途方に暮れた俺を助けてくれたのは大学のマドンナだった
大学一年になって、〇〇は親元を離れた。
地元を出て、知らない街で暮らす。
最初は不安もあったけれど、大学に通い始めてみれば、思っていたよりずっと楽しかった。
講義は難しいものもあったが、新しい友人もできた。
昼休みには学食でくだらない話をして、空きコマには図書館で課題を片付けたり、友人の部屋に集まってゲームをしたりもした。
一人暮らしにも少しずつ慣れていた。
洗濯機の回し方も、スーパーで安い食材を選ぶことも、最初は全部ぎこちなかったけれど、今では少しだけ自分の生活になっていた。
そんなある日の帰り道だった。
講義を終えて、友人と途中まで話しながら歩き、コンビニに寄って飲み物を買った。
いつも通りの帰り道。
けれど、アパートに近づくにつれて、様子がおかしいことに気づいた。
人が多い。
通りの奥に、赤いライトが見えた。
消防車。
警察。
近所の人たちのざわめき。
嫌な予感がして、〇〇は足を速めた。
そして、自分が暮らしていたアパートの前まで来た瞬間、言葉を失った。
建物は、黒く焼け焦げていた。
壁も、窓も、屋根も、見慣れた外観ではなくなっていた。
部屋の位置を見ようとしても、どこが自分の部屋だったのか分からないほどだった。
「嘘だろ」
声が震えた。
近くにいた消防隊員に話を聞くと、住民の一人が火を消し忘れ、そこから火が広がったらしい。
幸い、全員の生存確認は取れていると言われた。
それだけは救いだった。
けれど、〇〇には帰る場所がなかった。
服も、教科書も、家電も、布団も、生活のすべてが消えていた。
友人に連絡した。
「今日だけ泊めてくれない?」
返事は早かった。
バイト。
彼女が来る。
実家に帰る。
部屋が汚すぎる。
理由はそれぞれだったが、結果は全員撃沈だった。
誰も悪くない。
それでも、スマホを握りしめたまま、〇〇は近くの公園のベンチに座り込んだ。
もう笑うしかなかった。
「家、なくなったな」
自分で口に出して、さらに現実味が増した。
スマホの画面を見る。
充電も半分を切っている。
泊まる場所もない。
明日からどうするかも分からない。
大学どころではない。
絶望という言葉が、今なら少し分かる気がした。
その時だった。
「君、大丈夫?」
柔らかい声がした。
顔を上げる。
そこに立っていた人を見て、〇〇はさらに固まった。
山﨑天。
大学三年で人当たりがよく、誰にでも明るく接することで有名な先輩。
天真爛漫という言葉が似合う人で、それでいて顔立ちは整っていて、立っているだけで周りの空気が明るくなるような人だった。
大学のマドンナ。
そんな言葉で呼ばれているのも、〇〇は何度も聞いたことがあった。
「大丈夫に見えますか?」
思わず、そんな返しをしてしまった。
天は少しだけ目を丸くして、それから困ったように笑った。
「うーん、正直見えないよね」
「ですよねー、あはは」
自分でも乾いた笑いだと思った。
天は隣に座るでもなく、少し屈んで〇〇の顔を覗き込んだ。
「理由、聞いてもいい?」
〇〇は、ぽつぽつと話した。
アパートが全焼したこと。
友人を頼ろうとしたけれど全員無理だったこと。
荷物も何もかもなくなったこと。
話しながら、情けなさで胸が詰まった。
けれど天は茶化さず、最後まで聞いてくれた。
そして、少し考えるように視線を上げてから言った。
「よかったら、うちに来る?」
「え!?」
驚きすぎて、声が裏返った。
天は笑った。
「驚きすぎだから」
「いや、驚きますよ。いいんですか?」
「まあ、これも何かの縁だから。それに理由聞いてほっとけないしさ」
「ありがとうございます」
その言葉が自然と出た。
本当に救われた気がした。
〇〇は天について行った。
天の家は大学からそれほど遠くない、綺麗なアパートの一室だった。
部屋に入ると、ほんのり柔らかい香りがした。
整理されていて、生活感はあるのに散らかっていない。
一人暮らしの部屋なのに、どこか温かかった。
「リラックスしていいからね」
「あ、はい」
「そこ座ってていいから」
天は冷蔵庫から飲み物を出して、〇〇の前に置いた。
「元気出せ、少年!」
「つい先ほど家無くしたのに無理ですよ」
「それはそう」
天は真顔で頷いてから、また笑った。
その笑顔を見ると、少しだけ息がしやすくなった。
「ところで名前聞いていい?」
「〇〇です」
「〇〇ね。私は」
「山﨑天さんですよね」
「知ってんだ」
