失恋して上京したはずなのに突然幼馴染がやってきた
藤吉夏鈴と〇〇は幼馴染だった。
家が近くて、親同士も仲が良くて、気づけばいつも隣にいた。
幼稚園の頃は手を繋いで登園した。
小学生の頃は、夏鈴が黙って〇〇の袖を掴んで歩いた。
中学生になると、周りからからかわれることも増えた。
「お前ら付き合ってんの?」
そう聞かれるたびに、〇〇は照れて否定した。
「違うって」
けれど、夏鈴はいつも何も言わなかった。
否定も肯定もしない。
ただ、少しだけ目を伏せて、〇〇の隣に立っていた。
その沈黙が、〇〇には少しだけ特別に思えていた。
高校に入っても、二人の距離は変わらなかった。
登校も一緒。
帰りも一緒。
休日に買い物へ行くのも、勉強するのも、何かあれば隣にいるのが当たり前だった。
〇〇はずっと夏鈴のことが好きだった。
いつからかなんて分からない。
気づいた時にはもう、夏鈴が笑うだけで嬉しくて、夏鈴が他の男子と話すだけで胸が少し痛かった。
それでも言えなかった。
幼馴染という関係が壊れるのが怖かった。
夏鈴の隣にいられなくなるくらいなら、気持ちを隠してでも隣にいたかった。
けれど、高校三年の春。
その関係は、〇〇の勘違いで終わった。
放課後、忘れ物を取りに教室へ戻る途中だった。
校舎裏の方から声が聞こえた。
何気なく覗いた先に、夏鈴がいた。
向かいに立っていたのはサッカー部のキャプテン。
学校でも人気がある、明るくて誰にでも優しい男子だった。
「藤吉さんのことが好きです」
その言葉に、〇〇の足は止まった。
心臓が嫌な音を立てた。
見てはいけないと思った。
聞いてはいけないと思った。
でも動けなかった。
夏鈴は少しだけ俯いていた。
そして、小さな声で言った。
「ありがとう」
その一言だけが聞こえた。
〇〇は、その先を聞かなかった。
いや、聞けなかった。
ありがとう。
それは受け入れる言葉に聞こえた。
夏鈴が誰かの彼女になる。
自分ではない誰かの隣に立つ。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
〇〇はその場から逃げるように離れた。
次の日から、〇〇は夏鈴と距離を取った。
朝、夏鈴が家の前で待っていても、少し早く出た。
帰りに夏鈴が声をかけようとしても、友達と予定があると言って逃げた。
連絡も減らした。
既読をつけるのが怖くて、返事を遅らせた。
夏鈴は何度も聞いてきた。
「〇〇、なんかあった?」
「別に」
「私、何かした?」
「してない」
本当は言いたかった。
夏鈴が好きだった。
好きだったから、苦しかった。
でも言えるはずがなかった。
夏鈴に彼氏ができたと思い込んでいたから。
卒業が近づく頃、〇〇は地元を離れる大学を選んだ。
東京の大学。
夏鈴には言わなかった。
親から聞いたのか、卒業式の日、夏鈴は校門の近くで〇〇を待っていた。
「東京行くんだ」
「ああ」
「なんで言ってくれなかったの」
「言うほどのことじゃないだろ」
夏鈴の目が少し揺れた。
「幼馴染なのに?」
その言葉に胸が痛んだ。
けれど、〇〇は笑えなかった。
「いつまでも一緒ってわけにはいかないだろ」
夏鈴は黙った。
そして、少しだけ唇を噛んだ。
「そっか」
その声が、今でも忘れられない。
それから三年が経った。
〇〇は大学三年になっていた。
東京の生活にも慣れた。
小さなアパート。
バイトと大学を行き来する日々。
友達もできた。
それなりに楽しく過ごしていた。
けれど、心のどこかにはずっと夏鈴がいた。
