(恋愛小説)立葵と向日葵(7)
もう水曜日の夜だなんて。
どうしたら良いんだろう。
こんなにも大好きで、悠良も同じ気持ちでくれているのに、別れることになってしまう。
「嫌だ」
こんなことになるなら、最初からちゃんと名前で呼んで、もっと好きだと言っていた。
短い間にこれほど幸せを貰っておいて、俺は何も返せていない。
どんどん顔が熱くなり、ふいに視界が潤んで歪んだ。
涙は膝に零れ落ちて、そのまま堰を切る。
幸せだった。
ただ、幸せだったんだ。
兄の恋人として知り合った美月には最初から失恋していて悲しいだけだった。
悠良と居るのは温かくて幸せで、だから泣く必要が無いだけだったのに。
そんなことで不安になって、悠良にあんな悲しい顔をさせてしまった。
勝手すぎる。
後悔と涙が綯い交ぜになって、閉じた瞼を張り付かせた。
夢なのか罪悪感なのか解らないものを見る俺に容赦なく、夜が更けて明けていく。
朝、何度も洗顔してやっと目を開けてバタバタと出勤すると、悠良に声をかけられた。
「甲斐さん、どうしたんですか」
「いや、何も」
「ひゃ、やっぱり目、腫れてますよ!」
こんな俺を心配してくれた。
泣きたいのも不安なのも、彼女の方なのに。
引っかかっているのはあと一つだけ。
胸が痛む理由。
食堂で玉子焼きを食べながら考える。
今日は弁当を作る気はしなかったけど、玉子焼きはサボるとすぐ下手になってしまう。
これだけは上手く作る自分で居たい。
これからも、玉子焼きを食べてほしい。
もう、兄に電話してみるしかない。
最後の謎は美月絡みだ。
兄に電話して、自分の気持ちを確かめよう。
夕食後、緊張や躊躇を決意で捻じ伏せて電話をかけた。
この時間なら、兄夫婦も夕食を終えているだろう。
「もしもし?圭太どうした?」
「いや、ずっと帰省してなかったから。って、元気?」
あんなに決意したのに、どの角度から話を切り出そうかと考えていると、兄の笑う声がした。
「なら、母さんに電話してやれよ〜。盆休みはどうするとか」
「いや、ちょっとこっちでしたいことあって……」
「何?彼女?」
今の話で、どうして解るんだ。
やはり昔から兄には敵わないと思う。
「いや、うん……まあ、そう」
「えー!良かったな!お互い順調で良いじゃん!」
「え!兄さんも何かあったの?」
「あ、昇進したんだよ、俺」
強く胸が痛んだ。
その後は声を振り絞って祝いの言葉を言って少し話して電話を切った。
あの後、何と言われたのだっけ。
あぁ、そうだ。
悠良を盆休みに連れてくればいいと言われ、それはまだ早いと美月に突っ込まれたらしく謝られたのだ。
胸の痛み、兄、美月。
そうだ。俺が美月を思い出して胸が痛むのは、未練からじゃない。
失恋という挫折を思い出すからだ。
恋愛も兄に敵わなかったことを突きつけられるからだったんだ。
「あ、あ……」
やっと自分に悠良が本当に好きだと証明出来た。身代わりだなんて気持ちは微塵も無かった。
すごく長かった気がする。
これでやっと悠良に真っ直ぐ向き合える。
早く言いに行こう、とスマホを手に立ち上がると、二十二時を過ぎているのが視界の隅に入った。
こんな時間に押しかけられない。
それも大事な彼女の家に。
でも、少しでも早く知らせたい。
悠良を百パーセント好きで、自分だって本当は触れたいということを。
でも電話でする話ではない。
少し悩んで、LINEに最低限の情報を打ち込み始める。
「答が出ました。良い答です。明日、仕事が終わったら会えませんか?」
送信してしばらく経つと既読になり、電話がかかってきた。
「もしもし」
「もしもし。もしかして、圭太は二十二時過ぎてるから、来るんじゃなくてLINEにしたの?」「そう」
いつかのように、また、ふふふと笑う声がする。「やっぱり、私は圭太が好きだよ。明日の答が楽しみ」
良かった。
本当は怖かった。
悠良を振り回し過ぎて、もし期限内に良い答が出ても、もう彼女の気持ちが離れているのではないかと思っていた。
明日は悠良がこの部屋に来る。
「よし」
電話が切れた後、深呼吸して部屋を片付け始めた。
今日もまた、いつもより仕事に没頭した。
決して職場では浮かれないように、わざと。
そうしていると、またあっという間に時間は過ぎて、俺達は時間差で会社を出た。
