(恋愛小説)立葵と向日葵(10)
明日言う。
昨日のその決意は嘘じゃなかった。
なのに、出勤すると職場の張り付いた空気を感じた。
主任からトラブルが起きたことを報告され、課の全員で対応が始まる。
長い今年の盆休み前に、なんとしても解決して取り引き先に報告しなければいけないと、必死だった。
二十一時までかかって何とか目処を付け、帰宅すると、悠良からLINEが入っていた。
「だいじょうぶ?お疲れ様、今日はゆっくり休んで。」
その言葉で秘密を明かすのを一日待ってもらえたようで、ホッとしてしまう。
安堵するとどっと疲れが押し寄せ、今の頭で考えられる最大限の言葉を返して、シャワーを浴びた。
汗を流すと少し疲れが取れるけど、もう今日は話せない。
頭が回らず、何を言えば良いのかも分からない。
(何をしてるんだろう)
言うのが遅くなればなるほど、自分は不誠実な男になる。
早く言った方が、まだ悠良は信じてくれるかもしれないのに。
だが、この調子なら明日も帰りが遅くなるだろう。
(どうしよう……)
昨日は祝福されてあんなに嬉しいと思ったのに、今は大家の来訪が恨めしくて仕方ない。
(いや、違うよな……)
本当は、大家のせいじゃない。
仕事のトラブルのせいでもない。
本当に話そうとしているなら、今だって悠良の家でしどろもどろになってでも話しているだろう。
(卑怯だ……)
(俺に本当に彼女と付き合う資格があるのか?)深い自己嫌悪を抱えて、ベッドの上でのたうち回る。
このまま気がおかしくなった方が楽かもしれない。
底の底まで思い詰めると不思議なくらいに前向きな考えが湧くらしいが、この時はまさにそうだった。
(一日でも早く言った方が良い!)
あまりに突然の思考の変わりようが不思議だが、一日でも早い方が良いのは間違いないだろう。
本当に彼女を想うなら、そして本気で手放したくないなら、早く言うしかない。
「よ、し!!」
立ち上がって、急いで歯磨きをする。
早く寝て、明日にはトラブルを片付けて、遅くても明後日には言うんだ。
信じてもらえる可能性をわずかでも上げるには、真摯に秘密を打ち明けるしかないのだから。
今日は自分も上司も驚くほどスムーズにトラブルを解決した。
覚悟を決めたからなのか、何かのスイッチが入っている。
それでも報告などの業務に追われ、帰宅は昨日と同じような時間になった。
今ならまだ電話が出来る。
玄関の鍵を閉めるのと同時に、悠良の番号を開いて、通話ボタンをタップする。
「圭太、お疲れ様。終わったの?」
もしもしも言わずに出てくれたのは、電話を待っていてくれたんだろうか。
やはり、昨日電話しても良かったのかもしれない。
「終わったよ。悠良もお疲れ様」
良かった、と言い合って、お互いに沈黙した。
彼女は俺の様子に気付いているのか。
俺は沈黙を破って喉を鳴らした。自分にキューを振るように。
「明日、大事な話をしたいから、悠良の家に行って良い?」
俺の家で話すのは、ショックを受けた時の悠良が心配になる。
外に飛び出すかもしれない。
でも、彼女の家なら、俺が帰ればいい。
「……分かった。待ってるよ」
とうとう明日、決まってしまう。
どうか赦してくれますように。
悠良が俺を信じてくれますように。
誰かに応援してほしくて、初めて彼女に触れた日のように、カーテンを少し開けて夜空を見上げる。
今日も星はよく瞬いていたけれど、あの日と違って、細い細い月が浮かんでいた。
仕事を終えると、今日も車の中からLINEを送る。悠良はすぐにスタンプで返信をくれた。
うさぎがにこにこと「OKAY」の旗を振っている。
自分への応援だと言い聞かせて、ギアを入れ、彼女の家へ急いだ。
きっと何を言われるのか不安で待っているはずだから。
ドアを開けてくれた悠良は、見たこともないほど顔を硬直させていた。
堪らなくて、ドアが閉まるなり切り出した。
「悠良と結婚したいのは本当に本当だよ。でも、その前にどうしても言わなきゃいけないことがある」
「うん……」
「もし、今からする話を聞いても赦してくれるなら、お盆は帰省して、両親と兄に報告しようと思ってる」
「お兄さん居るんだね」
「うん。兄は結婚してるから、結婚の流れは分かってるつもり」
「そうなんだ」
「……これ見て。兄夫婦の結婚式の写真」
テーブルにつきながら、スマホを探る。
結婚式の写真と聞いて、あんなに緊張していた顔を綻ばせる悠良が愛おしい。
