【アマノ文筆クラブ】短編(約5000字)『うっせえわ』
安アパートの一室。湿った空気が漂う六畳間には、小さなちゃぶ台がぽつんと置かれている。
成果のない一日を終え、よろよろと帰ってきたのは、風采の上がらない三十代後半の営業職、田山のぶ太だった。
最近田山は自炊を始めた。メニューは、モヤシと鶏むね肉を炒めただけ。皿に盛り付けるのは面倒なので、フライパンのままちゃぶ台に置く。
「ふう……」
ため息とともに冷蔵庫を開け、第三のビールを取り出す。ぷしゅっ、と缶を開ける音が、虚しく響く。ビールを一口飲んだ、その直後だった。
「ヒッ……うう……」
どこからか、女のすすり泣く声が聞こえる。田山はごくん、とビールを飲み込み振り返った。誰もいない。空耳だろうか。
しかし、それから毎日、食事の時間になると必ず、すすり泣きが聞こえるようになった。
「う、ううう……ヒック……」「うう……わあ……」
その泣き声は、最初は蚊の鳴くようなか細いものだったが、日を追うごとに大きくなり、それも複数の声が重なり合って、まるで女たちの嗚咽の合唱のようにひどくなっていった。田山は、異常な状況にノイローゼになりそうだった。
これはきっと、このボロアパートに住み着いた幽霊の仕業に違いない。田山は勇気を振り絞り、大家や他の住民にそれとなく聞いてみたが、「幽霊? そんな話、聞いたこともないよ」と笑われた。
誰にも信じてもらえない。泣き声は悪化する一方だ。
「クソッ、いっそのこと引っ越してやるか……」
安いアパートを見つけるために街をさまよっていた矢先、駅前で不思議な老婆に声をかけられた。

「兄さん、顔色が悪いね。何か憑いているんじゃないかい?」
老婆は、いかにも胡散臭い民族衣装のようなものを着ており、看板には「占い師 ドーラ・エイマン」と書かれている。田山は、当たれば儲けものくらいの軽い気持ちで、これまでの事情を説明した。ドーラは話を聞き終えると、意味ありげに首をかしげた。
「ふむ……お前に幽霊は憑いとらんね。じゃが、お前のアパートに幽霊がいるかどうかは、行ってみなければ分からん」
老婆は「霊の祓い屋」も兼ねているという。
田山は「こりゃ詐欺かもしれん」と思ったが、「成功報酬で、上手くいったら金をくれ」という話だったため、彼女をアパートへ連れていくことにした。田山のアパートのドアを開けるなり、ドーラは鼻をひくひくさせる。
「うむ、占わんでも分かるわい。この部屋、ひと月以上掃除しておらんね!」
田山は顔を赤くしたが、ドーラは部屋をぐるりと見渡すと、きっぱり断言した。
「ここには幽霊はおらん」
その日の食事時、いつもの泣き声は聞こえなかった。
「おかしい……いつもなら必ず聞こえるはずなのに……」
ドーラは「今度、泣き声が聞こえたらすぐ呼びな」と言い残し、名刺を置いて帰っていった。
翌日の晩。
いつものようにわびしい食事を始めた途端、「ひっく……ううう……」と、またすすり泣きが聞こえてきた。田山はドーラの名刺を取り上げた。しかし、電話番号がない。
その瞬間、扉をノックする音がした。
「兄さん。呼んだかい?」
立っていたのはドーラだった。どうやってここが分かったのか、考える間もなくドーラは部屋に入ってきた。入るなり、ドーラは見えない何かに気づいたらしい。しきりに空間に向かって話しかけている。
「……ほう、なるほど。……おやおや、そうかい。それはお気の毒に」
時にうなずき、時に驚きながら、しばらく見えないモノたちと会話した後、ドーラは田山に向き直った。
「安心しな。このモノたちは、お前に危害を加える存在ではないよ」
田山は半信半疑だった。(この婆さん、自作自演で金を騙し取ろうとしているんじゃないか……?)
