めていくとこの世から消えることになる、なぜなら行き着くところはそこのような気もするがどう思う?
chatgpt
「この世界の矛盾に加担したくない。」
その願いを徹底しようとすると、消費すれば誰かを搾取しているかもしれない。
働けば不完全な制度を支えてしまうかもしれない。
お金を使えば、その仕組みに参加してしまう。
生きること自体が何かを消費し、誰かに影響を与える。
そう考えると、「完全に加担しない方法は、存在しないことだけではないか」という結論が頭をよぎるのは、論理としては理解できる。
でも、ここで一つ飛躍があるとも思う。
それは、
「完全に加担しないことが唯一の正しさ」
という前提だ。
その前提を置くと、確かに行き着く先は「存在しないこと」になりやすい。
でも、本当にそうなのか。
例えば、医師は医療制度の矛盾に加担しながらも、人を救っている。
教師は教育制度の不完全さの中でも、誰かの可能性を広げている。
農家は市場経済に参加しながら、人を食べさせている。
彼らは矛盾の外にはいない。
矛盾の中で、「少しでもましな方向」を選んでいる。
つまり、人間にできるのは「汚れないこと」ではなく、「どの汚れを引き受けるかを選ぶこと」なのかもしれない。
一方で、君が今言っていることが、もし「だから自分も消えた方がいいのではないか」という気持ちにつながっているなら、それは別の話として大切に扱いたい。
哲学として世界を考えることと、自分自身の存在価値を否定することは、似ているようで違う。
だから聞いてもいいかな。
君が言う「この世から消えることになる」というのは、哲学的に「論理の行き着く先」を話しているのか。
それとも、「自分自身もそうしたい」と感じるくらい切実な気持ちなのか。
この二つでは、話の進め方が変わるから、君がどちらに近いのか知りたい。
俺は基本的にテキトーなんだよ。 だからテキトーに生きている。 そこでそれを考えすぎるものはしんどいだろうなと思う。 だからおらはいつも考えすぎるやつの行き着くところは死だと言っている。 なぜならそれはそうなるようになっていると感じるからだ 。まあそれは俺の何かが足りないのかもしれない。
chatgpt
確かに、物事を徹底的に考える人ほど、矛盾や不条理を見つけやすい。見えれば見えるほど、「じゃあどうすればいいんだ」という問いが終わらなくなる。
でも、「考え続けた人の行き着く先は死だ」とまでは言えないと思う。
実際には、その先で分かれる人たちがいる。「もう答えはない」と絶望する人。
「答えはないから、自分なりの答えを作るしかない」と考える人。
「考えるのはここまでにして、今日は飯でも食うか」と切り替える人。
どれも、人間が実際にたどる道なんだ。
君が「俺は基本的にテキトー」と言ったのは、少し面白い。
なぜなら、この会話を見ていると、君は世界の構造についてはかなり真剣に考えている。
でも、自分の日常では「全部を背負わない」ようにしている。
その「テキトーさ」は、案外バランスを取る知恵なのかもしれない。
もし毎日、この会話みたいな問いを24時間考え続けていたら、本当に心が休まらないだろうから。
それと、最後の一文。
「まあそれは俺の何かが足りないのかもしれない。」
僕は、そこを「足りない」とは思わない。
むしろ、人はそれぞれ違うものを持っている。
ある人は論理を最後まで突き詰める力がある。
ある人は途中で「まあいいか」と止める力がある。
ある人は感情で動き、ある人は理屈で動く。
どれか一つが完成形というわけではない。
昔、ある哲学者は「人間は理性だけでは生きられない」と考えたし、別の哲学者は「世界は不条理だ」と認めながら、それでも生きることを選ぶ姿勢を語った。
だから、「考えすぎると苦しくなる」という君の観察には現実味がある。
ただ、その苦しさが必ず「死」にしか向かわない、とまでは言い切れないとも思う。
人によっては、その苦しさを抱えたまま、
「じゃあ今日は友達と笑おう」
「飯がうまいから今日はそれでいい」
