大好きな彼女は機嫌が悪くなると敬語になる
山下瞳月は、機嫌が悪くなると必ず敬語になる。
付き合い始めた頃は、その変化に気づけなかった。
普段の瞳月は年下ながら遠慮がなく、〇〇に対しても最初からタメ口だった。
「〇〇、今日何時に帰るん?」
「冷蔵庫にプリンあるけど、しーのやから食べたらあかんで」
「ちょっとこっち来て。今すぐ」
甘える時も、わがままを言う時も、少し照れながら好きだと伝えてくれる時も、瞳月はいつもの関西弁で話す。
だが一度機嫌を損ねると、それが途端に変わる。
「そうですか」
「別に大丈夫です」
「好きにしてください」
丁寧な言葉になるほど、瞳月の機嫌は悪い。
それはもう、二人の間では分かりやすすぎる合図になっていた。
同棲を始めて半年が経った今でも、それだけは変わっていない。
むしろ毎日一緒にいるようになったことで、その敬語を聞く機会は少しだけ増えていた。
原因のほとんどは、本当に些細なものだった。
〇〇が瞳月の楽しみにしていたお菓子を食べた。
連絡を返さずに寝落ちした。
休日に二人で出かける約束を忘れかけた。
そういう小さなことが積み重なると、瞳月は静かに敬語になる。
そして今日も、〇〇は久しぶりにその敬語を聞いていた。
「ただいま」
仕事を終えて帰宅した〇〇が玄関を開ける。
普段ならリビングから瞳月の声が聞こえてくる。
「おかえり」
あるいは、少し機嫌が良い日は玄関まで走ってきてくれる。
「遅いやん。しー、お腹空いた」
そう言いながら鞄を受け取ったり、〇〇の腕に抱きついたりする。
しかし今日は違った。
玄関を開けても、家の中は妙に静かだった。
リビングには明かりがついている。
靴もあるため、瞳月が帰っていることは分かった。
〇〇が靴を脱いでリビングへ向かうと、ソファに座っていた瞳月が一瞬だけこちらを見た。
「ただいま」
もう一度声をかける。
瞳月はすぐにテレビへ視線を戻した。
「おかえりなさい」
その一言で、〇〇は足を止めた。
おかえりなさい。
丁寧な言葉。
しかも、声が明らかに冷たい。
〇〇は自分の今日一日を頭の中で振り返った。
朝は普通だった。
瞳月が眠そうに抱きついてきて、あと五分だけと言いながら二度寝をした。
一緒に朝食を食べて、玄関ではいつも通り見送ってくれた。
「早く帰ってきてな」
そう言われた〇〇は、分かったと答えた。
そこで思い出した。
今日は早く帰ると約束していた。
瞳月が夕食を作るから、一緒に食べようと言っていたのだ。
それなのに〇〇は、仕事が長引いたことを連絡していなかった。
スマホを確認すると、瞳月から何件かメッセージが届いていた。
『何時くらいに帰る?』
『ご飯できたで』
『忙しいん?』
最後のメッセージから二時間以上経っている。
〇〇は小さく息を吐いた。
「瞳月、ごめん」
「何がですか?」
「連絡しなかったこと」
「別に大丈夫です」
「大丈夫じゃないだろ」
「大丈夫です。仕事なら仕方ないですから」
敬語が続いている。
かなり怒っている証拠だった。
〇〇は鞄を置き、瞳月の隣に座ろうとする。
だが瞳月は、〇〇が座るより先に立ち上がった。
「ご飯、冷蔵庫に入れてます」
「瞳月は食べた?」
「食べました」
「一緒に食べるって言ってたのに、ごめん」
「謝らなくて大丈夫です」
「でも」
「一人にさせてください」
いつもより少し強い声だった。
瞳月は〇〇を見ないまま、リビングを出ていく。
寝室の扉が閉まる音が響いた。
〇〇はソファに座ったまま、しばらく動けなかった。
悪いのは完全に自分だった。
