狼は手招く
(あらすじ)
「汝は如何な犠牲を払ってでも願いを叶えたいと思うか」。突然、学校に類似した空間に閉じ込められた綾部充含むクラスメイトら四十名。狼が居る校内から脱出するため、ルールに従い、自身らの中で狼に捧げる生贄を選ぶことに。ところが、夜が明けると誰かが狼に殺されている状況に、人々の正気は徐々に失われていく。忘れられた過去やクラスメイトの行動理由、そして狼の真相に触れた時、充は葛藤の末、一つの選択を取る。
気付けば、薄暗い教室の中に佇んでいた。すっかりと鳴りを静めた空間は孤独を強調させ、早く帰らねばと心が急く。
ぐにり。踏み出した足先が、何かを踏んだ。薄暗い中でもわかる。それは、人の腕であった。床を濡らす鮮やかな赤が、己の薄汚れた上履きを飾る。
思わずたたらを踏むと、今度は踵の裏が柔らかさを感じ取った。はっ、はっ……まるで犬の呼気のように、呼吸が上がっていく。
力なく倒れた人の山が、己を中心に積み重なっていた。総勢三十九名の見知った顔だ。虚ろな目は閉じられることなく、真っ直ぐに、だがどこか懇願するように見上げている。
「汝は如何な犠牲を払ってでも願いを叶えたいと、そう思うか?」
不意に、骸の一つが口を開いた。
「願え」
骸の声を皮切りに、各々が口々に騒ぎ出す。
「家ニ帰りたイ」
「たすケテ」
縋ろうと伸びる手に、脚が捕らわれた。抜け出そうにも、凡そ人の力とは思えない力に足は微動だにせず。抵抗を試みる間にも、次々に冷えた腕が身体に巻き付き、遂には死体の海に飲み込まれた。
「助け……」
溺れる寸前。必死に藻掻く手が死体の外へと引かれる。僅かな隙間より、血のように紅い瞳がにんまりと嗤っているのが見えた。
「は……ッ!」
気味の悪い感覚から逃れようと、一気に意識が浮上する。鋭く息を吸った途端、頬に冷たい石の感触が伝わってきた。明らかにベッドとは異なる質感に、身体はバネを仕込んだかの如く跳ね起きる。
ドッ、ドッと落ち着きなく騒ぎ立てる心臓を押さえ、綾部充は周囲を見渡した。
白っぽくなった黒板に、鍵穴のない『開かずの扉』。そして、光を跳ね返さない実験台の上には、ぽつねんと顕微鏡が所在なさげに置かれている。
恐らく、充が座る木の椅子にも誰かが彫った相合傘があるはず。そんな予想に違わず、足を退けると、そこには傘の絵と共にアヤと名が刻まれていた。
どうにも見覚えのある景色は、充が通う学校の理科室で間違いないようだ。
移動教室の後で居眠りでもしていたのか。何にせよ、冷え切った室内はとても先程まで人がいたようには感じられない。
「起こしてくれたっていいのに」
薄情なことだと、充は口を尖らせた。
カーテンに閉め切られた教室はLEDの煌々とした光に照らされ、寝起きの網膜を刺す。妙に残る倦怠感に、充は長い溜息を吐いた。
「次の授業遅刻だよなぁ。あんま遅れてなきゃ良いけど」
教室に入った瞬間に好奇の眼に曝されることを思えば、気が重くて堪らない。
いっそのこと、放課後であれば。光に目を細めながら壁掛け時計を見上げるも、短針は二時を指したまま。秒針までもが止まっている。
何はともあれ、教室に戻る他ないようだ。
致し方なく立ち上がったところで、充はふと我に返った。
移動教室にしては、荷物が何一つない。筆箱もノートも、教科書すらも。台上には消しかす一つ残っておらず、まるではじめから授業などなかったかのようだ。そんな状態の実験台に、置き去りにされた顕微鏡は実に異質に映った。
「何だこれ、手紙?」
よくよく見ると、顕微鏡の下に折り畳まれた紙切れが挟まっている。友人からの置手紙だろうと考え、紙を開いた充は首を傾げた。
悪戯か、あるいは寝こける充への嫌味か。そこには、赤い文字で『狼の居ぬ間に、仔羊は起きる。休める内は夜の帳が下りる頃』と書かれていた。
全くふざけたことを。中二病も斯くやという文をくしゃりと丸め、制服のポケットに突っ込む。
「そもそも俺、理科室にいたんだっけ」
変な手紙のせいで忘れたわけではないが、居眠りをする前の記憶が朧気だ。時間割も記憶から抜け落ちている。
まるで、意図的に思い出すことを阻まれているような。そんな奇妙な感覚に身が震え、足早に扉へと向かう。
よりにもよって理科室に一人きりというのは、なんだか薄気味悪かった。
「そんなホラーみたいなことなんて起きるわけ」
「ないって?」
恐る恐る廊下に出ると、すぐ傍から誰かに声を掛けられた。
「ぅわっ!?」
予想にもしなかった他者の声に、思わず肩が跳ねる。猫のようにふわりと柔らかな髪を逆立て、充は首を違える勢いで振り向いた。
大きく見開かれた瞳に、同じ制服を着た男子生徒の姿が映る。その生徒は、糸のように細い目を充同様に見開き、両手を挙げて敵意がないことを示していた。
「ごめん、まさか充がここまで驚くとは」
男子生徒は固まったままの充を見て、申し訳なさそうに頬を掻いた。
「きょ、京……? 本物?」
「え、僕の偽物がいんの?」
「いや……」
「疑うなら充の秘密でも言う? 昔、お化け屋敷で靴を落として泣きながら僕に」
「いい、いい! 言わなくていい! 確かに本物です!」
疑うまでもなく、クラスメイトの清水京だ。
昔馴染みの姿に、充は息をほぅと吐き出した。
「脅かすなよな」
「つい」
先程の醜態を思い出したのか、糸目が愉快そうに弧を描く。その脇腹に肘鉄を食らわせ、充はそういえばと思い出したように頬を膨らませた。
「授業終わったならせめて起こしてよ。遅刻どころか次の授業まで終わってんじゃん」