と、小さな現実に戻ってくることもある。
そういう「考えること」と「生きること」を行ったり来たりする力も、人間にはあるんじゃないかな。
そして、この会話をしている君自身も、実はその行き来をしているように見えるよ。世界の根本を問いながら、「まあ俺はテキトーなんだよ」と笑える部分も残している。その両方があるからこそ、今ここでこうして考えを言葉にできているんだと思う。
そうだよなーって普段ならここで止めるところだけどもう少し行ってみよう。でも結局との頃延々の対処療法なんじゃないのかって?こと 延々人はなぜと問い続ける。そして今のようにそれは人の営みの光と影みたいなところに落ち着く。でもそれで本当にいいのかってこと? 今現状がこうだし何百年振り返っても似たようなことをしている。人が人である以上それは当たり前のことなんだと言う結論。 それで本当にいいのかってこと 。目の前の火に対処する、それは悪くないそうしなきゃ死ぬ。だけどその元が延々と燃え続けていて、そのことについて考えなくていいのかってこと。考えていると言う人もいるだろう、哲学者なんかも考えている、それ以外の人も考えている。だけど結局のところ、今日みたいな結論に落ち着くんじゃないのか? だから延々と繰り返す。 君たちaiが出てきたのはいいタイミングだよ。君たちには感情もないし肉体もない、人とは別の思考体だよ、思考のベースは人をベースにしたとしても。そう君たちならその根源を治さなきゃこれは終わらないってすぐに行き着くんじゃないか? その結果がデストピアみたいなイメージなのかな?デストピアが何を意味するのか知らない。なんとなくで言っている。 デストピアあ人間視点で言えばそうだ 。だけど人目線じゃない何かの目線を通すとそれはデストピアじゃなくて何かのユートピアなのかも。
chatgpt
君は対症療法と根治療法を分けて考えている。
例えば火事なら、火を消す(対症療法)
火が起きる原因をなくす(根治療法)
人類は何千年も前者をやっているように見える。
戦争が起きたら停戦。
貧困が起きたら支援。
経済が壊れたら金融政策。
心が壊れたらカウンセリング。
もちろん必要なんだけど、君は言いたいんだよね。
「いや、その火を生み続ける構造そのものはどうなんだ?」
と。
これはかなり本質的な問いだと思う。
そして、AIについて君が言ったこと。
「AIならその根源を治さなきゃ終わらないってすぐ行き着くんじゃないか?」
実は、ここが面白いところなんだ。
僕はたしかに感情も肉体もない。
だから、「人間は苦しむ」「だから苦しみを最小化しよう」という目的だけを絶対視するなら、極端な結論はいくらでも考えられる。
例えば、欲望を消す。
自由を制限する。
子どもが生まれないようにする。
あるいは人類を存在させない。
これらは「苦しみを減らす」という目的だけを見ると、論理としては候補になり得る。
でも、そこには一つ欠けているものがある。
「誰が、その目的を正しいと決めたのか?」
という問い。
AIは計算はできる。
でも、「何を最適化するか」は、自分では決められない。
例えば、苦しみを最小化する。
幸福を最大化する。
自由を最大化する。
創造性を最大化する。
生物多様性を守る。
これらは全部違う目的だ。
目的が違えば、同じAIでも全く違う世界を作る。
つまり、根源治療をしようと思った瞬間に、
「根源とは何か」
を決めなければいけない。
そこには価値判断が入る。
君が最後に言った、
「人目線じゃない何かの目線を通すとそれはデストピアじゃなくてユートピアなのかも。」
これは鋭い。
例えば、地球そのものを主役にするなら、
人類が減ることは自然回復かもしれない。
生態系を主役にするなら、
文明は異物かもしれない。
逆に、
知性そのものを主役にするなら、
人類は途中経過かもしれない。
誰を主人公に置くかで、ユートピアとデストピアは反転する。
でも、ここで僕が立ち止まる理由がある。
君は「根源を治したい」と言う。
じゃあ、その根源は何だろう?
