(恋愛小説)立葵と向日葵(6)
掌にじわりと汗をかく。
湿気を吸った空気が重い。
思えば、今まで悠良との間にこんなに空気の重さを感じたことは無かった。
それだけのことを言ってしまったんだと思う。
「百パーセントって、何?」
どう答えたら良いのか分からない。
今の俺にとって美月はどういう存在なのだろう。「私のこと、好きではあるの?」
「いや、それは本当に!大好きなんだよ!でも……」
欠片でも、美月への好きが混ざっているかもしれない。
少しでも、悠良を美月の身代わりだと思っているかもしれない。
そんな状態で触れるなんて出来ない。
「一週間待ってほしい」
そう言って腰を九十度曲げて頼み込んだ。
「一週間で絶対に答を出すから、待っててください」
ゆっくり顔を上げると、驚くことに悠良は笑いかけてきた。
「よく分からなくて不安だけど、初めて好きって言ってもらったし。しかも大好きって」
あぁ、早く迷いなく好きだと言いたいと思う。「車、乗って。」
話題を変えて、自分の情けなさを隠そうとする。
悠良のアパートに向かって走り出すと、彼女は言った。
「来週の土曜日までだね……。明日はどうするの?」
「勝手なこと言うけど、会いたい、です……」
「本当そうだよ。でも、会って分かる気持ちもあるだろうし」
明日は隣の市の美術館とその中のカフェでゆっくり過ごすことに決まった。
気持ちが落ち着く場所が良いだろうと悠良が提案してくれた。
アパートの前に着いたけれど、今日はシートベルトを外すのを少し躊躇しているように見える。「おやすみ、圭太」
「おやすみ、悠良」
彼女の部屋に灯りが点くのを確認して、家までの道を走らせる。
自分の家に戻ると、冷感カーペットにごろんと転がった。
楽しかったのに。
悠良はあの後から、明らかに元気が無くなった。
あのまま手を握られていた方が良かったのだろうか。
悠良は悲しまず、俺も楽しい時間が続いていたのかもしれないのに。
続いて……。
急いで体を起こした。重大なことに気付いた。「……一週間で美月さんへの気持ちが残っていないのが分からなかったら……別れないといけないってことだ!」
悠良が寂しそうに「来週の土曜日までだね」と言ったのは、そういうことなのだ。
「絶対、嫌だ!」
彼女が入社してきてからのことがさっと頭を巡る。
一瞬だった。
まだ、たったこれだけの思い出しか無い。絶対に別れたくない。
必ず、百パーセント悠良が好きだと自分に証明すると決めた。
今日の悠良はストンとしたロングスカートにオーバーオールを合わせていた。シックな服装でいつもと違う印象が楽しめて嬉しい。そして、今日も髪をアップにしている。
「今日の服も昨日のも似合ってる」
「髪がアップなのも似合う」
「いつもと違う感じが見られて嬉しい」
次々と褒める俺を、不思議そうに見つめる。「……どうしたの……?」
「あ……ごめん。でも、昨日は俺の勝手で悲しませたから、大好きだってことはしっかり伝えようと思って……。明日から仕事だからこんなこと言えないし」
「いや!それはむしろズルいよ。もっと好きになるでしょ!"百パーセントの好き”ってどういうこと?大好きなら、それで良いじゃない」
本当にその通りで何も言えない。
でも、今更答を出さずに付き合って、彼女は俺を信じられるだろうかと思うと、どうしたら良いのか分からず、余計に何も言えない。
「……でも、きっと何かあるんだろうから土曜日まで待ってる」
「いつもあんなにぐるぐる悩んでるんだから、絶対何か深い理由があるんだろうし!」
運転中なのに泣きそうになる。
こんなに俺を理解してくれた人は今まで居なかったと思う。両親も、兄だって。
「俺、ぜったい悠良を百パーセント好きだって答見つける……」
「本当、絶対見つけてね!」
悠良はそう言って笑ったが、目には少し涙が滲んでいるように見えた。
その言葉に応えると決めたのに、気負いすぎると却って自分の気持ちが分からない。