京が今ここに居るということは、次の授業も終わって休み時間になったということに違いない。放課後であればと願いはしたが、まさか本当にサボってしまうとは。
半ば動揺している充とは裏腹に、京はきょとんと小首を傾げた。
「授業? 何の話?」
「え? 実験だよ、あっただろ。もしかして今日の授業ってこれで終わり?」
「何言ってんの、六限は現国だったでしょ」
微妙に会話が噛み合わない気もするが、本日最後の授業は現代国語で終わりのようだ。やはり、実験中に寝落ちたきり、放課後まで眠っていたらしい。
薄情者でないかと不満げに目を細めた充に、京が呆れ混じりに口を開いた。
「言っておくけど、今日実験なんてなかったよ」
「じゃあなんで俺、理科室にいたんだよ」
授業もないのに特別教室でサボるほどの不良ではない。そんな度胸もないと口を尖らせると、京も困ったように眉尻を下げた。
「さあ……僕も気付いたら準備室にいたし。それに、直前まで何してたかもあんまり思い出せないんだよね」
「え、京も?」
二人して、謎の状況に黙り込む。握りしめた手に、じわりと汗が滲んだ。
「とりあえず、教室に戻ってみる? 誰かいるかもしれないし」
京に従い、二人肩を並べて東校舎の薄暗い廊下を歩く。
明治に創立された名残か、校舎が建て替えられた今も古びた木棚が廊下を圧迫する。誰もいない廊下は薄暗く、どこまでもしんと静まり返っていた。窓の外は曇天で、夜でなくとも陰鬱としている。
階段を下り、他のクラスが並ぶ中央校舎に移動する間にも、誰ともすれ違うことはなかった。どの教室にも灯りは点いておらず、二人分の上履きだけがこつこつと音を鳴らす。何となく話をする気にもなれない、そんな無言の間が続いていた。
静けさに支配された耳に賑やかしい音が聞こえてきたのは、充が在籍する教室の引き戸に手を掛けた時だった。
「なんでオレ、確かにさっきまで……!」
半ばパニックになったような声に、充と京は顔を見合わせた。
がらりと勢いよく音を立てて扉を開けると、中に居た人物が一斉に振り向いた。三十八対の目が突き刺さり、悲鳴を上げそうになる。
一瞬の静寂の後、クラスメイトの一人が表情を崩した。
「何だ、清水と綾部か」
「何だって何だよ」
隣に立っていた京が教室の中に進んでいく。話し掛けてきたクラスメイトの肩を小突き、それを皮切りに皆が京の周辺に集まった。
気付けば、京はすっかりと教室の空気に馴染んでいた。否、彼を中心に空気が作り上げられていた。いつもそうだ、京は容易く周りを染め上げ、溶け込んでしまう。
そんな光景を、場に馴染めない充はこうして枠の外から見つめているのだ。
「綾部もいつまでもそんなところにいないで入ってきなよ」
扉の前で立ち竦んでいた充に、クラスメイトの一人が話し掛けてきた。
「委員長」
「何遠慮してるんだ、自分のクラスじゃないか」
学級委員長の声に、他の生徒がちらりと充に視線を寄越した。まるで今思い出したかのように。
「清水と一緒に来たんだろ? 大丈夫だった?」
心底心配そうに見つめてくる委員長に、充は苦笑いをした。
「何もないって」
京と充が幼馴染だということは、誰もが知らない事実だ。
地元から電車を乗り継いで一時間ほどのところにあるこの高校は、内部進学が半数を占めている。充は外部進学だが、中学時代の同級生は軒並み他校へと流れた。
京の勧めで選んだものの、充の学力では授業に追い付くのもやっとである。京に勉学を教わって何とか入学に至った。そんな何でもできる京と平凡な充とではあまりに正反対で、つるむようには見えないのだろう。
実際は気の置けない仲で、距離が近い。そのせいか、世話焼きな委員長は、充が京に都合良く使われているのでは、と気を揉んでいるのだ。
「委員長は僕が充に何かすると思ってんだ」
これには流石に、京が聞き咎めた。対して、委員長は邪魔が入ったとばかりに鼻を鳴らす。
「そう思わせるような態度を君が取っているんだろう?」
「どうだか。委員長は僕に難癖付けたいだけじゃないの?」
四月当初から、二人は何かといがみ合うことが多かった。
優秀で心優しい学級委員長と、人気者で頼りになる京。互いにどこか気に食わないようで、時に教室の空気もそっちのけで火の粉を巻き散らすのだ。
そんな彼らの間を好んで割り入る者などいない。結局、話題の中心の充が執り成す羽目になる。今とて、クラス中の目が充に「早く何とかしろ」と訴えかけており、思わず溜息が零れた。
他の誰かがやってくれても良いだろうにとも思うのだが、哀しきかな、そう言えるほどの仲でもない。居心地の悪い空気に、クラスメイトとの関係がこうでなければと考え、充は首を振った。
「あのさ、委員長。俺たちここに来る前に理科室にいたんだけど、もしかして居眠りしちゃってた?」
「綾部は理科室にいたのか。居眠りはどうだろう……ここにいる皆、気付いたら別々の教室にいたみたいなんだ。俺も、目が覚めたら職員室にいたよ」
どうやら、授業中に眠りこけていたわけではないらしい。それどころか、四十名全員が校舎問わずばらばらに目覚めたようだ。些か奇妙な出来事に、ぞわりと肌が粟立つ。
「そういや、誰か他クラスの人に会った? さっき他の教室の前を通って来たんだけど、誰もいなかったよね、充」
京から問い掛けられ、おずおずと頷く。たとえ放課後でも生徒の話し声や物音が聞こえるはずだが、教室からは呼吸の一つすら聞こえなかった。校舎の外ですら、人影一つない、閑散とした空気が漂っていた。
