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(恋愛小説)立葵と向日葵(2)

 実家から出てもうすぐ二年になることに気付いたのは、大家が向日葵の種を蒔くのを見たからだ。
彼は気は良いけれど少し抜けているように思う。梅雨が始まった頃、慌てて小さな庭に出てきた。目が合ってばつが悪いところに、声をかけてくれて助かったと思う。
「甲斐さん。向日葵、好きなの?」
「いえ。でも、前に見て印象に残ってて」
「ほう」
「引っ越しの日に、地元に向日葵が咲いてて。夏も終わるのにまだ元気に咲いてるんだなって」
覗き見を上書きしたくて、聞かれてもいないのに話し続ける。
「向日葵はね、九月まで咲いてるよ。十月頭まで咲いてたりもするんだよ」
「ガーッと咲いて、すぐ枯れるのかと思ってました」
あの向日葵はもう暫く咲いていたのだ。もしかしたら、夏が完全に終わるまで。

 自室で大家に分けてもらった種を見ながらこの二年間を思い出す。
兄・旭と美月の結婚式以外で帰省することは無かったし、これからもどうするか分からない。
おかげで今はとても平和な心で過ごせている。
あの頃は、突然美月の姿を見つけて胸が痛むのも、気持ちを隠しきれなくなることも怖くて仕方なかった。
もし思いが残っていたら、帰省すればまた苦しくなるだけだ。
もう嫌だった。
「もっと早くこうしてれば良かったなぁ。ダメだなぁ、俺」
小雨が降り始めて、湿度が更に上がる。


 工場内の開発チームは、事務所でも検査室でも快適な温度で働けるのが良い。
製品の質に影響しないよう、安定した室温を保たれているのだ。
事務所にサンプルを持ち込むこともあるので、過剰な暑さも寒さも湿気も無いようにしている。
仕事中はこの高い湿度とも無縁でいられた。
二年前、実家から離れられるならどこでも良いと、無縁な場所の仕事を探した。
長期戦も覚悟したけれど、地元と同じくらいの規模の田舎の工場に就職が決まった。
恵まれていると思う。
残業が多くなることはあっても皆で助け合っていて、平和だと感じる。
少なくとも家族に大きな秘密を持って暮らすよりは余程楽だ。


 六月一日の朝だった。
朝礼が始まるのを待つ間、スムーズに終わった就活を思い出し、高専に進ませてくれた親に感謝していた。
母校は偏差値ランキングを下から数えた方が早いくらいだったが、それでも面接官の覚えがよかった。
どこまでも平和な時間だった。
それなのに、上司に連れられて入ってきた女性の横顔に、全身が貫かれたような衝撃を受けた。
いくら中途採用でも半端な時期すぎるんじゃないか。
紹介された石橋いしばし悠良ゆらを見て、マスクの下で文句を言わずにいられない。
悠良がマスクを外すと、事務所内は小さくざわめく。
コンプライアンスを弁えて必死に声を抑えているのに、それでも感嘆が漏れてしまうのだ。
それくらい彼女は美しくて、マスクを外して挨拶した顔は、どう見ても美月に瓜二つだった。

 それからしばらく、「神様なんていないんだ」と絶望したり、「神様仏様、どうか平和な日常を」と縋ったりしながら、わけもわからず仕事をした。
一時間ほど前まで、平和だとか感謝だなんて思っていたのに。
同じ測定課にやってきた石橋悠良のデスクは、俺の向かいに置かれた。
職場の唯一の不満は、今も感染症対策に力を入れていてマスク着用が義務であることだったが、今日からは感謝する。悠良はマスク姿さえ美月にそっくりだ。
彼女のデスクの周りには入れ代わり立ち代わり、男も女もなく同僚がやって来る。
「石橋さんの文房具、何か揃ってないものあった?」
「給湯室の使い方、分かる?」
と、皆がわざと用事を探してその都度訊くので、任せた仕事が全く進んでいない。
俺が入った時でさえ皆、物珍しそうに見られたのだから仕方ない。
田舎者は、目新しいものが好きなのだ。
とはいえ、仕事が進まないのはあまりに不憫な気がする。
甲斐かいさん」
必死に下を向いて仕事をするフリをしながら手立てを考えていると、張りのある声で呼ばれた。
顔を上げると、悠良の笑顔が見える。
「甲斐さん、すみません。社内案内してもらえませんか?オリエンテーションというか」
「要領を掴めてないので、甲斐さんが任せてくれたこれも進んでないんです。すみません。これが終わったら他のもできますし」
たしかに今、悠良の教育係を引き受けるには俺が最適かもしれない。
この事務所内では一番社歴が浅いがある程度のことは分かっているつもりだし、二十五歳の彼女と三つしか離れていない。
悠良のデスクに近づこうとする同僚達は彼女の言葉でハッとして、次々と自分の席に戻っていく。(皆、美人に浮かれすぎだよ)
自分のことを棚に上げながら立ち上がると、わざと素っ気なく言った。
「分かった。行こう」
悠良は跳ねるように席を立って俺に付いてきた。これは男女を超えて世話を焼きたくなるだろう。案内を願い出たからにはとばかりに必死でペンを滑らせてメモを取る彼女の背中が、少しずつ丸まっていく。
そういえば、あの人はどんな時も折れそうなほど真っ直ぐに背筋を伸ばしていたっけ。
案内する先でも皆が悠良を見てほうっとなったが、次々と愛想よくかわされていく。
その姿を見ているのは楽しい。
少し優越感が芽生える。


 社内案内は、彼女が要点を掴んでくれたおかげで早く終わった。
ご都合主義なくらいに丁度良く、十時のチャイムが聞こえる。
「休憩しよう」
悠良を食堂に誘って自販機の前に立つ。
細い指が目の前を横切って、あっという間に硬貨を入れてボタンを押し、コーヒーを俺に押し付ける。
「ありがとうございます」
悠良の笑顔からは、先ほどよりも遠慮や緊張感が薄れていて、こんな率直に笑うのだと思った。(美月さんと全然違う所もあるんだな)
改めて彼女をしっかり見てみる。
俺と同じくらいの身長は美月も同じだったが、黒くて長いストレートヘアの美月とは反対の、ブラウンのウェーブかかった髪をしている。
「どうかしました?」
礼も言わずに自分を観察する俺を、彼女が怪訝な顔で見たのは当然だ。
それなのに、悠良はなぜか堪らなく嬉しそうな顔でコーヒーを飲み、今度は俺を観察する。
「何でもない」
「そうなんですね」
本当の事など言えずに濁した俺を、悠良は追及せずゆるしてくれた。
いきなりジロジロ見ておいて、何でもないなんて通用しないのに。
小休憩終わりのチャイムが鳴る。伸びをしながら事務所に戻る彼女の後ろ姿はすらりと長い。
向日葵みたいだな、そう思った自分に呆れて首を振る。
(また花にたとえるの、やめろよ)
向日葵は湿気が苦手だと大家が言っていた。彼女のウェーブの髪も、湿気で好き勝手にうねりそうに思う。
腕を伸ばして、彼女の頭上に大きな傘をさしてやりたい。
そんな思いが過ったのを無視して、急いで事務室へ走った。

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