美術館で現代アートを見ながら、愛について突き詰めて考えたり、カフェではひたすら悠良を眺めて、浮かんできた自分の思考たちを捕まえようとしたけれど。
「ごめん……」
帰路を走らせるハンドルが重い。
結局、答はまだ出なかった。
「まだ六日あるよ。私も謝らないといけないことある」
「え?」
「土曜日、親戚の集まりで市街地行くの」
土曜は、答を出す日じゃないか。
「一日中?」
「十五時にお開きで……十七時にこっちに戻るよ」
「それなら十七時までに答出しておくから。帰ってきたら会ってくれる?」
悠良が笑って頷いた時、アパートに着いてしまった。
今日はサッとシートベルトを外している。
少しは安心させることが出来たんだろうか。元気を取り戻せただろうか。
「悠良、おやすみ。大好きだよ」
「大好きだよ。また明日」
悠良を前にすると気持ちが分からないなら、自分と向き合うしかない。
でも月曜日になり仕事が始まると、考える時間が更に限られてしまう。
期限は土曜日。
来週職場に来た時、俺達はどういう関係なんだろうと昼食を摂りながら考えて焦る。
食べた気なんてしなかった。
いつもより仕事に没頭し、あっという間に定時になった。
そうしていなければ、仕事が手につかなくなりそうで怖かった。
仕事中は悠良も視界に入っていなかったと思うくらい集中する。
帰宅してアパートのカーテンを閉めようと窓際に寄ると、大家の植えた向日葵が目に入った。
「咲いたんだ……」
種を植えた頃は、まだ悠良と出会っていなかった。
あの時、地元で向日葵に見送られて引っ越したことを思い出して感傷に浸る。
ずっと地元に帰ってもいないのに、いつかあの向日葵にも悠良のことを報告出来たら良いと思う。
「あれ……?」
唐突に、引っ越す前まで咲いていた立葵のことを思い出す。
向日葵を植えた日も、今も、立葵のことはすっかり忘れていた。
美月の象徴だったのに。
同じ畑に咲いていたのに。
美月への気持ちだって同じように、だいぶ前から消えていたのではないだろうか。
その方が腑に落ちる。
こんなに悠良が好きなのだから。
安堵して布団に入ると、今度は二年前に美月を想って泣いたことが蘇る。
(でも、悠良に泣いたことは無いんだよな……。)
また答が出ない。
頭を使うのに疲れて寝てしまい、気づけば朝だった。
向日葵は、夜も東を向いて日の出を待っていると聞いた。
悠良はきっと不安を感じながら必死で待ってくれている。
早く答を出さなければ。
火曜日の夜、悠良との電話を終えると、スマホの画面には二十一時と表示されていた。
「兄さんに電話してみようか……。」
恋愛以外なら、兄には何度か相談をしてきた。
ただ、今回は何と言って相談すれば良いんだろう。
諦めて自分で考えるしかないと、とりあえずインスタントでコーヒーを淹れる。
美術館のカフェで飲んだコーヒーは美味しかった。
料理に凝るようになったのだから、これも研究してみようか。
淹れて出してあげられるように。
目の前のものは真っ黒なのに味の深みは無い。熱くて苦いだけだった。それでも冷静になる為だけなら充分だ。
(ファミマでもカフェでもここでも、また一緒にコーヒー飲める日が来るのかな……)
悠良が入社してきた日も一緒にコーヒーを飲んだと思い出す。
それにしても、いくら焦っているといっても、まさか「俺、美月さんが好きだったんだけど、今付き合ってる人が美月さんそっくりで」とでも言うつもりだったのか。
そんなことは、いくら何でも無理だ。
美月が好きだったなんて……。
「だった……」
さっきから俺は、何度も美月を好きだったと言っていた。
何の気負いもなく、自然に。
立葵のことをすっかり忘れていたように、あの恋心はもう過去のものになっていたんだ。
なのに、どうして美月のことを思い出すと、今でも少し胸が痛むのだろう。
どうして悠良を想って泣くことは無いのだろう。
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