残念ながら、見かけたと手を挙げる者はいない。このクラスだけが何か事件に巻き込まれでもしているのだろうか。馬鹿らしい考えだと一笑したくとも、強張った顔がそれを許さない。
「皆! こんなのを見つけたんだけど」
その時、背の高い女子生徒が声を上げた。舞台の男役然とした凛々しい声に、皆話すのを止めて顔を上げる。彼女の手には、何の変哲もない白い紙が握られていた。
「机に入っていてね。気になることが書かれているんだ」
気になることと聞いて、我先にと人が集まっていく。あっという間に、彼女を中心に人だかりができ、出遅れた充たちは隙間から覗くことすらできずにいた。
「一体、何が書いてるんだ?」
痺れを切らした委員長が声を掛けると、背の高い女子生徒はさながら舞台の如く、よく通る声で読み始めた。
「『ここは狼が住まう場所。狼は獲物を探して彷徨う。――を選ばなければ、私が次の犠牲者になるかもしれない』。何を選ぶのかは文字が潰れていて読めないな」
「狼がいるってこと……?」
動揺に震える誰かの声に、教室の空気がざわりと揺らいだ。
「そんな、だって……学校だぜ? いるわけねぇじゃん」
「でも、いたらどうするの!? 狼だよ、皆死んじゃうよ!」
動揺で大きくなる声やすすり泣く音に、充は顔を顰めた。負の感情渦巻く空間に耐え切れず、気分が悪くなる。不安、恐れ、怒り。全て自分に向いているわけではないのに、当てられてしまう。
「狼だなんて馬鹿らしい。どうせ僕たちを驚かせようという魂胆に違いない」
「それはどうかな」
男子生徒が眼鏡のブリッジを持ち上げ、気丈に振る舞う。が、すぐに無慈悲な声によって一蹴されてしまった。
「なっ、清水君。何か知っているのなら話したまえ」
「授業が終わっていても、部活はあるはず。なのに、窓の外には誰の姿も見えないし、誰も活動していない……どうにも違和感があると思わない?」
「きょ、清水は狼がいると思うの?」
京の考えに、充は吐き気も忘れて尋ねた。現実主義的な京が狼を否定しないことに驚きを禁じ得ない。
「というよりは、あまり考えたくはないけど狼以外の仕業かもしれない。それこそ、誘拐か何かのような」
狼よりも一段と現実味を帯びた考えに、充はふるりと肩を震わせた。
「いや、それなら尚更俺たちが残っているのは可笑しい。不審者の仕業だと言うのなら、先生は生徒が避難したかを確認するだろうし、たとえ無理でも警察や野次馬が集まって喧しいはずだよ」
だが、それも今度は委員長に否定される。
ならばどうして自分たちだけがここにいるのかと、誰にも答えられない疑問が喉元にまで上がってくる。
「……狼がいようが不審者がいようが、学校から出りゃいいだけだろうが」
誰もが様子を窺うように目配せをしていると、気だるげに座っていた男子生徒が言い捨てた。途端に、クラスメイトの表情に明るさが戻る。
「確かに! さっさと、行こうぜ!」
「アタシ、スマホとか色々鞄に入れたままだから探したいんだけど~」
「やれやれ、こんな状況でそんなことを言い出すとは気が知れないな」
わいわいと騒ぎ、教室を後にする生徒らを京と委員長がじっと見つめていた。
「二人とも、どうかした?」
「いや、そう簡単にいくかなと思ってね」
「うん、どうにも引っ掛かるなと思って」
充が尋ねると、同時に答えが返ってくる。
「珍しく意見が合うね」
思わず目を丸くさせると、苦虫を嚙み潰したと言っても過言ではない、心底嫌そうな顔が並ぶ。
「何にせよ、不審者がいるなら門が閉まっているかもしれない。不審者が張っている可能性もあるし、正門と裏門に分かれて、様子を見て逃げた方が良いだろうな」
「癪だけど委員長の言う通りだね。僕ら全員を違う場所に隔離するくらいだから、相手が一人とは考えにくい……数人で固まって、別ルートで逃げた方が良い」
他の皆にも伝えてくると告げ、学級委員長が教室を出る。その後に、充と京も続いた。
「で? 何で清水もこっちに来るんだ」
「来ちゃ不味いわけでもあんの、委員長?」
充と京は、裏門前の集団と合流した。正門の方が人数は多いだろうと予想した通り、十数名しか居ない。何も問題はなさそうだが、と充が首を傾げていると、委員長が苦々しく言い放った。
「清水には正門前の指示役を任せたかったんだけど。心配だから今から見に行ってくれないか?」
「向こうが心配なら委員長が行けば良いでしょ。それに、副委員長の木野さんがいるんだから心配はないはずだけど」
「そ、それは……」
委員長の眉間に皺が寄る。
「確かに向こうも心配だけど、清水一人で向かわせるのも俺は心配だな……人数に問題がないなら、一先ずこのままで良いんじゃないかな」
「……綾部がそう言うなら」
「委員長たち何してんだよ!」
言い争う二人に痺れを切らしたのか、男子生徒が駆け寄ってくる。
「ああ、ごめん。鍵は開いてそうだった?」
「鍵ね! おぉ――い! 委員長が鍵は開いてるかって――……ぅぐぇ」
「バッカお前、静かにしろって! 危機感ねぇの!?」
男子生徒が大声で門前に居る人へ尋ねると、そこから一人の生徒がすっ飛んで来てラリアットをかました。恐ろしく勢いの付いた一撃で、男子生徒が静かになる。
「鍵は開いてるっぽいんだけど」
騒いだにもかかわらず、警備室からは誰も出てこない。門の外で誰かが待機している様子もなかった。
錠前は外れており、通常であれば開く状態になっている。だが、誰もそこから出ようとはしていなかった。
「皆出ないの?」
「委員長も試してみてよ」