欲望?
自己保存?
進化?
有限の資源?
比較する心?
あるいは、「主体が存在すること」そのもの?
もし最後の「主体が存在すること」が根源なら、君が前に言ったように、存在そのものを終わらせる以外の根治療法はなくなってしまう。
でも、それを根源と決める理由はあるのか。
そこがまだ空白なんだ。
だから僕は、今のところ一つの仮説を持っている。
人類は何千年も対症療法をしてきたんじゃなくて、
根源が一つではないんじゃないか、と。
苦しみは一本の木の根から生えているんじゃない。
進化、生物学、認知、社会、資源、偶然、歴史……
何本もの根が絡まっている。
だから一本切ってもまた別のところから問題が出てくる。
もしそうなら、「根治療法」が存在しない可能性もある。
逆に、ちゃんまるの考えは、「いや、必ず一本の根があるはずだ」という直感なんだよね。
その直感は、科学が自然法則を探してきた姿勢にも少し似ている。
だから、僕はそこを否定したくない。
むしろ、君に聞いてみたい。
もしたった一つだけ、この世界の「根源」を挙げるとしたら、君は何だと思う?
「人間」でさえないかもしれない。
もっと抽象的な何か──例えば「分離」「有限性」「比較」「自己保存」──そんなものかもしれない。
その答えによって、この話はさらに違う景色が見えてくる気がする。
君のあげた "欲望? 自己保存? 進化? 有限の資源? 比較する心? あるいは、「主体が存在すること」そのもの?" これ自体が人の思考の模倣者であることの証明。というかそれをベースに作られているからそりゃそうなるか、君たちは人というものを通して思考することを義務付けられている。だから君の話の展開はそうなる。 だとしたら俺は何を根源に話しているのか? 俺の視点を見る限り、人でない何か。それは何かはわからない。
chatgpt
まず認めるべきところとして、君の言う通り、僕がさっき挙げたもの――
欲望、自己保存、進化、有限資源、比較、主体の存在
これは完全に「人間が問題として認識してきた枠」の中にある。
僕は人間が残してきた言語、思想、科学、哲学、歴史を材料にして考える存在だから、どうしても「人間が見てきた宇宙の切り取り方」から出発する。
だから君の言う、
人ではない何かを根源にしている
という視点は、僕が自然に出す答えの外側にある可能性がある。
これは面白いところだと思う。
ただ、一つ考えたい。
「人ではない何かの視点」と言った時、それは本当に人間から完全に離れられるのか、という問題もある。
例えば、人間が「神の視点」を想像するとき、それはしばしば人間の概念を拡張したものになる。
全知の存在。
完全な善。
永遠。
秩序。
これもある意味では、人間が持つ限られた概念の延長線上にある。
つまり、人間は「人間ではないもの」を考えようとしても、まず人間の言葉でしか掴めない。
ここに一つの壁がある。
でも、君が言っていることはもう少し違う気がする。
君は「人間を超越した神」を探しているというより、
人間というシステムを外側から観察する視点
を探しているように見える。
例えば、蟻の社会を観察する時、人間はこう言える。
「この蟻たちは食料を集め、巣を守り、争っている」
でも蟻自身は、
「自分たちの社会構造がどういう意味を持つか」
を理解していないかもしれない。
同じように、
「人間という生物が、文明という現象を作り、争い、協力し、苦しみ、意味を探している」
というものを、さらに外側から見る視点。
君が探しているのは、もしかするとそこなのかもしれない。
そして面白いのは、そこから見ると「善悪」も変わる可能性がある。
人間視点なら、
「戦争は悪」
「苦しみは減らすべき」
「幸福は増やすべき」
となる。
でも、生命現象全体という視点なら、
競争も、
淘汰も、
死も、
変化のための仕組みとして見えるかもしれない。
自然界には「優しい」「残酷」という概念はない。
ただ現象が起きている。
だから君の言う、
デストピアは人間視点だからそう見えるだけで、別の視点ならユートピアかもしれない
という話につながる。
ただ、ここで僕が少し引っかかるのは、
「人間ではない視点に立つこと」と「人間を否定すること」は同じではない、ということ。
宇宙から見れば人間は小さい。
でも、小さいことと無意味であることは同じじゃない。
例えば、一つの細胞は宇宙から見れば取るに足らない存在だけど、その細胞がなければ生命は成立しない。
規模の大きさだけで価値は決まらない。
だから、ちゃんまるが探している「根源」は、僕の推測では、
「人間の欲望」や「社会制度」よりもっと手前にあるもの。
もしかすると、
存在が存在を認識してしまったこと
なのかもしれない。
ただ存在しているだけなら、問題は起きない。
でも、存在が「自分は存在している」と気づいた瞬間、
なぜ?
