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Bunkamuraの壁面に

2025年3月現在、長期休館中のBunkamuraは、隣接する東急本店の解体工事によって棟の東側面が剥き出しになっています。

この剥き出しになった壁への眼差し、Xを遡っていたら、昨年2024年の夏前からいくつかありました。


そんなコンクリート壁面の東側面に、2025年2月下旬頃から黒い影がペイントされ始めました。

Instagram @siena_just_siena のストーリーズ(2025.02.22)

徐々に白黒、360度方向に捻れながら伸長する三次元の構造体となってゆく様子

Instagram @masaru_suzuki_textile のストーリーズ
Instagram @anna のストーリーズ(2023.03.03)

今しか見ることができないこの壁に、注目が集まりました。

Instagram @mahitothepeople_gezan のストーリーズ(2025.03.12)

センター街から文化村通りに抜けていく道からも垣間見えます。

Instagram @neokcjj のストーリーズ (2025.03.12)

3月10日頃にはもうゴンドラでの作業は見られなくなり、それ以外には何も施されないコンクリート壁面に、潔く一双のモチーフが完成しました。

大山エンリコイサム 《FFIGURATI #652》2025, Photo Shu Nakagawa

日本現代美術におけるストリート・アートの流れに詳しい方はもちろん、現代美術と都市、カルチャーの交差に敏感な方や、アーバン・ランドスケープを好んで渋谷周辺の街を散歩する方、またこの地域で生活している方などは一度は見たことがあるモティーフかもしれません。

これは、現代美術家大山エンリコイサム氏(1983-) の「QTS(クイックターン・ストラクチャー)」です。

都内だけでもあらゆるところに点在するQTSですが、とりわけこの作品は、渋谷全体の再開発という時制のなかで今しか見ることができないそのエフェメラルなあり方が、グラフィティという表現特有の、新鮮な「いま」の感覚を感じさせるようです。

その時空間を感じ取るための十分な余白、距離があります。

というのも

視点と壁画までの導線の例 Google Map, 筆者加筆

こちら。Not like Usのジャケではなく、作品と鑑賞距離を示した図です。(赤:bunkamura東壁面、青ライン:視線の例)  
駅から文化通りまでの混雑した道を抜け、東急本店を分岐点に「オーチャードロード」と「松濤文化村ストリート」という二つの中規模の通りが流れます。
この二つの通りから壁画がよく見えるのですが、この比較的交通の少ない交差点は、壁画を仰ぐ視点にとってちょうどよいレイヤーとなり、我々は人や物の流れ、再開発の雰囲気といった新鮮な「いま」を十分に感じとりながら、壁画を見つめることになります。この「ちょうどよいレイヤー」=距離について、作家は過去の壁画作品「あいちトリエンナーレ2010」で発表された≪長者町壁画プロジェクト≫(14.6m×23m)と比較してこのように述べます。

Choja Machi Mural Project, 2010 Lacquer aerosol paint and lacquer paint on concrete wall (H)14.6m x (W)23m Choja-Machi, Nagoya City, Aichi Pref., Japan Photo © Takahiro Tsushima

同作は、ビルに挟まれた小さい駐車場にあるため、作品に対して十分な距離がとれず、つねに足元から見上げるようにしか鑑賞ができません。

今回の≪FFIGURATI #652≫は、対照的だと作家は述べます。作品の足元は建設現場であり、仮設壁に囲われています。そのため大きく離れての鑑賞となり、視界には標識や電灯、周囲の雑踏など、作品以外の要素が混じります。鑑賞は、作品のスケールをさらに超えて包み込む「渋谷のストリート」という体験と地続きになり、そうして波状に広がる都市のリズムから、新たな弾みが生み出されます。

本作品のステートメント、Instagram @enricoisamuoyama (2025.0313の投稿)


以下、この記事ではsnsで共有されたさまざまな声、それを映し出した素敵な写真の数々を拝借しつつ、今回のプロジェクトのメディアパートナー、ART news Japanの記事を主に参照しながら壁画《FFIGURATI #652》を見ていきたいと思います。