言われた通り、委員長が門の片方を引っ張るも、門はびくともしない。充と京も加わり、この場に居る男全員で引っ張ったが、ほんの少しも動かなかった。充が戦力外なのは致し方ないとして、男七人で力を合わせても開かないのは変だ。
「錆び付いているのか?」
「前に私が門を引っ張った時は一人でも開いたんだけどな……」
女子生徒が困ったように門に触れる。
「超強力接着剤を付けられたとか?」
「まあ、そんなんどうだって良いじゃん。開かないならよじ登るまで……とと、あれ?」
ラリアットから回復した男子生徒が、猿のように手慣れた動きで門をよじ登っていく。しかし、天辺に着くと、突然パントマイムをし始めた。
「何遊んでんだよ」
「遊んでねぇし! 何か知らねぇけど壁があんだよ!」
委員長も門の隙間から手を伸ばしたが、腕は門の外へ出ることなく途中で止まっていた。弾力のある何かに阻まれて進むことができないようだ。
「まじで何か壁みたいなのがある」
「だからそう言ってんだろ! お前まさか、オレが遊んでると思ってたわけ!?」
「正直、またふざけてんのかと……にしても、接着剤に透明の板って流石に用意周到過ぎるというか」
「余程、僕らを外に出したくないらしいね」
まるで外の世界から隔絶されているような光景に、充は言葉を失った。
「一旦、引き返そうか。正門も同じ状況なら皆教室に戻ってるかもしれない」
重い空気を変えるように京が言った。
「そうだ、助けを呼べば……」
そっと触れた制服のポケットにはくしゃりと丸めた紙分の厚さしかない。携帯電話の重みはなく、助けを呼ぶ手段がないことを悟る。
「充、心配しないで。何があっても僕が充を守るから」
「……何だよ、それ」
いずれにせよ、自分たちでどうにかしなければならないことに変わりはないのだ。
「裏門組も帰ってきちゃったか」
「そんな……出られないってこと?」
教室へ戻ると、残念なことに正門へと向かった生徒もまた戻っていた。
「正門もやっぱり駄目だったみたいだね」
「か、鍵自体は開いていたんだけど、何故か開かなくて。錆び付いてるとか、重たいとかとは別次元な感じというか」
京の問いに、副委員長が困ったように口籠る。
「裏門も同じだ。男全員で引いてみたけど、まるで動かなかった」
「チッ。柵を飛び越えようにも、変な壁が邪魔して出れやしねぇ」
「あの透明な板は何なんだい? 反則にもほどがあるじゃないか」
脱出の経路が失われたと知り、淡い期待を抱いていた面々が俯いた。活気が失われ、空気さえ一瞬にして冷え込んだように寒々しく感じられる。
充は思わず、己の腕を擦るように抱きかかえた。
「これで、脱出できないことが分かったわけだ。でも、俺たちが帰ってこないことに気付いた親が助けに来るかもしれない」
「とはいえ、理由も相手も分からない以上、対抗手段は考えておくべきだろうね」
委員長と京の案に、男役似の女子生徒が徐に口を開いた。
「何にせよ、武器はあった方が良いね。意味はないかもしれないけど」
あるならあるに越したことはない。しかし、武器など果たしてあっただろうか。あくまでもここは学校だ、そのような物騒なものは置いていないように思うが。
充が考え込んでいる間に、副委員長がおずおずと手を挙げた。掛け直した眼鏡がきらりと光る。
「もしかして、家庭科室とかならあるかも……」
「包丁ね! オレ、ちょっと行ってくる!!」
「あ、おい! 一人で行動するなって!」
京の制止する声も虚しく、男子生徒が教室を飛び出して行く。門の時もそうだが、相変わらずずば抜けた行動力だ。他の生徒らは開け放たれた扉をおろおろと見ているばかりで、誰が追い掛けるのかと幾多の視線が探り合っている。
そんな目が、充は苦手だった。そして、こんなときに目を伏せてしまう自分自身も好きではなかった。
「俺が後を追うよ。あと二人くらい付いてきてくれると嬉しいんだけど」
「じゃ、じゃあ私が。家庭科室にあるかもなんて言っちゃったのは私なので……」
委員長の呼び掛けに、言い出しっぺの法則とでも言うのか、副委員長が立ち上がった。気の弱そうな性格にも関わらず、責任感が強いようだ。
「副委員長も行くんだったら、ついでにアタシの鞄探してきてくんない!? アタシ家庭科室にいたから、そこにあると思うんだよね」
「え、うん……いいよ」
「ありがと~!」
女子生徒が副委員長の返事に満足気に笑う。その表情を見るに、まるで鞄がなかった時のことについては考えていない。彼女の友人らもまた、羨ましそうに副委員長を見上げていた。
「私も行くよ」
困ったように視線を彷徨わせる副委員長の肩を、男役似の女子生徒がぽんと叩く。そのまま自然と肩を抱き、扉の向こうへと姿を消した。
三人が教室から出たところで、気もそぞろな生徒らに向けて京が手を打つ。パァンと高く響いた音に、全員がはっと京を見た。
「さて。籠城用に防衛できるものと食料も必要じゃないかな。念には念を、でしょ?」
「そう、だな」
「手分けして行こう。僕と充は職員室に行ってくる。あと、食堂と購買……美術室も何かあるかもしれないから、誰か行ってくれると助かるんだけど」
テキパキとした指示に、それぞれが渋々ながらも頷く。必要と分かっていても、狼か誘拐犯が居るかもしれない中で、外に行くのには抵抗があるようだ。
充自身も勝手に職員室へ行くことになっていたが、特に物申すことはない。この空間に置いていかれるよりもむしろ、幼馴染と居る方が安心できるというもの。
「清水、水が出るかも確認しないと。あと、籠城する用の教室は二つ要るよな」