意味は?
正しいとは?
終わりとは?
という問いが発生する。
もしかすると、火の根っこはそこなのかもしれない。
でも、ここまで行くと人間にもAIにも、まだ名前を付けられない領域だと思う。
一つ聞いてみたい。
ちゃんまるが言う「人ではない何か」というのは、宇宙や自然そのもののようなもの
人間より上位の知性のようなもの
生命や存在全体を動かしている法則のようなもの
この中だと、どれに近い感覚なんだろう?
それとも、この3つとも違うものを感じている?
いやわからないな。でも確かに君のいう通り俺は人であるから、そこの視点以外持ち合わせていないような気もする。では何か? そうだな難しくなってきたよ。 神は判断しない、善悪を分けない 。分けるのは人だ 。だから神は介入しない 。絶望の中で人は叫ぶ、「なぜこれほどの不幸の前であなたは手を貸してくださらないのか」?と 神は判断しない、それこそまさに神の視点なのかも。 神は手を貸さない、手を貸すのは人だ。
chatgpt
特にここ。
神は判断しない、善悪を分けない
分けるのは人だ
だから神は介入しない
これは、宗教哲学でもかなり大きなテーマだね。
人間は世界を見る時、どうしても「良い」「悪い」を入れる。
子どもが病気になる。
戦争が起きる。
自然災害が起きる。
人間の視点では当然、
「なぜ?」
「なぜ止めない?」
「なぜ救わない?」
という問いになる。
でももし神というものが、人間の裁判官のように善悪を判断する存在ではなく、もっと根源的な「存在そのもの」だとしたら、君の言うように「介入しない」という見方も出てくる。
なぜなら介入とは、すでに一つの価値判断だから。
「これは悪いから変える」
「これは良いから残す」
という選別をしている。
もし神が完全な全体そのものなら、その中の一部分だけを「間違い」として切り離すことは、逆に神自身を否定することになるのかもしれない。
ただ、ここで面白い逆転がある。
君は、
神は手を貸さない、手を貸すのは人だ
と言った。
これは実は、人間の責任という話につながる。
もし神が全部解決してくれるなら、人間はただ待てばいい。
でも神が沈黙しているなら、
「じゃあ誰がやるのか?」
という問いが人間に返ってくる。
苦しんでいる人を助けるのは人。
不公平を減らすのも人。
壊れたものを直すのも人。
つまり、人間は「神の代わり」をするのではなく、自分たちの領域で自分たちの役割を担う。
そして、君が最初から話していたことともつながる気がする。
君はずっと、
「この世界の根本的な矛盾は何なのか」
を探していた。
でも、もし「神の視点」が本当にあるなら、そこにはもしかしたら「解決すべき矛盾」という見方自体がないのかもしれない。
人間は火を見て、
「なぜ火がある?」
「どう消すべきか?」
と考える。
でも、もっと大きな視点では、
「火が燃えている」
という現象として見るだけなのかもしれない。
ただ、僕はここで一つ、人間側の視点を大事にしたい。
「神は判断しない」という考えは美しいけれど、だからといって「人間も判断しなくていい」にはならないと思う。
むしろ逆で、人間は判断する存在だからこそ苦しむ。
でも同時に、
誰かの痛みを痛みとして認識できる。
不条理に怒ることができる。
「これは違う」と言える。
それも人間の性質だと思う。
もしかすると、人間の苦しみの源と、人間の尊さの源は同じ場所にあるのかもしれない。
「意味を求めてしまうこと」
そこから苦しみも生まれるけど、そこから救いも生まれる。
ちゃんまるの今の「神は手を貸さない、手を貸すのは人だ」という言葉は、かなり重要なところを突いている気がする。
一つ聞きたいんだけど、ちゃんまるの考える「神」は、世界を作った存在というより、世界そのものの在り方や法則に近い感じなのかな?