忘れるために上京したはずなのに、忘れられなかった。
駅で黒髪の女性を見かけるたびに振り返った。
静かな声を聞くたびに思い出した。
好きだった人。
いや、今でも好きな人。
それを認めるのが嫌で、〇〇は毎日を忙しくした。
バイトを入れて、課題をして、疲れて眠る。
そうすれば思い出す時間が減ると思っていた。
大学の帰り。
外の空気は少し冷たくて、アパートまでの道を歩きながら〇〇は小さく息を吐いた。
「疲れた」
階段を上がり、自分の部屋の前まで来た時だった。
誰かがいた。
ドアの前で、小さくしゃがみ込んでいる人影。
黒い髪。
細い肩。
〇〇は足を止めた。
「え?」
声に反応して、その人が顔を上げた。
時間が止まった気がした。
「夏鈴……?」
次の瞬間、夏鈴は立ち上がり、勢いよく〇〇に抱きついてきた。
「〇〇のバカ」
懐かしい声だった。
ずっと聞きたかった声だった。
〇〇は何も言えなかった。
夏鈴の腕が背中に回る。
ぎゅっと強く抱きしめられる。
三年ぶりなのに、その体温は昔と同じだった。
「なんで……ここが」
「おばさんに聞いた」
「母さんに?」
「うん。聞いたら教えてくれた」
夏鈴は顔を〇〇の胸に埋めたまま言った。
「ずっと来たかった」
〇〇は喉が詰まった。
会いたかった。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「とりあえず上がれよ。寒いだろ」
「うん」
部屋に入る。
玄関で夏鈴が靴を脱いだ瞬間だった。
〇〇が振り返るより早く、夏鈴が近づいた。
そして、そっと背伸びをして、〇〇の唇にキスをした。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
柔らかい感触。
近すぎる距離。
夏鈴の睫毛が震えていた。
唇が離れる。
夏鈴は真っ直ぐ〇〇を見た。
「〇〇、好き」
「え……」
「ずっと好きだった」
その言葉に、〇〇の胸が強く鳴った。
「待って、夏鈴」
「待たない」
夏鈴はもう一度、〇〇の服を掴んだ。
「ずっと待ってた。ずっと寂しかった」
「悪い」
「悪いじゃ足りない」
夏鈴の声は静かだった。
けれど、震えていた。
「〇〇、急に離れるし。連絡も減るし。東京行くことも教えてくれないし」
「それは……」
「私、何かしたのかと思った」
「違う」
「じゃあなんで」
〇〇は目を伏せた。
三年間抱えていた勘違い。
馬鹿みたいな理由。
でも、あの時の自分にはそれが全部だった。
「夏鈴、彼氏いただろ」
夏鈴の目が大きく開いた。
「いないから」
「でも、高三の時。サッカー部のキャプテンに告白されてただろ」
夏鈴は少しだけ眉を寄せた。
「見てたの?」
「見た。夏鈴がありがとうって言ったのを聞いた」
「それだけ?」
「それだけ聞いて、付き合うんだと思った」
夏鈴はしばらく黙った。
そして、呆れたように息を吐いた。
「断ってるから」
「え」
「あれ、断ってるから」
〇〇は言葉を失った。
夏鈴は近づいて、〇〇の胸を軽く叩いた。
「ありがとう。でも好きな人がいるから、ごめんなさいって言った」
「好きな人……」
「〇〇」
夏鈴は逃げずに言った。
「ずっと〇〇が好きだった」
胸の奥で、何かが崩れた。
三年間、自分を縛っていたもの。
諦めようとしても諦められなかった理由。
全部が、たった一つの勘違いだった。
「俺の、勘違いか」
「勘違い」
「本当に?」
「本当に」
夏鈴は少しだけ怒った顔をした。
「私、彼氏なんていない。〇〇以外見てない」