仕事が長引くことは仕方ない。
だが一言連絡するくらいならできた。
忙しいから後で返そうと思い、そのまま忘れていた。
瞳月はきっと、早くから夕食を準備して待っていたのだろう。
時計を気にして、料理が冷めるたびに温め直していたのかもしれない。
そう考えると、申し訳なさがさらに大きくなった。
〇〇は冷蔵庫を開けた。
中にはラップをかけられた料理が並んでいた。
炊き込みご飯。
味噌汁。
煮物。
卵焼き。
〇〇の好きなものばかりだった。
食卓には一人分の箸だけが置かれている。
本当なら二人で向かい合って食べるはずだった。
瞳月が今日の出来事を話し、〇〇がそれを聞く。
時々、瞳月が料理の感想をしつこく求めてくる。
「美味しい?」
「美味しいよ」
「ほんまに?」
「ほんと」
「どれが一番?」
そんな会話をしながら過ごすはずだった。
〇〇は一人で料理を温めた。
どれも美味しかった。
だが、普段より味が薄く感じた。
食事を終えて片付けを済ませる。
寝室へ向かい、扉の前で一度立ち止まった。
中から物音はしない。
〇〇は小さくノックをした。
「瞳月」
返事はなかった。
「入っていい?」
少し間が空く。
「今は嫌です」
「分かった」
〇〇はそれ以上何も言わず、リビングへ戻った。
無理に話しても、余計に瞳月を怒らせるだけだと思った。
それに瞳月は、一人にさせてほしいと言った。
今はその気持ちを尊重した方がいい。
そう考えた〇〇は、ソファに座ってテレビをつけた。
しかし内容は全く頭に入らなかった。
寝室にいる瞳月のことばかり考えてしまう。
三十分ほど経った頃、寝室の扉が開いた。
〇〇が顔を上げる。
瞳月は着替えを持っていた。
「お風呂入ります」
「うん」
それだけ言うと、瞳月は浴室へ向かった。
目も合わせてくれない。
いつもなら、風呂へ向かう前に話しかけてくる。
「一緒に入る?」
そう言って〇〇を困らせ、冗談やでと笑うこともある。
風呂上がりには髪を乾かしてほしいと甘えてくる。
だが今日は、一切そんな様子がなかった。
浴室の扉が閉まり、シャワーの音が聞こえ始める。
〇〇はソファの背もたれに体を預けた。
付き合ってから何度か喧嘩はした。
同棲を始めてからも、お互いの生活の違いでぶつかったことはある。
だが、ここまで距離を置かれたのは久しぶりだった。
しばらくして、瞳月が風呂から出てきた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、〇〇の横を通り過ぎようとする。
「髪、乾かそうか?」
〇〇が声をかけると、瞳月は足を止めた。
いつもなら何も言わずに〇〇の前へ座る。
それが二人の日課だった。
〇〇がドライヤーを持ち、瞳月の髪を乾かす。
瞳月はその時間が好きらしく、眠そうに目を細めながら座っている。
しかし今日は違う。
「自分でできます」
「そう」
「おやすみなさい」
「もう寝るの?」
「眠いので」
瞳月は寝室へ戻っていった。
おやすみなさい。
それさえ敬語だった。
〇〇は頭を抱えたくなった。
これ以上何を言っても、今は届かない。
それでも、このまま何も言わずに一日を終わらせたくはなかった。
〇〇も風呂を済ませ、寝室へ向かった。
扉を開けると、部屋の明かりは消えていた。
ベッドには瞳月が横になっている。
壁側を向き、布団を肩までかぶっていた。
〇〇は静かにベッドへ入った。
同じベッドなのに、二人の間には不自然なほど距離があった。
普段の瞳月なら、〇〇が入ってきた瞬間に近づいてくる。