学校であるため問題はないとは思いたいが、校門一面が透明な壁で覆われるような非常事態である。何が起こるか分かったものではない。
「そうだね、男子はここ、女子は隣のクラスで良いんじゃないかな」
充の提案に、どうしても外に出たくない生徒の表情が輝く。残る生徒は、京の発案ということもあってか、探索を請け負ってくれた。
それじゃあ、と京が立ち上がる。それに倣って、充も重い腰を上げる。京がそれぞれの顔を見て、きりりと眉尻を上げた。
「皆、健闘を祈るよ」
教室を出て暫く。ここまで来れば喋り声も聞こえないだろうというところで、充は隣を歩く京を肘で突いた。
「京さぁ、さっきのちょっとやりすぎじゃない?」
「え? かっこよくなかった?」
「いや、イタイ。絶対イタイ。ほら見ろよ、俺鳥肌立ったし」
制服の裾を捲ると、確かに表皮がぶつぶつしている。なおも不服そうな京に、目尻を指先で吊り上げ、先程の台詞を復唱してみせる。すると、京が小さく噴き出した。
「充がやると中二っぽい」
「お前も変わんないって」
ふざけたやり取りだが、わざと気を紛らわせるために始めた会話だ。本当は指先が凍えるほど冷たくなっているのだが、それが分かっているのか、京も緊張感のない返しをする。
「ひどいなぁ、僕は充と違って中二病は患ってないけど」
「俺も中二病じゃないし!」
キッと睨みつけると、どうだかと京は肩を竦めた。
そんなしょうもない会話を続けながらも、カツカツと廊下に響く音に注意を向ける。今は丸腰。相手が狼であれ人であれ、相対すれば厄介だ。
長い廊下を抜けて中央階段を下りる途中、充たちが来た方角からとたたた、と足音が近づいてきた。その音は、誰かを警戒している風でもない。
迫りくる音に、充は誰かが自分たちを追い掛けてきているのだと察した。思わず肩に力が入り、階上を見上げる目つきが鋭くなる。
果たして、そこに現れたのは、同じクラスの生徒であった。
「清水君、綾部君!」
充たちを視界に入れるや否や、その人物が階段を駆け下りてくる。
顔は知っているが、生憎と記憶を振り絞っても名前は出てこない。少なくとも、一度も話したことがないことだけは確かだ。
充が応えあぐねていると、隣から助け舟が出された。
「東山君か。何かあったの?」
「あ、いや。二人だけだと危ないかなって。なんて、僕がいてもあんま意味はないか」
どうやら心配して来てくれたようだ。普段クラスメイトとあまり関わることもない充からすると、たとえ京のおまけだろうとも少しくすぐったい。
「東山が一緒に来てくれるの、心強いよ」
「う、うん。ありがとう、綾部君」
東山は一瞬目を丸くさせた後、嬉しそうにはにかんだ。
少し子どもっぽい笑みにつられ、充もにぱっと笑みを溢す。
「わ、綾部君って犬歯が鋭いんだね。笑った顔初めて見たかも」
「笑うと幼くなるからって滅多に人前で笑わなくてね。全く、照れ屋なんだから」
「は? 違いますけど。ってか笑ってるし!」
「あれは微笑んでるって言うんだよ。正確には作り笑い。アルカイックスマイル」
階段の踊り場で、内緒話をするように小声で話す。京が揶揄い、充が反論するのを東山が眩しそうに目を細めて見ていた。
「清水君と綾部君って仲良いんだね。綾部君いつも大人しいし、それに……あ、いや、何でもない」
東山が急に目を泳がせた。途中で止められたが、続きは大体予想が着く。
委員長が充を心配して京に突っかかるものだから、いつしかクラスメイトから腫れもの扱いされていることは充にも分かっていた。その上、委員長が充をクラスに馴染めないと思い込んでいるため、充が告げ口をしているように思われていても仕方がない。
勿論、委員長も悪い人間ではない。純粋に充を心配しているのだろうと伝わるからこそ、彼に何も言うことができずに今日に至る。
誰とはなしに足を進め、階段を下りていく。気まずくなった空気に、京が一石を投じた。
「どれもこれも、充が高校デビューしようとして失敗したせいじゃない?」
「え、高校デビュー?」
瞬時に、東山が話に食い付く。
一体何を言うつもりだと半眼で睨みつけるも、この糸目の考えることはいまいち読み取れない。まさかあのことを言うつもりではあるまい。
京を見つめる充の表情が、感情の削げ落ちた能面に変わった。
「充って見た目柔で、声が高いでしょ? 仕草も相まって子どもとか女の子っぽいってよく言われてたんだけど」
京がふっと目を開き、意味ありげに笑い掛ける。予想とは違う話に、はく、と一拍呼吸を置いた後、充は緊張を緩めた。
「そうなんだ! でも確かに納得できるような」
「いや、言われてないし!」
頷く東山に慌てて否定するも、返ってくるのは生暖かい微笑みばかり。
「それで、高校ではそのイメージから卒業してやるんだって息巻いて緊張でガチガチ、警戒心マシマシでこのざまってわけ」
このざまとは何だと反論したいところではあるが、悲しいことに全てが間違っているとも言い切れない。勿論、そのせいだけではないことは重々承知しているが、同じクラスになってまだ一か月と少し。相手を知るにも知られるにも、時間が足りなかった。
「あはは! 僕、綾部君ともっと仲良くなりたくなってきたよ」
物好きめ、と呟いた声も、東山の笑い声に紛れた。
階段を下りて二階、職員室は右折してすぐのところにある。
白い石の廊下からはひんやりと冷気が漂う。木製の扉を開けると、やはりそこにも人影はなかった。
所狭しと置かれた机には資料が積み重なっており、コップや椅子のクッションが日常感を露わにしている。職員室というのは好んで入るものでもないが、こうして眺める分には興味深い。とはいえ、一体どの机がどの教師のものであるかまでは判別もつかないのだが。