「同じ大学で知らない人いませんから」
「そんな有名人じゃないよ」
「いや、有名人です」
天は少し照れたように頬をかいた。
「敬語だけど後輩?」
「一年です」
「そっか。まあよろしくね、〇〇」
「よろしくお願いします」
そのあと、天は部屋の奥から服を持ってきた。
「〇〇、着替えはこれでいいよ」
「いいんですか?」
「だって着替えないでしょ」
「ないです」
「それ使って。服は洗濯するし、新しいのは明日買いに行くぞ」
「明日?」
「だってずっと私の服貸してもいいけど困るでしょ」
「もしかして、ここにやっかいになっても?」
「とりあえず落ち着くまではね」
「ありがとうございます」
「泊まらせるんだから雑用やってもらうからね」
「もちろんです」
風呂を借りた。
天が貸してくれた服は少し大きめのTシャツだったが、それでも自分のものではないせいで落ち着かなかった。
風呂から上がると、天は髪を乾かしながらテレビを見ていた。
すっぴんだった。
けれど、〇〇は思わず目を逸らした。
綺麗だった。
大学で見る時より少し幼く見えるのに、近くにいると余計に整って見える。
「〇〇、寝るよ」
「あ、はい。どこで寝ればいいですか?」
「ベッド」
「え?」
「一緒でもいいでしょ?」
「え、いや、いいんですか?」
「床で寝かせる方が無理。布団ないし」
そう言われて、反論できなかった。
シングルベッドは狭かった。
二人で横になると、どうしても距離が近い。
天は平然としているように見えたが、〇〇だけが心臓をうるさくさせていた。
「狭いけど許してね」
「いえ、泊めてもらえるだけで十分です」
「固いなあ」
天はそう言って笑った。
しばらくすると、天の寝息が聞こえた。
〇〇は眠れなかった。
隣には、大学のマドンナと呼ばれる人がいる。
しかも自分はその人の家に泊まっている。
現実感がなかった。
ふと横を見ると、天の寝顔があった。
長いまつげ。
柔らかい表情。
風呂上がりの髪から、ふわりと香りがした。
可愛い。
そう思った瞬間、慌てて目を閉じた。
これ以上見ていたら、失礼だと思った。
翌朝。
目を覚ますと、隣に天はいなかった。
起き上がると、キッチンから音が聞こえる。
「おはよう、〇〇」
「おはようございます」
「いやー、ずっと一人分しか作ってないから、分量が倍になるの忘れてた」
テーブルには朝食が並んでいた。
少し量は少なめだったが、それでも十分だった。
「美味しいです」
「私が作るんだから当たり前だぞ」
「料理得意なんですね」
「一人暮らししてからだけどね」
天は得意げに笑った。
食べ終えると、〇〇はすぐに立ち上がった。
「俺が洗います」
「お願いね」
皿を洗う。
それだけで少し安心した。
何か役に立てている気がした。
大学に行く準備をしていると、天が服を持ってきた。
「〇〇、服これね」
「ありがとうございます」
「あとこれ、私のLINE」
天はスマホの画面を見せた。
「交換ですか?」
「だって待ち合わせするのにも知らないと不便だもん」
「確かに」
連絡先を交換した。
家を出る時、天がふと思い出したように言った。
「敬語も外すか」
「敬語ですか?」
「距離感じるから嫌なの」
〇〇は少し迷ってから頷いた。
「分かったよ、天」
「うわぁ、呼び捨てまでは許可してないのに」
「すみません」
「敬語戻ってる」
「ごめん」
天は笑った。
「まあ、その方が距離感は近くなるからいいか」
「二人の時だけですよね?」
「まあそうだね」
大学の正門前で別れる時、天が手を振った。
「終わったら連絡して」
「分かった。終わったら連絡する」
「待ってるね」
その言葉が、不思議と嬉しかった。
講義中も、〇〇はどこか落ち着かなかった。
昨日まで自分の部屋があった。
今はない。
けれど、帰る場所はある。
天の家。
そう思うだけで、少し胸が温かくなった。
講義が終わって連絡すると、すぐに返信が来た。
『よーし、買い物行くぞ〇〇』
待ち合わせ場所に行くと、天は当たり前のようにそこにいた。
「了解」
「服買って、食材も買うよ」
「そこまでしてもらっていいの?」
「困ってる後輩を助ける優しい先輩だからね」
「優しい先輩すぎる」
「もっと褒めていいよ」
「天は優しくて頼りになります」
「素直でよろしい」
服を買い、下着や日用品も買った。
スーパーでは天がカゴにどんどん食材を入れていく。
「こんなに買うの?」
「〇〇、たくさん食べるでしょ」