ドーラは、見えない者たちに向かって命じた。
「お前たち、黙って人の食事を盗み見るのはよろしくない。姿を表しな!」
すると空間が揺らぎ、一人の女が姿を現した。透き通るように美しく、気品のある女の幽霊だった。昔の着物を着ており、正座して、武家の作法に則った美しいお辞儀をする。
「驚かせて申し訳ございません」
その幽霊は丁寧に頭を下げた。彼女は江戸城の大奥にいた姫様で、共に世を恨んで自死した女中たちと、この世を彷徨っているのだという。ある日、偶然このアパートで田山が一人で自炊する姿を見て惚れ込み、時々見に来るようになったらしい。
田山はほっと胸を撫で下ろした。
すると、その安心感に釣られたのか、他の女たちも次々と姿を現した。狭い部屋に十数名の美女の幽霊がひしめく。透き通っているので、場所は取らないらしい。
日頃の幽霊生活に飽き飽きしていたところ、姫様から田山の部屋の噂を聞きつけ、見物に来るようになったのだという。

「ここでお主の姿を見ると、日頃のもやもやが晴れてスッキリするのじゃ」
そう言われると、田山も悪い気はしない。見物するのは食事の時間だけらしい。気のいい田山は、すっかり気をよくして答えた。
「そ、そうですか。そういうことなら、いくらでも見物してください」
ドーラは、占いや祓いの費用はいらないから、自分も一緒に見物させてほしいと言い出した。
「私もこの幽霊たちに話を聞いて、興味がわいた。私も見物させてもらおうかね」
その後、田山はいつものように自炊を始めた。野菜炒めに豆腐の冷ややっこ。缶ビールを開けて腰をおろし、美女の幽霊たちを眺めながら一杯やろうとした途端、姫様幽霊に注意された。
「そちらを向け! そのブサイクな顔を見せるでない」
田山は顔が熱くなるのを感じた。美女の顔を見ながら食べたかったが仕方ない。いつものようにちゃぶ台を壁際に寄せ、食事を始めた。
後ろからは、幽霊たちのぺちゃくちゃという話し声が聞こえる。今までは存在を隠すため喋らなかったが、今日は遠慮なく喋っている。女が集まると、幽霊と言えど話が止まらない。
「ほら、あの後ろ姿が堪らないのよ」
田山は箸を止める。(俺って……後ろ姿がイケてるのか?)
「後頭部が少し禿げた感じのわびしさが最高なの」
「背中に哀愁がこもっているわ」
「三十過ぎてもずーっと独身なんだって」
「ずっと恋人もいなくて……あぁ、泣けてきた」
田山は初めて幽霊たちの声を聞いた。そして気づく。
(今まで聞こえていたすすり泣きって……誰かを恨んで泣いてたんじゃなくて、俺があまりにも哀れで、可哀想で泣いてただけ……?)
「あなた、かわいそうなら恋人になってやったら?」
「あはは、絶対無理〜! 死んでも無理〜!」
「あなた、もう死んでるでしょ」
「ギャハハハ!」
(なんだよ……結局俺、幽霊にまで同情されて見世物にされてただけってことか?
俺の人生、笑いものかよ。腹立ってきた!)
「やっぱり老けた独身男の一人食事は泣けるわ〜」
「ワシの占いによれば、この男は生涯独身じゃ」
「なにそれ、泣ける〜」
「ギャハハハ!」
幽霊たちの噂話はさらに続き、やがてすすり泣きと高笑いの大合唱が始まった。
「ああ、思いっきり泣いたらすっきりした。心が洗われるようだわ」
姫様幽霊が他人事のように言った。
「じゃあ、今夜はこの辺で解散ということで。また明日よろしく〜」
田山は、ブチッと何かが切れる音を聞いた。
箸をピシャリと置き、猛烈な勢いで後ろを振り返り、ちゃぶ台をガタン!と揺らした。
「うっせーわ!」
美女の幽霊たちは、田山の怒鳴り声に一瞬静まり返った。
「黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって! 俺はな、見世物じゃねぇんだぞ!毎日毎日、人の飯の食い方をバカにしやがって!」
姫様幽霊は申し訳なさそうにしたが、謝罪はしない。
「うふふ……でも田山殿の哀愁を帯びた背中を見ると、なんだか泣けるのよ。それに……あなた、私たちに気づいてもらえて少しは嬉しいのでしょう?」
「うるさい! どこが嬉しいんだ! 無神経な女どもめ!