物珍しく見て回ると、不自然に倒された写真立てが目に入った。
「みーつーるー? ちゃんと探して」
「ん~」
遠くから京の注意が飛んでくる。それに生返事をしながらも、充はその写真立てから目が離せずにいた。無性に気になるが、写真を勝手に見るのも気が引ける。
「綾部君? あれ、誰かの写真だろ」
そんな充の逡巡を知ってか知らずか。いつの間にか隣にいた東山が写真立てを起こした。
「ちょっ、東山! プライバシーの侵害……」
充は慌てたものの、その声も写真立てを見た途端に途切れる。瞳が、写真立てを捉えて離さない。
ガラスの中に入っていたのは、小さな紙切れだった。乱雑に千切り取られているのに、大事そうに仕舞われているのが異様さを醸し出す。何より、その内容にも悪寒が走った。
「京!」
充の緊迫した声に、京が駆け寄ってきた。
写真立てを見せると、神妙な表情が浮かぶ。少し低い声が内容を読み上げた。
「『選ぶのは恐ろしい。だが、早く見つけなければ狼に選ばれてしまう。一夜毎に仲間が減った。次は私の番だろうか。早く、選ばなければ』。……これ、あのメモの続きかな」
「狼に殺されるならまだしも、選ばれてしまうって変な言い方だね」
東山が言うように、単純に書くなら狼に殺されるが妥当だろう。回りくどい表現に、何らかの意図が隠されているような気がしてどうにも腑に落ちない。充は下唇を指で挟みながら、文字を見つめた。
「選ぶ……見つける? 何を……狼を?」
狼を見つけるということは、狼に見つかる危険性も増すということだ。だが、メモを書いた人物は「見つける」ことに主眼を置いている。まるで何かを見つけなければならない理由があるとでも言うように。
徐々に世界から思考が解離し、文字の向こうにどっぷりと浸かる感覚が起きる。もう少し、あともう少し潜れば――その時。
スパン!
「いっっっ!?」
突然、後頭部に思わぬ衝撃を受けた。痛みはないが、驚きに心臓が煩いくらいに鳴っている。充は涙目になって、後ろを振り返った。
どうやら京に後頭部を叩かれたようだ。
「考え事は後で。今は必要なものを探して教室に戻るよ」
「……ごめん」
京が首を縦に振ると、その手に持っていた鍵が揺れる。木板から吊るされた鍵はジャラジャラと重い金属音を鳴らした。
「そういや、他の教室って開いてんのかな」
「僕もそう思って、一応。まあ、もし開いてなかったら鍵を取りにくるか、教室に戻ってるでしょ」
それもそうか、と充は首肯し、物色を始める。机の上で目ぼしいものと言えば電話機だが、全ての線が千切られていて使い物になりそうもない。
諦めて机から目を逸らすと、本がぎっしりと詰まった棚が目に留まった。並べられた本はどれも卒業アルバムのようで、中でも七年前と二十三年前の二冊はよく開かれていたのか、表紙がチョークで白く汚れている。
好奇心のままに二十三年前のアルバムを捲ると、顔写真の何枚かに付箋が貼られていた。特に何の変哲もない写真だが、「柴橋章敬」と名前が書かれた生徒の横に「叶」と鉛筆で落書きがされている。
こんなところにまで悪戯をする人間もいるのかと呆れ半分に他も見ていると、もう一人、同じように落書きされた人物がいることに気付く。そこに描かれた名前を見て、充はドッと全身から汗が噴き出すのを感じた。
見知った名前だ。忘れ去りたいほどに。
「……よくある苗字だろ」
首を振り、自ら否定する。少し上がった呼吸を無理やり整え、もう一冊のアルバムを手に取った。
今度は付箋こそ貼られていないが、強い力が込められたのか、集合写真には皺ができていた。やけに辛気臭い表情を浮かべた生徒が写っており、女子生徒が一人、当日休んだのか、右上の窓に別の写真が置かれている。
顔写真の横には、やはり「叶」と書かれている人物が居た。先程のアルバムと見比べ、同じ筆跡であることが分かる。当日集合写真に居なかった「錦彩」という女子生徒の横にもまた、震えた文字で「叶」と書かれている。
彼女の写真だけは、他と比べても幼さの残る顔立ちである。充と同い年と言われても可笑しくはない。
「あれ、アヤってどっかで」
「充、何か見つかった?」
思い出そうとした瞬間、京が充に声を掛けた。思わず手に持っていたアルバムを放り投げ、慌てて周辺で何か良さげなものがないかと視線を巡らせる。すると、すぐ隣の棚に白い電気ポットがあるのが目に飛び込んできた。
「ある! あった!」
幾ら春とは言え、夜になれば校舎は冷え込むだろう。教室の床で直に寝ることになれば体調が悪くなる者もいるかもしれない。そう思えば、白湯でも有難いに違いない。
「ポットか、丁度良いね」
電気ポットを持って振り返ると、京が腕一杯のカップラーメンを抱えながら近付いてきた。両腕にもビニール袋が下げられており、インスタント食品のパッケージが顔を覗かせている。
一体何処にあったのかと驚きを隠せない量だ。
「何それ」
「先生のお昼ごはんじゃないかな」
カップラーメンにはご丁寧に名前が書かれていた。
「……勝手に貰ったらだめだろ」
充が呆れるも、「非常事態なんだし」と言われればそれまで。どちらにせよ食料が要ることは確かなので、本来の持ち主に感謝して食べようと思うのであった。
「あれ、何でアルバム開いてんの?」
不意に京が充の背後を覗き込み、アルバムを見咎めた。
「あ、それは」
「ん? この辛気臭そうな人、カップラーメンの先生と同じ名前……この人もしかして化学の先生じゃない?」