どうか、と震えながらスマホを差し出した。
そこには兄のLINEのアルバムが開かれている。
星も、あの細い月も、今年も咲いているはずの向日葵も立葵も、誰でも良い。
味方をしてほしい。
でも、一度綻んだはずの悠良の顔はどんどん強張る。
震わせた口から、力のない声で言う。
「このひと、私……じゃないよ……?」
「そっくりだよな。兄の奥さんの美月さんだよ」
彼女のしなやかな手を取り、しっかり握る。
悠良に力が伝わるように、飛び出そうとしても捕まえられるように。
でもその手からは力が抜け、指先が冷えていく。
写真を見せた後、義姉は悠良の五歳上で双子などではないこと、義姉の両親には俺も結婚式で会ったことがあり、よく似ていることを話した。
だが硬直した顔で頷くばかりで、話を理解できているか分からない。
家族親族以外で自分に瓜二つの人間が現れる。しかも、婚約者の義姉として。
悠良でも相当衝撃的な事実なのだ。
過去の俺の気持ちに気付いたら、受け止めることも出来ないかもしれない。
彼女の様子を見逃さないようにじっと見つめた。
(一時間くらい経ったかな……)
一瞬だけ時計を見る。あれから五分しか進んでいなかった。
高専のクラスメイトの話を思い出す。
彼は絶食入院で一番辛かったことを武勇伝のように大声で話していた。
「早く食べた過ぎて、時間が経たないんだよ!一時間経ったなと思ったら、五分しか経ってないんだよ?!」
そんなわけあるか、と思ったのを、いつか級友に謝ろう。
気がおかしくなりそうで、変なことばかり思い出す。
その時、悠良は俺を真っ直ぐ見て、いつもの張りのある声で言った。
「圭太……ありがとう」
「え、ありがとう……?」
目の前が真っ暗になる。「今までありがとう」ということなのか。
これは別れの言葉なのだろうか。
おろおろと狼狽える。
悠良がどんな答を出してもおかしくないのに。「あの一週間って、美月さんを好きな気持ちが残ってないのを確認してたんでしょ?「百パーセントの好き」ってそういうことだったんだ。私を大事にしてくれてありがとう」
義姉を好きだったことを察して、その上でありがとうと言える悠良はやはりすごい。
でも何か違う。
「うん……いや、そうなんだけど!」
いつも色々先回りして読まれているのに、一番肝心なところは伝わっていないのが悔しい。
「お義姉さんにはもう気持ちないから、じゃあ悠良で!みたいことじゃない!」
今度は不思議そうな顔で俺を見ている。
「一週間待ってって言ったのは、悠良は絶対に身代わりじゃないって確信したくて……。お義姉さんへの気持ちはだいぶ前から無かったけど、思い出したら苦しいから、もしかしてまだ好きなのかって不安で」
「……苦しい?」
そう言った彼女の目には、いつもの力があった。「さっきの写真……兄さん格好いいじゃん?しかも俺は高専卒だけど偏差値ランキング下の方で、兄さんの大学の方が上だし、性格もリーダータイプだし。そんな兄さんに、恋愛も敵わなくて、だからお義姉さんを思い出すと苦しくなって……それをまだ好きだって勘違いして……」
「お兄さんは格好いいと思うけど、私は圭太じゃなきゃ嫌だよ?」
和ませようとしたのか、少しオーバーリアクションで彼女は言ってくれた。
「赦してくれるの……?」
「圭太、何も悪いことしてないでしょう?」
きっと私に早く会いたかったんだよ、と言いながら、力強く背中を撫でてくれる。
お返しに俺が彼女の頬を撫でると穏やかな笑顔が返ってくる。
この愛おしい時間を捕まえるために、一番大事なことを伝えよう。
「この顔がたるんで皺くちゃになって、誰に似てたか分からなくなったりするかもしれない。その後も、ずっと一緒に居たい」
「私も。皺くちゃの圭太も絶対可愛いよ」
「……ずっと兄さんみたいに格好よくなりたかったけど、悠良に「可愛い」って言われるのは嬉しいんだよな」
悠良が言う「可愛い」の意味を教えてもらった。悩みながらも一生懸命で、優しくて、真面目で愛おしいけど、少し男らしい。
男性には、彼女が最高に素敵だと思う相手にだけ言うんだと笑った。
心が溶けていく。
もう、兄と比べなくてもいい。
悠良がこんなにも好きでいてくれる俺を大事にして、彼女のことはもっと大切にするんだ。
包むように抱きしめると、彼女はまた背中を撫でてくれた。
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