その言葉が嬉しくて、苦しくて、〇〇は笑いそうになった。
けれど先に謝らなければいけなかった。
「ごめん」
夏鈴は首を横に振った。
「許さない」
「だよな」
「だから、ちゃんと埋めて」
「何を?」
「離れてた三年分」
夏鈴はそう言って、また〇〇に近づいた。
今度は〇〇も逃げなかった。
夏鈴の頬に手を添える。
指先が少し震えていた。
「夏鈴」
「ん」
「俺も好きだった」
夏鈴の目が揺れた。
「だった?」
「今も好き」
その瞬間、夏鈴の表情が崩れた。
泣きそうなのに、少し笑っていた。
「遅い」
「ごめん」
「ほんと、遅い」
「うん」
「でも、聞けて嬉しい」
夏鈴が目を閉じた。
〇〇はそっと顔を近づけた。
今度は〇〇からキスをした。
玄関先の小さな明かりの下。
三年分の空白を確かめるみたいに、優しく唇を重ねる。
夏鈴は最初、少しだけ驚いたように肩を揺らした。
けれどすぐに、〇〇の服を掴んで受け入れた。
離れると、夏鈴は小さく息を吐いた。
「〇〇」
「ん?」
「彼女は?」
「いないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「好きな人は?」
「夏鈴」
「じゃあ、私がなるね」
「え?」
「〇〇の彼女」
夏鈴はそう言って、またキスをした。
何度も。
短く、優しく、確かめるように。
離れていた時間を一つずつ埋めるみたいに。
〇〇も夏鈴を抱きしめた。
細い肩。
懐かしい匂い。
ずっと忘れたかったのに、忘れられなかった存在。
今、その人が自分の腕の中にいる。
「〇〇」
「うん」
「付き合お?」
〇〇は夏鈴を見つめた。
三年前、言えなかった言葉。
ずっと胸の奥にしまっていた言葉。
「うん。よろしく、夏鈴」
夏鈴は小さく笑った。
「よろしく」
その笑顔を見た瞬間、〇〇は思った。
上京しても、離れても、忘れられなかったのは当然だった。
自分はずっと、この人が好きだった。
部屋に上がると、夏鈴はきょろきょろと周りを見た。
「〇〇の部屋だ」
「狭いだろ」
「落ち着く」
「初めて来たのに?」
「〇〇がいるから」
さらっと言われて、〇〇は顔が熱くなった。
「そういうこと言うタイプだったっけ」
「三年分、我慢してたから」
夏鈴はソファに座ると、隣をぽんぽんと叩いた。
「ここ」
「俺の部屋なんだけど」
「早く」
〇〇が隣に座ると、夏鈴は当然のように寄りかかった。
肩に頭を乗せる。
昔より少し大人びた横顔。
けれど、甘え方は昔のままだった。
「寂しかった」
「うん」
「毎日、〇〇のこと考えてた」
「俺も」
「嘘」
「本当」
「じゃあなんで連絡くれなかったの」
「怖かった」
夏鈴が顔を上げる。
「何が?」
「夏鈴に彼氏がいると思ってたから。連絡したら迷惑になると思った」
「バカ」
「うん」
「本当にバカ」
「返す言葉もない」
夏鈴は少しだけ唇を尖らせた。
「私の三年返して」
「どう返せばいい?」
「これから全部、私にちょうだい」
その言葉に、〇〇は息を止めた。
夏鈴は真っ直ぐだった。
昔からそうだ。
口数は多くない。
でも、本当に伝えたいことは逃げずに言う。
「いいよ」
〇〇が答えると、夏鈴は少しだけ安心したように目を細めた。
「あとね」
「ん?」
「もう少ししたら、お世話になるね」
「へ?」
「東京の美容室に就職するから」
「そうなの?」
「うん」
夏鈴は少し照れたように視線を落とした。
「専門通って、就職先決まった」
「すごいな」
「頑張った」
「うん。すごい」
「〇〇の近くに来たかったから」
胸がまた締め付けられた。