さあ帰れ! もう二度と来るな!」
その時、アパートの隣から「ドンドン!」と壁を叩く音がした。田山が大声で怒鳴ったので、隣人が「静かにしろ」と文句を言っているのだ。
そのタイミングで、姫様幽霊が「あら、こわ」と囁き、幽霊たちも一斉に姿を消した。
部屋に残った祓い屋のドーラは、静寂の中、田山に言った。
「あのくらいのことで怒りやがって。お前は男としての度量が足りん」
「うっせーわ! みんなで寄ってたかって人をバカにしやがって!」
「気が弱くてなんの力もない幽霊なのに、あんなに怒ったらもう姿を見せんかもしれん」
「あいつらが弱い?」田山はあきれた声で聞き返す。
「その通りじゃ。幽霊たちは臆病な存在でな。成仏もできず彷徨う哀れな存在じゃ。
やっと心を許せる相手を見つけて姿を現したのじゃ。愛情のはけ口を求めているのじゃから、多少のいたずらは許してやれ」
田山は床に座り込み、残った缶ビールを飲み干す。
「うっせーわ! 愛されてなんかいるか! 俺が笑いものにされてるだけだ!」
田山の脳裏に、実家で飼っていたひどく臆病なネコの姿が一瞬よぎる。
「あいつら、ノラネコかよ……」
彼が飼っていたネコは、元は野良で、知らない人が家に来るとパニックになってどこかに隠れてしまった。だが、彼に心を許してからは、彼にだけべったり甘えるようになった。だから田山も、そのネコだけはどんなにいたずらしても叱らなかった。
「ばーさん。どさくさに紛れて『生涯独身じゃ』とか、一番ひどいこと言ったのはお前だろーが」
「バレたか」ドーラは悪びれずに笑い、戸口へ向かう。
「まあ、二度と現れないかもしれんね。繊細な御姫様たちじゃから」
翌日の晩。
田山は冷ややっこを皿に盛り、フライパンをちゃぶ台に置いた。いつものようにビールを開ける。
シン……
部屋は、元通りの静かすぎる空間になっていた。昨夜の賑やかさが嘘のようだ。田山はビールを一口飲んだ。そして独り言を呟く。
「……別に、寂しくなんかねえよ」
箸が動かない。昨日あんなに腹が立った、あの女たちのぺちゃくちゃとした賑やかさが、あまりにも懐かしい。
「……ちょっと言い過ぎたかな」
田山がそう呟いた瞬間、部屋の隅から「ホホホホ」と、上品ながらも少し意地悪な女の笑い声が聞こえた。
田山はゆっくりと後ろを振り返った。誰もいない。だが、確かな気配を感じた。
その日から数日後。
夕ご飯の時間になると、また女たちのにぎやかな声が、部屋にひびくようになった。
田山があれほど「二度と来るな!」と怒鳴ったのに、幽霊たちは少し気まずそうにしながらも、以前みたいに食事をのぞきに来るようになっていた。
部屋は、見違えるほどきれいになっていた。床のほこりもなく、出しっぱなしだった布団もきちんと干されている。
田山は休日にがんばって掃除したのだ。それから床屋へ行き、のびた髪を切って、新しいワイシャツも買って身だしなみを整えた。
そして夕食時。
整えた部屋で、田山は皿にちゃんと盛りつけた野菜炒めを食べ始める。その背中に、いつもの冷やかしが飛んでくる。
「まあ、前よりずっとマシになったわね。これじゃあ、泣きたくなるほどじゃないわ」
「でも、髪切ってるじゃない。きっと私たちのためよね」
「掃除までしたのね。この人、ほんとチョロいわ」
幽霊たちは笑っているが、どこかあたたかく見守っているようにも感じられる。田山は味噌汁を一口飲み、ゆっくり口を開いた。
「……いいか。お前ら、よく聞けよ」
そして、ぐいっとビールを飲む。
「俺はいつか必ず、かわいい彼女を連れてくる! お前ら、もう出てこられなくなるくらい幸せになってやるからな!」
幽霊たちは、一斉にワアッとわめきながら笑い声を上げた。
冷やかす声も、応援するような声もまじって部屋中がにぎやかになる。
田山はとうとう耐えきれず、振り返らないまま叫んだ。
「うっせーわ!!」
だが、その声には怒りはもうなくて、どこかうれしさがにじんでいた。
気づけばそれは、幽霊たちとの、いつものあいさつになっていた。
ひとりで食べるご飯は、もう前みたいにさびしくなかった。
続く?
こちらの企画に参加させていただきました。ありがとうございました。