「まあ食べるけど」
「それに、二人分作るなら多めに買わないと」
「天の料理美味しいから楽しみ」
「そういうこと言うと毎日作るぞ」
「それは嬉しい」
天は少しだけ視線を逸らした。
「ずるいこと言うね、後輩」
その日も帰ってから、天がご飯を作ってくれた。
〇〇は皿を並べたり、洗い物をしたり、できることをした。
食事をして、風呂に入り、同じベッドで眠った。
初日よりは少し楽だった。
けれど、まだ緊張はする。
天が隣で寝返りを打つたびに、心臓が跳ねた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その距離が少しずつ日常になっていった。
そんな生活が、一日、二日、一週間と続いた。
天は朝が強かった。
〇〇より先に起きて、朝食を作っていることが多かった。
〇〇は洗い物やゴミ捨てを担当した。
洗濯物を畳む時、天が「それ私の」と言って慌てることもあった。
〇〇がスーパーで重い荷物を持つと、天は「お、雑用係優秀」と笑った。
夜は一緒にテレビを見た。
くだらない番組で天が声を出して笑う。
その横顔を見て、〇〇もつられて笑った。
たまに天は課題を見てくれた。
「ここ違う」
「どこ?」
「ここ。式は合ってるけど、考え方が遠回り」
「頼れる先輩」
「もっと言って」
「頼れる、優しい、料理上手、可愛い」
「最後なんか混ざった」
「事実だから」
天はクッションを投げてきた。
「生意気」
「褒めたのに」
「褒め方がずるいの」
そんなやり取りが増えていった。
最初は居候だった。
けれど、気づけば二人の生活になっていた。
朝起きて天がいる。
夜帰ると天がいる。
それが当たり前になっていた。
一ヶ月が経った頃。
「〇〇起きてー!!」
朝、突然重みを感じて目を開けると、天が〇〇の上に乗っていた。
顔が近い。
近すぎる。
「起きるから降りて」
「起きた?」
「起きた」
「朝ごはんできるから行くぞ」
「分かったよ」
天が満足そうに降りていく。
〇〇はしばらく天井を見た。
朝からこの起こし方は身がもたない。
目を開けた瞬間に天の顔が目の前にある。
刺激が強すぎる。
リビングに行くと、天は何事もなかったように味噌汁をよそっていた。
「どうしたの?顔赤いよ」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「私?」
「自覚あるんじゃん」
「起こしただけだよ?」
「起こし方があるだろ」
「じゃあ明日は優しく起こす」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
天は楽しそうに笑った。
大学でも噂になっていた。
あの山﨑天が、一年の後輩と付き合って同棲している。
そんな話が、〇〇の耳にも届くようになった。
友人にも聞かれた。
「お前、山﨑先輩と住んでるってマジ?」
「事情があるんだよ」
「事情でマドンナの家に住めるなら俺も事情ほしいわ」
「言い方」
「付き合ってんの?」
「付き合ってない」
そう答えるたびに、少しだけ胸が痛んだ。
付き合っていない。
それは事実だった。
けれど、同じ家に帰って、同じご飯を食べて、同じベッドで寝ている。
その関係に名前がないことが、だんだん苦しくなっていた。
本当は、もう少し早く次の部屋を探して出るつもりだった。
天に迷惑をかけ続けるわけにはいかない。
そう思っていた。
けれど、ここでの生活に慣れてきてしまった。
居心地が良すぎた。
天の笑顔を見るのが好きになっていた。
天の「おかえり」を聞くのが楽しみになっていた。
天が隣で眠っていることに安心するようになっていた。
出ていかないといけない。
そう思うたびに、胸が重くなった。
ある日の夜。
夕食を終え、洗い物も終わり、二人でソファに座っていた。
テレビの音だけが部屋に流れている。
天は珍しく静かだった。
「ねえ、〇〇」
「どうしたの?」
「お願いがある」
その声がいつもより真剣で、〇〇は姿勢を正した。
「うん」
天は膝の上で指を組んだ。
少し迷っているように見えた。
そして、ゆっくりと言った。
「このまま、一緒に住まない?」
〇〇は言葉を失った。
「落ち着いたら出る約束は?」
「そんな約束は破って、ここで暮らすの」
「いいの?」
「私から言ってるんだからいいの」
「迷惑じゃないのか?」
「迷惑なら、とっくに叩き出してるから」
天はそう言って笑った。