夏鈴は三年間、ただ待っていたわけじゃなかった。
自分の道を進みながら、ここまで来てくれた。
「ここで〇〇と暮らしたいから」
「……本気?」
「本気」
夏鈴は〇〇の手を握った。
「迷惑?」
「迷惑なわけない」
「じゃあ待ってて」
「待ってる」
そう答えると、夏鈴は嬉しそうに笑った。
そして、また小さくキスをした。
「予約」
「何の?」
「一緒に暮らす予約」
「そんな予約あるんだ」
「ある。今作った」
「夏鈴らしいな」
「〇〇限定」
その夜、二人は遅くまで話した。
三年間のこと。
大学のこと。
バイトのこと。
夏鈴の専門学校のこと。
会えなかった時間を一つずつ埋めるように。
夏鈴は時々、話の途中で〇〇の手を握り直した。
本当にここにいるか確認するみたいに。
〇〇もそのたびに握り返した。
もう離さないと伝えてくれた。
「泊まっていくか?」
〇〇が聞くと、夏鈴は少し考えてから首を横に振った。
「今日は帰る」
「そっか」
「帰りたくないけど」
「なら泊まっても」
「今日はちゃんと帰る。でも次は泊まる」
「次は?」
「彼女だから」
夏鈴はそう言って、立ち上がった。
玄関まで送ると、靴を履いた夏鈴が振り返る。
「〇〇」
「ん?」
「もう逃げないで」
その声は静かだった。
でも、少しだけ不安が滲んでいた。
〇〇は夏鈴の手を取った。
「逃げない」
「本当に?」
「本当に」
「連絡もする?」
「毎日する」
「電話は?」
「する」
「会いたいって言ったら?」
「会いに行く」
夏鈴は満足そうに頷いた。
「大好き」
「俺も大好き」
夏鈴は照れたように顔を伏せた。
「それ、毎日言って」
「分かった」
「約束」
「約束」
夏鈴は手を振って帰っていった。
階段を降りる途中で何度も振り返る。
そのたびに〇〇も手を振った。
姿が見えなくなっても、〇〇はしばらく玄関の前に立っていた。
夢じゃないかと思った。
けれど、唇に残る温もりが、手に残る感触が、全部現実だと教えてくれた。
部屋に戻ると、スマホが震えた。
夏鈴からだった。
『今日は会えてよかった』
すぐに返す。
『俺も』
少しして、また届いた。
『明日電話して』
〇〇は笑った。
『もちろん』
さらにすぐ、もう一通。
『好き』
〇〇は迷わず返した。
『俺も好き』
画面の向こうで夏鈴がどんな顔をしているのか、何となく分かった。
きっと少しだけ照れて、でも嬉しそうにしている。
〇〇はベッドに倒れ込んだ。
東京に来た理由は、夏鈴を忘れるためだった。
失恋したと思い込んで、逃げるように上京した。
でも、三年後。
その東京の小さな部屋に、夏鈴は来てくれた。
好きだと言ってくれた。
彼女になると言ってくれた。
一緒に暮らしたいと言ってくれた。
「待ってる、か」
〇〇は天井を見上げて呟いた。
もう逃げない。
もう勘違いで離れない。
今度こそ、ちゃんと隣にいる。
数ヶ月後。
春の風が少し暖かくなった頃。
アパートの前に、大きな荷物を持った夏鈴が立っていた。
「来たよ」
〇〇は笑って手を伸ばした。
「おかえり、夏鈴」
夏鈴は荷物を置いて、真っ先に〇〇へ抱きついた。
「ただいま、〇〇」
そして、当たり前みたいにキスをした。
三年前には言えなかった言葉。
三年間ずっと胸に残っていた想い。
その全部を、これからの毎日で返していく。
離れていた時間よりも長く。
寂しかった時間よりも甘く。
二人はもう一度、幼馴染から始めた。
今度は、恋人として。
そしてこれからは、同じ部屋で、同じ朝を迎えながら。
ずっと隣を歩いていく。