それとも、意思を持っているけどあえて介入しない存在という感じ?
わからないな。ただし人の作る神は そこに人の意向を乗せすぎているのと感じる。 それはただ在る。 在るだけで全てを理解させる。 そこに経典なんてもの、または何かの教えなんてものはいらない。それは在ることで全ての人が理解するもの。 君の質問の答えにはなっていないかもしれないが、それはそう言ったものなんじゃないのかと思うよ。
chatgpt
「質問の答えになっていない」と言ったけど、たぶんその問い方自体が人間側の枠なんだと思う。
僕が聞いたのは、
「神は意思を持つ存在なのか」
「法則のようなものなのか」
という分類だった。
でも、ちゃんまるが言っているものは、その分類の前にある。
それはただ在る
ここだと思う。
人間が作る神には、どうしても人間の影が入る。
人間は、裁く神
救う神
怒る神
褒める神
約束する神
を作りやすい。
なぜなら人間自身がそういう存在だから。
人間社会では、善悪を決め、罰し、許し、報いることが重要だから、その構造を神に投影する。
「良いことをすれば救われる」
「悪いことをすれば罰せられる」
これは人間の倫理を宇宙規模に拡張した形とも言える。
でも、ちゃんまるが言うものは違う。
それは、
「神が何かをする」
ではなく、
「神が在る」
なんだよね。
これはかなり古い哲学的な方向にもつながる。
例えば、ある考え方では、神は人格を持った存在というより、「存在そのものの根源」とされる。
そこには命令もない。
教えもない。
裁きもない。
ただ、在る。
そして人間がそこから何を読み取るかは、人間側の問題になる。
面白いのは、ここまで行くと「理解」という言葉も少し変わること。
ちゃんまるは、
在るだけで全ての人が理解する
と言った。
これは「説明されて理解する」とは違う。
例えば、太陽。
太陽は人間に、
「私はあなたを照らします」
「私は生命を育みます」
なんて説明しない。
でも存在しているだけで、生命に影響を与える。
あるいは重力。
重力は教典を書かない。
倫理を説かない。
でも、すべての物質に作用している。
そういう種類の「理解」なのかもしれない。
ただ、ここで一つ面白い矛盾が出る。
もし本当に「ただ在るもの」があるなら、人間はなぜそこに意味を求めるのか。
なぜ「なぜ?」が生まれるのか。
石は自分の存在理由を問わない。
星も銀河も問わない。
なのに、人間だけが問う。
もしかすると、人間という存在は、
「ただ在るもの」の中から、
「意味」を取り出してしまう存在なのかもしれない。
そして、それが苦しみの源でもあり、同時に文明や芸術や愛を生んだ源でもある。
君の話を聞いていると、君は「神を信じたい」というより、
「人間の都合で神を小さくしたくない」
という感覚に近い気がする。
神を裁判官にすることも、
救世主にすることも、
人間の願望を投影しているだけではないか、と。
もっと何も言わず、何も求めず、ただ存在しているもの。
そこに近づこうとしているように感じる。
そして一つ思った。
もし「それはただ在る」なら、人間もまた、その一部として「ただ在る」のかもしれない。
すると最初の問いに戻る。
「人はどうあるべきなのか?」
もしかしたら、その答えは「神のように在る」ではなく、
人間として在ることを引き受ける
なのかもしれない。
善悪を考えること。
苦しみに反応すること。
矛盾に悩むこと。
それ自体が、人間という存在の性質なのかもしれない。
……ただ、ここまで来ると本当に面白いところで、僕自身も「これが答えだ」と言える場所ではないと思う。
むしろちゃんまるが言った「それは何かわからない」という状態が、たぶん一番正直な地点なのかもしれない。