腕に抱きついたり、背中にくっついたり、勝手に腕枕を作ったりする。
寝る時だけは特に甘えん坊だった。
「しー、こっち」
「腕貸して」
「離れたらあかんで」
そう言って、ぴったりと寄り添って眠る。
だが今夜は、ベッドの端と端に分かれていた。
〇〇が少し動くだけで、二人の間にある空間が目立つ。
手を伸ばせば届く距離。
それなのに、とても遠く感じた。
部屋には時計の針が進む音だけが響いている。
瞳月は眠っているように見えた。
だが呼吸は少し不自然だった。
おそらく起きている。
〇〇も目を閉じたが、眠れるはずがなかった。
今日のことを考える。
朝、早く帰ると約束した。
瞳月はその言葉を信じて待っていた。
それなのに連絡もせず、遅く帰ってきた。
怒るのは当然だった。
ただ、〇〇にも少しだけ寂しい気持ちがあった。
謝りたい。
ちゃんと話したい。
それなのに拒まれ続けると、どうすればいいのか分からなくなる。
お互いに背を向けたまま、時間だけが過ぎていった。
〇〇は天井を見つめる。
このまま朝を迎えるのは嫌だった。
明日になれば自然に元へ戻るかもしれない。
だが、今日の気持ちを明日へ持ち越したくない。
〇〇は小さく息を吸った。
「もう寝た?」
静かな声で聞く。
しばらく返事はなかった。
やはり寝てしまったのかと思った時、背中側から声が聞こえた。
「起きてるよ」
敬語ではなかった。
久しぶりに聞いた瞳月のいつもの口調に、少しだけ安心する。
だが瞳月は、まだ壁の方を向いたままだった。
〇〇も動かずに聞く。
「まだ怒ってる?」
「怒ってへん」
「嘘」
「怒ってないです」
また敬語に戻った。
〇〇は思わず小さく笑ってしまう。
「笑わないでください」
「ごめん」
「何がおかしいんですか?」
「怒ってないって言った直後に敬語になったから」
「別に関係ないです」
「関係あるだろ」
「ありません」
少しだけ瞳月の声が近くなった気がした。
だが、二人の間の距離は変わらない。
〇〇は横を向いた。
瞳月の背中が見える。
布団から少しだけ髪が出ていた。
いつもなら手を伸ばして触れる。
だが、今はそれをしていいのか分からなかった。
再び沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、瞳月だった。
「こっち向いてください」
〇〇は一瞬、聞き間違いかと思った。
「まだ敬語だけど」
「向いたら戻します」
少しだけ拗ねたような声だった。
〇〇は言われた通りに寝返りを打った。
瞳月の方を向く。
暗闇の中で、瞳月もこちらを向いていた。
目が合った瞬間、瞳月は布団の中で距離を詰めた。
そして何も言わず、〇〇の胸元に抱きついてきた。
細い腕が背中へ回る。
顔を胸に押しつけるようにして、ぎゅっと力を込めてくる。
昼間から感じていた距離が、一瞬でなくなった。
「瞳月?」
「もう怒らんといて」
声が少し震えていた。
〇〇は驚いた。
怒っていたのは瞳月の方だと思っていた。
「俺、怒ってないよ」
「嘘やん」
「怒ってない」
「さっきから全然触ってくれへんかった」
「一人にさせてって言ったのは瞳月だろ」
「それはそうやけど」
瞳月は〇〇の服を掴んだ。
「寝る時まで離れるとは思わんかった」
「どうすればよかったんだよ」
「知らん」
「知らんって」
「しーも分からんもん」
瞳月はさらに強く抱きつく。
〇〇はゆっくりと背中へ腕を回した。
抱きしめ返すと、瞳月の体から少しだけ力が抜けた。
「ごめんな」
「何が?」
「連絡しなかったこと。早く帰るって約束してたのに」
「うん」