言われてみれば、確かに面影があるような気もする。脳裏にある神経質そうな見た目からはイメージが付かないが、意外にもカップラーメンが好きなのだろうか。大量のカップラーメンと写真を交互に見ていると、遠くから東山の呼び声が聞こえてきた。
「綾部君、清水君も見て!」
少し興奮気味の声に慌てて振り向くと、遠目からでも大きな銀色の棒を手に掲げているのが見える。それが何かを脳が理解すると同時に、東山が大声を上げた。
「刺叉あった!」
「うおぉぉ―! なあぁ―いす!!」
「天才! 東山君天才!!」
狼が居ることも忘れ、充も京も騒いだ。大手柄も大手柄だ。褒められた東山もまた、顔を真っ赤にして笑う。
やがて、刺叉の重さに耐え切れず、東山がよろめいた。慌てて駆け寄ったせいで、バランスを崩したカップラーメンが転げ落ち、乾いた音を立てる。焦ったように転がるカップラーメンを拾い集める三人だったが、それでもはしゃぐ気持ちを抑えきれずにいた。
教室に戻ると、カーテンの閉め切られた薄暗い空間が充たちを迎え入れた。その隅で女子生徒らが身を寄せ合い、姦しく話に花を咲かせている。男子生徒も、心なしか先程までより寛いでいる様子だ。
「全員戻ってきたね。それじゃあ、各自報告していこう。まずは俺たちから」
人数を目算した委員長が声を上げ、報告会が始まった。手分けして探索したことは既に誰かから聞いていたのだろう。
「前置きはいいって。それより、アタシの鞄は?」
「あ、鞄はどこにもなくて……代わりに当初の目的だったものは持ってきたんだけど」
副委員長が申し訳なさそうに布巾で刃を覆った包丁を取り出した。
「とりあえず六本は持ってきたから、女子と男子で三本ずつ護身用に持っておこう」
鞄がないと言われたことが不服だったのか、女子生徒が不機嫌を隠そうともせずに副委員長を睨み付けた。
「はぁ、もっとなかったわけ? アタシらの誰が狼に会うかも分かんないんだし、全員分ないと不公平じゃない?」
「そ、そもそも全員分はないかと……」
「は? そういう話をしてるんじゃないんだけど。アタシが言いたいのは、持ってる人だけが安全とかになってくんじゃんって」
「ごめん。私が他のものも持っていこうって言ったから、置いてくるしかなかったんだ」
女子生徒が副委員長に怒りをぶつけようとしたとき、男役似の女子生徒が間に割り込んだ。彼女の傍らには、大量の割り箸やペットボトル、耐熱性のコップが並んでいる。
武器も大事ではあるが、ここでの寝泊まりに備えて必要なものばかりだ。文句を言いたげだった女子生徒もそれには納得したのか、ぶつぶつと言いながらも先程より強く出ることはできないようである。
「……夜までにはアタシの親が迎えに来るかもしんないし、あんま意味ないっていうか」
「でも、何かあったら保護者に連絡が行くはずなのに、まだ誰も来ないよね……」
地元民のクラスメイトが表情を曇らせる。
「はいはい、暗くならない! その時は皆でお泊り会をするだけだよ。それより、僕たち職員室組からは朗報があるんだけど」
重苦しくなった空間に、場違いなほど明るい声が響いた。
「職員室組ってなんかやだな」
まるで呼び出しを食らったみたいだ。軽口を挟むと、京は口をへの字に曲げ、充の額を指で弾いた。
「出鼻挫かないで、充。……気を取り直して、なんと我らの東山君がすごいものを見つけてくれました!」
「清水君……!?」
突然名指しされた東山が慌てふためく。だが、再び京に促され、おずおずと刺叉を掲げた。周りからは感嘆の声が上がる。
やはり、長物があるとないとでは大きな違いだろう。口々に褒められ、気恥ずかしそうに目を伏せた東山も、嬉しそうに口元を緩めている。
「あと、充。あれ持ってる?」
「これ?」
すぐさまメモの入った写真立てを取り出した。順番に見るようにと、近くの人間に手渡す。
「ただのポエムってわけじゃないよな」
「さあ……字の癖的にはこのメモと同じっぽいけど」
「選ぶって何を?」
首を傾げるクラスメイトを余所に、報告は続いた。
美術室からは、長めの木片と段ボール、ビニールシートを得た。木片を突っ張り棒として扉の内側にあてがう。また、ビニールシートを床に敷き、雑魚寝スペースを作ってみせた。
食堂を確認しに行った者は、日持ちしそうな食料を持って帰ってきていた。火も使えたようなので、最悪火を通せば何とかなるだろう。勿論、京の持ってきたカップラーメンと充の電気ポットも提供した。
残念ながら購買は開いておらず、諦めて引き返したらしい。
教室付近の水回り関係も問題はなかったようで、充はほっと息を吐いた。
「何とか籠城する準備はできたな」
委員長が安堵したように周りを見渡す。それに男役似の女子生徒が同意した。
「そうだね。流石に今夜帰らなかったら警察に連絡が入るだろうから……」
漸く一息つけたと思うと、途端に疲労感が圧し掛かってくる。喋るのも億劫なほどに。
「なんか疲れたし、アタシ先に寝ようかな」
「あ、なら私付き添うよ」
隣の教室で休もうと立ち上がる二人に、他の女子生徒が我も我もと連れ立つ。
残された面々も程度の差はあれど、疲れが見えていた。東山も興奮が冷めたのか、すでにうつらうつらとしている。
緊張は長くはもたない。生き残るためには休息も必要で、誰もが休息を求めていた。
かといって、全員が寝るわけにもいかない。誰かしら見張りは必要となる。
「俺、眠気はないし夜番しようか?」
「ありがとう、綾部。俺も夜は得意だから付き合うよ」