けれど、その笑顔の奥に少し不安があるように見えた。
〇〇は胸が熱くなった。
自分だけじゃなかった。
この生活を手放したくないと思っていたのは。
「お言葉に甘える」
天の表情がぱっと明るくなった。
「本当?」
「本当。これからもよろしく、天」
「うん」
天は少し俯いた。
それから、もう一度顔を上げた。
「あとね、もう一つ。先輩命令ね」
「いいよ」
「私と付き合ってね」
「え!?」
今度こそ、〇〇は完全に固まった。
天は唇を尖らせた。
「嫌なの?」
「恋人ってこと?」
「当たり前でしょ」
「俺でいいの?」
「〇〇がいいし、〇〇がいいの」
天の声は真っ直ぐだった。
冗談ではなかった。
いつもの明るさの中に、本気があった。
〇〇は天を見つめた。
出会った日。
公園で声をかけてくれた天。
家を失った自分を放っておけないと、家に連れて帰ってくれた天。
服を貸してくれた天。
朝食を作ってくれた天。
距離が近いから敬語を外せと言った天。
一ヶ月の生活の中で、どんどん大切になっていった人。
答えは決まっていた。
「お願いします」
天は一瞬きょとんとした。
それから、嬉しそうに笑った。
「よし」
「先輩命令強いな」
「後輩は従うものです」
「恋人になっても?」
「恋人だからもっと従うものです」
「横暴だな」
「でも好きでしょ?」
〇〇は少し照れながら頷いた。
「好きだよ」
天はその言葉を聞いた瞬間、顔を赤くした。
「急に言うのずるい」
「天が聞いたんだろ」
「そうだけど」
「天は?」
「好き」
小さな声だった。
けれど、確かに届いた。
「〇〇が好き」
胸の奥がいっぱいになった。
その夜、二人はいつも通り同じベッドに入った。
けれど、いつも通りではなかった。
天がそっと手を伸ばしてきた。
〇〇もその手を握った。
「恋人になったんだね」
「そうだね」
「変な感じ」
「俺も」
「でも嬉しい」
「俺も嬉しい」
天は少しだけ近づいてきた。
肩が触れる。
手を繋いだまま、二人は眠った。
翌朝。
大学へ行く時、天は玄関で〇〇の手を取った。
「行こ」
「手、繋ぐの?」
「恋人だからね」
「大学まで?」
「途中までじゃなくて、大学まで」
「噂されるぞ」
「もうされてるし」
「緊張するな」
「私は嬉しくてしてない」
「絶対してるだろ」
「ちょっとだけ」
天は笑った。
外に出る。
朝の光の中、二人は並んで歩いた。
自然と恋人繋ぎになった。
〇〇の心臓はうるさかった。
すれ違う学生がこちらを見る。
ひそひそ声も聞こえる。
けれど、天は堂々としていた。
むしろ、繋いだ手を少し強く握ってきた。
「いつから好きになったの?」
〇〇が聞くと、天は少し考えた。
「気づいたらかな」
「気づいたら?」
「うん。一緒なのが当たり前になって、〇〇が帰ってくるのを待つようになって、朝ごはん二人分作るのが普通になって、隣で寝てるのが落ち着くようになって」
天は照れたように笑った。
「その時には、もう好きだった」
〇〇は握る手に力を込めた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「これからもよろしくね、〇〇」
「よろしく、天」
大学の門が見えてきた。
噂はさらに広がるだろう。
友人には質問攻めにされるだろう。
天はきっと楽しそうに笑って、〇〇の手を離さない。
そう思うと、少し怖くて、それ以上に嬉しかった。
家を失った日。
〇〇はすべてが終わったと思った。
けれど、その日、公園で天に声をかけられた。
帰る場所を失った〇〇は、天と出会って、新しい居場所を見つけた。
そして今、その居場所はただの避難先ではなくなった。
大切な人のいる場所。
帰りたいと思える場所。
「〇〇」
「ん?」
「今日の夜、何食べたい?」
「天の作るものならなんでも」
「それ、便利な答えだけど嬉しいから許す」
「じゃあカレー」
「よし、決まり」
「俺、買い物付き合うよ」
「当然。恋人兼雑用係だからね」
「扱い変わってない」
「変わったよ」
「どこが?」
天は立ち止まり、〇〇の方を向いた。
そして、繋いだ手を胸の前で軽く揺らした。
「もう、離さないところ」
〇〇は照れて、少しだけ目を逸らした。
「それは、俺も同じ」
天は満足そうに笑った。
二人はまた歩き出す。
大学へ向かう道。
朝の光。
繋いだ手。
何もかもが、昨日までとは少し違って見えた。
〇〇の一人暮らしは、突然終わった。
けれど、天との二人暮らしは、ここから始まった。