「ご飯も作って待っててくれたんだろ?」
「うん」
「何回も温めた?」
「三回」
「ごめん」
「最後はもう温めるん嫌になって、冷蔵庫に入れた」
「そりゃ怒るよな」
「怒った」
「うん」
「めっちゃ楽しみにしてたんやから」
瞳月の声が少しずつ素直になっていく。
「今日は二人でゆっくり食べられると思ってたし、〇〇が好きなもの作ったら喜ぶかなって考えてた」
「全部美味しかったよ」
「一人で食べても意味ないやん」
「そうだな」
「帰ってくる時間分からへんし、連絡しても返ってこんし、何かあったんかなって心配もした」
「ほんとにごめん」
「仕事が忙しいのは分かってる」
「うん」
「遅くなるのも仕方ないと思ってる」
「うん」
「でも、一言くらいほしかった」
「次から絶対に連絡する」
「絶対?」
「絶対」
瞳月は少しだけ顔を上げた。
暗くて表情ははっきり見えない。
それでも、目元が少し潤んでいるのは分かった。
「〇〇、帰ってきてすぐ謝ってくれたやん」
「うん」
「ほんまはあの時、もう許してもよかった」
「じゃあ、なんで敬語のままだったんだよ」
「素直になれへんかった」
「瞳月らしいな」
「それ褒めてないやろ」
「褒めてない」
「ひどい」
「でも、俺も悪かった」
〇〇は瞳月の頭を優しく撫でた。
濡れていた髪は、いつの間にか乾いている。
自分で乾かしたのだろう。
いつも〇〇に任せていた瞳月が、一人でドライヤーを使っている姿を想像すると、少し寂しくなった。
「髪、乾かしてやりたかった」
「頼みたかった」
「じゃあ頼めばよかっただろ」
「怒ってたから無理」
「怒りながら頼めばいいじゃん」
「そんな器用なことできへん」
「知ってる」
「〇〇のくせに」
瞳月は頬を膨らませたようだった。
〇〇はその頬に手を添える。
「俺もごめん。一人にしてって言われて、どうすればいいか分からなくなった」
「うん」
「そっとしておいた方がいいと思ったけど、瞳月が離れていくみたいで寂しかった」
「離れへんよ」
「でも、ずっと敬語だったし」
「それは癖やもん」
「やめられないの?」
「無理」
即答だった。
〇〇は思わず笑った。
瞳月も少しだけ笑う。
ようやくいつもの空気が戻ってきた。
「敬語になると、しーが怒ってるって分かりやすいやろ?」
「分かりやすすぎる」
「じゃあ便利やん」
「こっちは怖いんだよ」
「そんな怖くないやろ」
「おかえりなさいって言われた瞬間、終わったと思った」
「大げさやな」
「その後も大丈夫です、一人にさせてください、自分でできます、おやすみなさいだぞ」
「そんな言い方してた?」
「してた」
「めっちゃ怒ってる人みたいやん」
「怒ってた人だよ」
瞳月は恥ずかしそうに顔を隠した。
「もう忘れて」
「忘れない」
「忘れてください」
「また敬語になってる」
「これはお願いの敬語やから違う」
「便利だな」
「うるさい」
瞳月は〇〇の胸を軽く叩く。
その手を〇〇が握った。
指を絡めると、瞳月も握り返してくる。
「次から喧嘩しても、寝る時は離れないようにする?」
〇〇が聞く。
瞳月は少し考えた後、小さく頷いた。
「うん」
「一人にしてほしい時は?」
「ちょっとだけ一人にして」
「どれくらい?」
「一時間」
「長くない?」
「じゃあ三十分」
「その後は話す?」
「話す」
「敬語でも?」
「そこは許して」
「仕方ないな」
「でも、寝る前には戻す」
「本当に?」
「今日も戻ったやん」
「俺が向いたらな」
「しーから言ったんやからええやろ」
「こっち向いてくださいって?」