お互い車の中でLINEを打ち合い、一旦帰宅した悠良を迎えに行く。
彼女は花火大会の日のコーディネートで出てきて、車に乗った。
悠良が笑っている。
あぁ、昨日先にLINEだけでもしておいて良かったと思いながら車を走らせ、俺のアパートに向かった。
「圭太の部屋って感じがする」
と悠良は嬉しそうに言う。
彼女の思う俺らしい部屋はきっと、きちんと片付いた部屋だろう。
でも、これなら完璧だ。
「一生懸命片付けた感じが」
普段は、これ後で使うかもとか考えて出しっぱなしている物たちを、火事場の馬鹿力で一生懸命片付けた感じがするらしい。
何から何まで正解で、悔しいけれど少し嬉しい。
悠良が俺の部屋のフローリングを踏むことに感動していると、彼女は傘立てを指さして言った。「あのすごく大きい傘って何?普通のが一本あるのにどうして?」
「あぁ。あれは……」
見透かされたようで顔が赤くなる。
「あれは、悠良に使ってほしくてネットで買った傘……」
「私に?二人でじゃなくて?」
こんな玄関から入ったばかりの場所で、全部言ってしまって良いだろうか。
正面から悠良の両手を握って、真っ直ぐ彼女を見た。
顔が近い。
でも、今日は逸らしたりしない。
自分の気持ちを、全部伝えたい。
「悠良が入社した日に一緒にコーヒー飲んで、悠良が去っていく時、細くて背が高くて、考えが柔軟で、向日葵に似てると思った。大家さんに聞いたけど向日葵って湿気に弱いらしいんだ。だから悠良には絶対雨に濡れてほしくないって。大きい傘を差してあげたいって思った。だから買ってた」
彼女の少し強張っていた顔が緩み、目が潤んでいく。
ちゃんと伝わったのだろうか。
「それなのに、俺の勝手で不安にさせて本当にごめんなさい。でも、本当に大好きです。どうしても一緒に居たいです」
悠良が俺の肩に顔を乗せた。肩がじわりと濡れていく。彼女の肩は小刻みに揺れている。
こんなに不安にさせていたんだ。
握っていた手をそっと離して、今度は抱きしめて頭を撫でた。
彼女は小さかった泣き声を嗚咽に変えて、抱きしめ返してくれる。
暫くして、泣き終えた彼女の顔を見る。
触れそうに近くて息がかかることに緊張するけれど、よく見ると目が赤くなっていた。
瞼も涙を吸いかけているようだ。
数日前の自分のように腫れてしまう。
「目を冷やさないと」
「良いから」
慌てて体を離そうとする俺を抱きしめたまま、悠良は唇を重ねてきた。
(こういう時、身長差があったらこうはいかないな)
兄のようには背が伸びなかった俺を母は憐れんだけど、今はこの日の為だったんだと思える。
俺の身長は悠良用のオートクチュールみたいなものなのだ。
こういう時の作法は知らないけれど、きっと歯がぶつかったりするのは良くないだろう。
彼女が不快にならないように気をつけながら、目一杯情熱的に唇を合わせた。
どれだけ好きか伝わるように。
もっと早くこうしていれば良かったと思った。
触れることは、全然悠良を傷つけることじゃなくて、愛を伝えることだったのに。
今まで頑なに留めていたものが、力を失っていく。
肌布団がうるさく擦れるその下に潜って、俺は悠良をやわらかく捕まえる。
その肌は口づける度に小さくしなった。
俺は頭が真っ白になりそうになるのを何とか留めて、肌布団から顔を出す。
悠良の顔を見たかった。
いつもは美しい彼女の顔が少し歪んでいる。
辛いのだろうか。
本当は悲しいのだろうか。
不安が滲む俺の顔を、彼女の両手が挟んでそのまま口づけた。
大丈夫、と伝えてくれている。
この顔を見られることこそ、最大の特権なのだ。
そのうち、幸せが大きく押し寄せてきた。
繋がっているのはほんの一部なのに、それが全てのように思えるのが不思議で堪らなかった。押し寄せたものが引くと、疲労に抗えず体を横たえた。
悠良も横になって俺を見つめて微笑んでいる。
頭を撫でると彼女は途端に眠りに落ちてしまった。
彼女に布団をかけながら、自分ひとりでこの幸せをどうやって受け止めれば良いのか途方に暮れる。
空に助けを求めてカーテンをほんの少し開けた。星がよく瞬いている。
今日は新月だったことを思い出す。
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