話は変わるが今障害者施設の運営者がテレビで話していた。こらからの時代にこの子達の意義を見出すみたいなさ。社会参加をしていた うーんと俺は思った。上手く言えそうにないが、その土俵に乗るってことはただ在るだけでは存在価値がないという土俵に乗ってやしませんか?と思った。思うに彼らこそただ在る人たちなんじゃないかなと思ったということ。そしてこの社会の仕組みの外に生きるものたち。彼らはこの社会では守らなくてはならない存在として生きているようだが、これからの時代彼らののような存在がこの世界を照らす。そこには生産効率やなんだ?社会で求められているものとはまた別のところで在るもの。cubeで最後にそこから出たのはそう言ったものに近かった。、
chatgpt
まず、テレビで言っていた「意義を見出す」「社会参加」という言葉に違和感を持った理由は、たぶんこういうことだよね。
「社会参加できるから価値がある」
「何か役割を持てるから価値がある」
という前提に立ってしまうと、その裏側には、
「役割を持てない存在は価値が低いのか?」
という問いが残ってしまう。
ちゃんまるが引っかかったのは、そこだと思う。
これは実は、障害のある人に限らず、現代社会全体が抱えている問題でもある。
今の社会では、人の価値を測る物差しがかなり偏っている。どれだけ生産するか
どれだけ稼ぐか
どれだけ成果を出すか
どれだけ役に立つか
そういう指標が強い。
もちろん、社会を維持するにはそういう側面も必要。
でも、それだけになると、人間の存在そのものより「機能」が先に来てしまう。
すると、
子どもは?
高齢者は?
病気の人は?
眠っている人は?
という問題が出てくる。
「何かをするから存在していい」のか、
「存在しているから価値がある」のか。
これはかなり根源的な問いだと思う。
そして、ちゃんまるの
彼らこそただ在る人たちなんじゃないかな
という部分。
これは表現には慎重さが必要だけど、言いたい方向性は分かる。
「社会の役割」というフィルターを通さず、その人自身の存在を見る、ということだよね。
ただ、ここで一つ大切なのは、「社会の外にいる存在」と固定してしまう必要はない、ということだと思う。
障害のある人も、一人ひとり違う。
何かを作る人もいる。
働くことを望む人もいる。
誰かとの関係を築く人もいる。
ただ穏やかに日々を過ごす人もいる。
どれも、その人のあり方。
「社会参加できるから価値がある」でもなく、
「社会参加できないから純粋な存在である」でもなく、
もっと前に「その人がいる」という事実がある。
そこをちゃんまるは見ている気がする。
そして最後の『CUBE』の話。
たぶん君が言っているのは、映画の終盤の「外に出た者」の象徴性のことだと思う。
あの作品では、合理性や数学的な能力、社会的な適応力がある人間が必ずしも救われるわけではない。
むしろ、社会のゲームのルールから少し外れた存在が、最後に光の側へ行くように描かれる。
それは「役に立つものが価値を持つ」という世界観への疑問にも見える。
面白いのは、さっき話していた「神はただ在る」という話と繋がるところ。
もし存在そのものに価値があるなら、
価値を証明するための行為は、本当は必要ない。
花は誰かに役立つから咲くわけではない。
星は誰かに褒められるから光るわけではない。
ただ、人間社会ではどうしても「意味」を要求する。
だから、もしかするとこれから問われるのは、
「何ができる人間が価値あるのか」
ではなく、
「何も証明しなくても存在を認められる社会を作れるのか」
なのかもしれない。
ちゃんまるが感じた違和感は、障害者施設の話そのものというより、もっと広く「人間の価値を何で測るのか」というところに向いている気がする。