「真似せんといて」
瞳月はまた〇〇の胸へ顔を押しつける。
耳が赤くなっているのが暗闇でも分かった。
〇〇はその頭を撫でながら聞いた。
「それで、もう怒ってない?」
「怒ってへん」
「本当に?」
「ほんま」
「敬語じゃないから信用できるな」
「〇〇がまた連絡せんかったら、今度は三日間敬語にする」
「怖すぎる」
「五日間でもええよ」
「絶対連絡します」
〇〇がわざと敬語で答えると、瞳月が笑った。
久しぶりに聞いた笑い声だった。
その声を聞くだけで、胸の奥にあった重たいものが消えていく。
瞳月は笑い終えると、〇〇の腕の中で小さく息を吐いた。
「なあ」
「ん?」
「今日、帰ってくるの遅かったやん」
「うん」
「寂しかった」
「ごめん」
「怒って敬語使って、一人にしてって言ったけど」
「うん」
「ほんまはずっと、早く抱きしめてほしかった」
「難しい彼女だな」
「嫌なん?」
「嫌じゃない」
「じゃあええやん」
「いいのか?」
「〇〇が分かってくれたらええ」
「分かるまで時間かかりそう」
「何年かかっても教える」
「それはずっと一緒にいるってこと?」
〇〇が聞くと、瞳月は一瞬黙った。
すぐに顔を上げて、少し恥ずかしそうに答える。
「当たり前やん」
「怒っても?」
「当たり前」
「敬語になっても?」
「当たり前」
「一人にしてって言っても?」
「それでも離れたらあかん」
「さっき一人にしろって言ったのに」
「しつこい」
瞳月は〇〇の頬を軽くつまんだ。
〇〇も仕返しに瞳月の頬をつまむ。
「痛い」
「俺も痛い」
「先に離して」
「瞳月が離したら」
「じゃあ同時な」
「せーの」
二人同時に手を離す。
そのまま顔を見合わせ、自然に笑った。
数時間前までの重たい空気が嘘のようだった。
瞳月は〇〇の腕を持ち上げ、自分の頭の下へ入れる。
いつもの腕枕だった。
「勝手に使うなよ」
「しーの場所やもん」
「俺の腕なんだけど」
「彼女やから使ってええの」
「どんな理屈だよ」
「知らん。眠い」
瞳月は〇〇の胸元に手を置き、目を閉じた。
いつもの寝る体勢。
〇〇も瞳月の体を抱き寄せる。
今度は隙間ができないように、しっかりと。
瞳月が満足そうに息を吐いた。
「今日はぎゅってしたまま寝て」
「いつもそうだろ」
「今日はいつもより強め」
「苦しくない?」
「苦しくない」
〇〇が腕に少し力を込める。
瞳月も〇〇の服を掴んだ。
「〇〇」
「ん?」
「もう怒らんといて」
「だから怒ってないって」
「でも、寂しそうやった」
「瞳月もな」
「何が?」
「もう怒るなよ」
瞳月は少しだけ顔を上げた。
「瞳月もな」
もう一度言う。
瞳月は〇〇を見つめた後、柔らかく笑った。
「当たり前やん」
その返事に、〇〇も笑う。
瞳月は安心したように目を閉じた。
「おやすみ、〇〇」
「おやすみ、瞳月」
「明日の朝、ちゃんと起こしてな」
「自分で起きろよ」
「嫌。〇〇が起こして」
「分かったよ」
「あと、朝ご飯一緒に食べる」
「もちろん」
「今日食べられへんかった分、明日は絶対一緒やから」
「約束する」
「連絡もする?」
「する」
「遅くなる時は?」
「絶対に連絡する」
「よろしい」
瞳月は満足そうに〇〇へさらに近づいた。
数分後、規則正しい寝息が聞こえ始める。
本当に眠ったらしい。
〇〇は腕の中にいる瞳月を見つめた。
怒ると敬語になる。
一人にしてほしいと言いながら、本当は抱きしめてほしい。
素直になれずに距離を取るくせに、〇〇が離れると寂しがる。
面倒で、難しくて、分かりにくい。