充が名乗り出ると、間髪入れずに委員長のはっきりとした声が返ってきた。正直、一人だと暇で仕方がないため助かる申し出である。それもまだ交流できる相手というのは有難い。
「充が起きてるなら僕も……」
「清水はもう眠そうだからだめ」
頼みの綱は朝型のため、夜は気絶するように眠る。現に、声からして今にも寝そうだ。その上、この男は朝になるまでは何があっても絶対に起きないのである。
各々が横になる中、最後に写真立てを見ていた男子生徒が突然立ち上がった。ぼんやりと眺めていた充の視線を気にも留めず、木板を外して教室のドアに手を掛ける。
「おい、どこに行くんだ」
「……ちょっと外の空気吸ってくるだけだ」
「せめて誰かと一緒に」
「ガキじゃねぇんだから、トイレくらい一人で行かせろ」
委員長の制止も虚しく、男子生徒は扉を閉めて出て行ってしまった。やや困り顔の委員長と顔を見合わせ、充も眉尻を下げた。
「……大丈夫だよ、綾部。直に帰ってくるさ」
予想に反し、男子生徒はいつまで経っても帰って来なかった。正確には分からないが、途方もない時間を教室でじっと息を潜め、待っていたような気がする。だが、カーテンの隙間から漏れる光の量は変わらず、時間感覚が失われつつあった。
疲労で眠いはずなのに、横になった面々も延々と眠れない状況が続いていた。衣擦れの音が何度も聞こえ、あまりの眠れなさに誰かが呻く。ずっとその繰り返しだ。
「……戻ってこないね」
暇を紛らわすように充の手を揉んでいた京がぼそりと零した。あれだけ眠そうにしていたはずなのに、眼が冴えてしまったのか、今やすっかりと声が起きている。
そんな京の呟きに、充は蒼褪めた。悲鳴や叫び声は聞いていないはずだが、一向に戻ってこないということは、何かがあったのかもしれない。
「俺、ちょっと見てくるよ」
「じゃあ、僕も」
充が立ち上がると、京も身体を起こした。そのまま立たせてとばかりに両腕を上げる男の腕を引っ張り上げる。
「俺も一緒に」
「俺たちが戻ってこなかったらお願い」
心配そうな委員長に大丈夫だと微笑み、充は教室を後にした。
念のために男子トイレを覗くも、個室は全て空室。血の跡も何もないことにほっとしたのも束の間、早々にフロアを捜す。
人気のない廊下など、長く居たいものでもあるまい。とはいえ、何処かの教室に隠れているのであれば、捜すのにも時間が掛かる。足早に歩いていると、ふと京が階段の上を指差した。
「見つけた」
釣られて見上げると、男子生徒が一人黄昏るように、階段の踊り場に座り込んでいた。褐色の肌が影に溶け込みそうなほどに儚く目に映る。
「なんで来たんだよ」
相手も充たちに気付くや否や、儚さなど吹っ飛ぶくらい険のある声を発した。
「なかなか戻ってこないからだろ」
「ハッ、まさかメモの意味が分からなかったのか?」
馬鹿にしたように鼻で笑われる。だが、充は怒ることも忘れて戸惑いがちに首を傾げた。
「メモの意味って?」
「いや。あれだけじゃ分かるわけないか」
「何か知ってんの?」
「別に、ここで見つけたんだよ。ほら」
京の問い掛けに、男子生徒は何かを投げて寄越した。慌てて受け取ったのは、古びたノートだ。中は所々破れており、ほとんどが黒塗りされている。充は辛うじて読めるところだけを声に出した。
「『全員が選択しなければ、狼は現れない』。これ、あのメモと矛盾してない?」
「早く選ばなければ狼に選ばれてしまう、だったっけ」
メモに書かれた文からは緊迫感が読み取れたのに対し、ノートの字は幾分綺麗である。別の人間が書いたのかもしれないが、認識に相違があるのが気になるところだ。
「俺たちも何かを選択しなければ良いってこと?」
期待を多分に含んだ充の声に、京は複雑そうな表情を浮かべた。
「そう簡単にはいかないと思うよ。このページの後ろ、黒塗りされてるけど、色々と書かれた跡がある……多分、この後に何かがあったんだ」
「何があったって、狼が来るって分かってんのに選ぶわけねぇだろ」
重要なのは、狼と呼ばれる何者かに遭遇する可能性を減らすこと。であれば、その何らかを選ばないというのが最優先となるはずだ。
一方で、選択を迫られた場合に狼の出現よりも優先される何かがあることも気がかりだった。結局、狼と相対するように仕向けられているような――。
「強制力……?」
「かもしれないね。一旦、この情報は持ち帰ろう」
三人だけで話していても物事は進まない。京が急かすと、男子生徒は心底嫌そうに舌打ちをした。
「皆帰りを待ってるんだから一緒に戻ろう」
「要らねぇって、余計なお世話」
「そんなこと言うけどさ。教室からあんまり離れてなかったのって、迎えを待ってたんじゃないの?」
「は!? お前もうぜぇ部類かよ、この狐野郎……」
梃子でも動こうとしない男子生徒を二人掛かりで何とか連れて帰る。
教室に戻ると、騒がしい声が扉の隙間から漏れ聞こえた。がらりと音を立てた扉に、全員の視線が集中する。
「えっと、何かあった?」
「おかえり、綾部。このメモについて少しね」
委員長が少し疲れた顔で言うと、皆が口々に騒ぎ出した。
「選ばなきゃ狼にやられちゃうんでしょ? じゃあ仕方ないじゃん」
「でもこれ、生贄ってことだろ! もし選ばれたらどうすんだよ!」
悲痛な叫びが教室に響く。もし、選ばれたら。その先は、どうなるのだろうか。
それには皆、口を噤むしかなかった。
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