「光と闇と、魔法使い。」第2話
第一章 国とワタライ家
ワタライ家
靴紐を結び立ち上がると、ワタライ奇流はリビングに向けて声をかけた。
「行ってくるから」
己に向けられた物だとわかっていながら、父である涼は無言を貫いた。いつも通り返事はなかったが、奇流は気にせず外に出る。開けた視界の先は、果てしなく続く青空だ。快晴と呼ぶに相応しいそれが彼を迎えた。清々しさに思わず笑みがこぼれる。
朝の空気が奇流の体を包み、ひんやりと鼻を通る。それがもうすぐ訪れる冬の予感を奇流に伝えた。ふっと吹いた風が彼の銀髪を撫でる。奇流は背伸びをして両腕を回すと、「よし」と一つ気合を入れて歩き出した。
石畳を進む。商店街には人通りも増え始め、多数の子供の声が奇流に届いた。
「おはよー」「おっす」「宿題やったか?」「やってねえよ」
どこにでもある会話。奇流とさして変わらない年代の少年達は、元気よく駆けて行く。奇流はそれを聞きながら、商店街の軒先に目を向けた。この通りは朝早くから店を開け、早朝の時間帯にもかかわらず活気づいていた。町一番の大きい通りだ。数十の店が軒を連ね、通る人々に威勢のいい声をかける。大きな荷物を背負い外から来た行商人も数多く目に入った。
奇流の視線に気が付いた魚屋の主人が、他の客と意味深な目配せをした。またか、と思ったが面倒なので、奇流は気が付かない振りをする。
「ワタライさんとこのかい」
客の男がにやついた表情で口を開いた。奇流は小さく頷くと、男は大袈裟に右手を頭に乗せて、声を張り上げる。
「ワタライさんに売るもんはねえよお。なあ旦那、あんたも困っちゃうよなあ」
男に呼びかけられた主人は苦笑いを浮かべ、何と言っていいかわからない困惑の表情になった。奇流は黙ってその場を去ろうとしたが、男はそれを許さない。
「大体よく外に出られるよなあ。俺なら申し訳なくて人前で歩けねえよ。なあ坊主、おめえのじいちゃんは」「ちょっと、やめなよ」主人が男の声に被せた。
数秒の沈黙が流れた。伏し目がちの主人を尻目に、男は手入れが行き届いていないべたついた髭を触りながら、唇を舌で濡らす。こんな沈黙も奇流にとってはなれた物で、ふっと一つ息を吐くと、何も言わずその場を後にした。
「奇流、おはよう」
明るい声が耳に届く。目の前に佇む少女の姿に、奇流は笑顔を向けた。
「よう、柚。おはよ」
イズミヤ柚は満面の笑みで奇流を出迎える。黒く肩までの髪の毛が、朝の光に照らされて眩しい。
柚は左に向き直り、店の奥に向かって声を出した。
「行って来ます」
するとすぐに奥から二つの影が動いた。「おう。お、奇流。おはようさん」
野太い声が奇流に届く。林檎が入った箱を「よっと」と店頭に置き、男が表に出てきた。続いて体格のいい女の姿が続く。
「奇流、これ食べな」
女は林檎を一つ手に取りエプロンで何度か拭くと、奇流に向かって放り投げた。奇流は右手でキャッチすると、「うまそう。ありがとおばさん、おじさん」と頭を下げる。
奇流は受け取った林檎にかぶりつく。じわりと舌へ甘味が伝い、思わず顔がほころんだ。
「奇流はおいしそうに食べてくれるからいいねえ。柚なんてたくさん作ってもいつも残しちゃうんだよ。だからこんなに細っこい体しちゃって」
やれやれと言った様子で溜息をつく母に、柚は頬を膨らませて反論した。
「だってお母さんが作る量が多いのよ。毎回毎回とても食べきれないよ。ねえ? お父さん」
柚の母――和代は柚の頭をわしゃわしゃと撫でまわし、「なら、毎日奇流に来てもらおうか」と豪快に笑った。途端に柚の顔は赤くなる。父の友明も驚きの表情で奇流と柚を見比べた。
「ま、毎日なんて奇流に迷惑だわ。ね、せめて一日おき……」
そこまで言って「違う違う」と柚はかぶりを振った。
「もお! とにかく行って来ます!」
両親は笑いながら手を上げて柚を見送る。そして奇流も残りの林檎に口をつけ、片手を上げた。
「奇流、夕方……。無理しないでね」
そう言って進んだ柚だったが、何度も奇流を振り返りながら、名残惜しそうに学校へ続くいつもの道を歩いて行く。奇流はその姿が見えなくなるまで、柚の両親と共にその方向を見つめていた。半年前までは学校まで柚と歩いた。しかし次第に一人で行けるようになり、それからは帰りだけ校門前でおちあうようになった。
「さてと、奇流はこれからじいちゃんの家に行くのかい?」
和代の問いかけに奇流は「そうだよ」と短く返し、「林檎おいしかった。本当にご馳走様」と付け加えて歩き出した。
残された二人は、奇流に手を振りその姿を見送る。
「……奇流、あんたもいつか、いつかきっと……。普通の暮らしができるからね」
和代は奇流の背中に呟いた。