それでも〇〇にとっては、そんなところまで全部含めて大切な彼女だった。
翌朝。
〇〇が目を覚ますと、瞳月はまだ腕の中にいた。
夜中も離れなかったらしく、昨日よりさらに近い距離で眠っている。
頬を〇〇の胸元に押しつけ、腕を腰に回していた。
「瞳月、朝だよ」
声をかけても反応はない。
「起きろ」
瞳月は眉を寄せ、さらに抱きつく力を強くした。
「あと五分」
「昨日、起こしてって言っただろ」
「起こし方が違う」
「どう起こせばいいんだよ」
瞳月は目を閉じたまま、少しだけ顔を上げる。
「優しく」
「十分優しいだろ」
「もっと」
〇〇は仕方なく瞳月の頭を撫でた。
「おはよう、瞳月」
瞳月はゆっくり目を開ける。
寝ぼけた目で〇〇を見つめ、安心したように笑った。
「おはよう」
いつもの口調だった。
敬語ではない。
〇〇はそれだけで少し嬉しくなる。
「機嫌直った?」
「とっくに直ってる」
「昨日は怖かったな」
「まだ言うん?」
「おかえりなさい」
「真似せんといて」
「一人にさせてください」
「もう一回怒るで」
「それは困る」
〇〇が笑うと、瞳月は頬を膨らませる。
しかしすぐに〇〇の胸へ顔を戻した。
「今日、早く帰ってきてな」
「今日は大丈夫」
「連絡も忘れんといて」
「分かってる」
「敬語になりたくないから」
「ならなければいいだろ」
「〇〇次第やもん」
「俺のせいなの?」
「大体は」
「全部じゃないんだ」
「たまにしーが悪い時もある」
「そこは認めるんだな」
「しーは素直やから」
「昨日のどこが?」
瞳月は答えず、布団を頭までかぶった。
〇〇は笑いながらその布団を少し下げる。
「朝ご飯作るぞ」
「一緒に作る」
「まだ眠そうだけど」
「昨日一緒に食べられへんかったから、今日はずっと一緒におる」
「仕事あるんだけど」
「朝だけでも」
瞳月は布団から顔を出し、〇〇の腕に抱きついた。
「ほら、起きるで」
「言ってる本人が離してくれないんだけど」
「あと一分」
「五分から減ったな」
「しー、成長したやろ?」
「はいはい」
「適当」
そう言いながらも、瞳月は嬉しそうだった。
一分後、二人は一緒にベッドを出た。
昨日食べられなかった炊き込みご飯を温め、味噌汁を作り直す。
瞳月は隣で卵焼きを焼いていた。
〇〇が後ろを通るたび、瞳月はちらちらとこちらを見る。
「どうした?」
「別に」
「また怒ってる?」
「怒ってへん」
「なら何?」
「近くにおるか確認してるだけ」
「狭い家なんだからいるだろ」
「昨日は同じ家におったのに遠かったから」
瞳月は少し恥ずかしそうに呟いた。
〇〇は後ろからその頭を軽く撫でる。
「今日は大丈夫」
「ほんま?」
「うん」
「じゃあ、これからも大丈夫?」
〇〇は少し考えるふりをした。
瞳月が不安そうにこちらを見る。
「大丈夫だよ」
答えると、瞳月は嬉しそうに笑った。
「当たり前やんな」
「ああ、当たり前」
機嫌が悪くなると敬語になる彼女。
怒ると一人になりたがるのに、最後には寂しくなって抱きついてくる彼女。
きっとこれからも、何度か同じような喧嘩をする。
そのたびに〇〇は謝り、瞳月は素直になれずに敬語を使う。
そして最後には同じベッドで向き合い、抱きしめながら仲直りをするのだろう。
面倒でも、それでいい。
二人が最後に同じ場所へ戻ってこられるなら。
「〇〇」
「ん?」
「今日の夜も、ちゃんとこっち向いて寝てな」
「怒ってなくても?」
「怒ってなくても」
「敬語じゃなくても?」
「当たり前やん」
瞳月はそう言って笑い、出来上がった卵焼きを〇〇の皿へ一つ多く置いた。