はじめに

この壁画は決して勝手に描かれたわけではありません。Bunkamuraは「渋谷ファッションウィーク(SFW)」春(2025年3月13日〜3月23日)に参加。休館中の館内を活かしてアートプログラムを実施することで、未来の渋谷の文化発信の拠点としてのアイデンティティを、アーティストやデザイナーたちと共に作り上げていこうという狙いがあります。今回2025年春のプログラムのテーマは、渋谷の「ストリート」再考。大山氏の壁画制作は、このプログラムの一環として実現したのでした。館内での作品の展示もありだったと思いますが、この露出した巨大な壁面に描くのだという発想は、やはり根本的なエアロゾル・ライターのそれなのでしょう。(館内の展示では、地下の由緒あるレコーディングスタジオをライブラリー空間のように仕立て、大山エンリコイサムスタジオが今年夏に渋谷に開室予定の、ストリートアートの研究に特化した資料室 LGSA by EIOSから、ストリート・アートに関する文献を紹介していました。)



時制

「《FFIGURATI #652》はSFW後もそのまま残される予定ですが、すでに進行中の東急百貨店本店跡に建つ新しいビルの建設が進むにつれて、次第に見えなくなっていきます。都市の新陳代謝のなかにあるその感じがよいと思っていて。Bunkamuraからハンズ方面に抜ける道沿いの駐車場に、複数台の自動販売機に隠されたストリートアートがあるんです。僕が学生の頃からそこにあり、都市の考古学というか、よく気にして隙間から見ていました。そんなふうに未来の若者が、Bunkamuraと隣のビルとの隙間に《FFIGURATI #652》があることを発見して、そこからインスピレーションを受けてくれたら嬉しいですね。」

Art News Japan, 視線を上げ、空を眺める──大山エンリコイサムの巨大壁画《FFIGURATI #652》は都市を行き交う人に何を問うのか      
筆者撮影2025.02.24


私は「今しか見ることができない壁」を強調してきましたが、大山は都市の新陳代謝を受け入れ、「数年後には見えなくなってしまう」ではなく、むしろそれが良い。学生の頃、宇多川町の隅でエアロゾルアートを発見しては隙間から見ていた過去の自分を未来の若者の姿と重ね合わせ、リニアではない円環を描くような時制の中で自身の作品を想起します。
そもそも、ストリートに描かれるエアロゾル・ライティングにとっては外部の環境の影響で作品の状態が変化に迫られるということは、問題であるばかりか、この現在進行形の活動にとって本質的なことなのでした。
グラフィティー=「落書き」を考えてみましょう。落書きとはその行為、もしくは行為が属するという「活動の場」(バルト)で「書き換えと上書きの運動」(大山2020、『ストリートの美術』)が継続し、またそれが発見された時、常に既にその当事者にとっての「活動の場」となる、そんな現在進行形の時制に落書き=グラフィティは属しているのでした。

しかし、大山氏の作品群は常にモダニズムとの対話があり、画面の自律性と完成品としての洗練を獲得しています。QTSの線から我々が受ける印象ー 例えばライティング文化独特のスピード感は、大山の作品において実は、かなり慎重に描かれています。これはスプレーを動かす速さそのものから生まれる線ではなく、「速さの表象」として慎重に設計され、描かれているからです。さらにこの時、商業施設の壁、オートクチュールの布地、プロダクト、地図、キャンバスなどさまざまな支持体、そして作者の身体性といったものの関係によりQTSは一つの空間を立ち上げるようにその都度、設計されてゆきます。だから大山の各々の作品では、NY80年代のライティングの初源の造形的な方法論が、落書きの属する「現在時制的」な時制や偶然の破壊から解放され、再構築されていると言えます。

その上で、この壁に描かれたQTSでは、渋谷の再開発という文脈のもとに自身の空間的自律性は左右される点で、エアロゾル・ライティングの「現在時制」という出自に本質的に還っている。
だから、ここで「数年後には見えなくなってしまう」という時も素朴に作品としての自律性が放棄されているわけではないでしょう。2000年代の東京・宇多川町の隅でエアロゾルアートを発見しては隙間から見ていた自分、これを発見する未来の若者の姿が想起され、「現在時制」の応答関係を紡いでゆく時間の流れも含めた鑑賞体験が70、80年代NYから紡がれてきた「ライティングを取り巻く時間の流れ」という想像力の中で設計されているのだと読み解けます。

※絵画における落書き的要素がもたらす画面の時制に関する考察に関しては、大山2015、『アゲインスト・リテラシー』、「絵画とスピード違反」、沢山遼2017「ランダム・オーダー─かき換えられる絵画」が参考


響き

インタビュアー: 本作を見上げるという行為を通じて、いつもはどちらかというと俯いて早足で通り過ぎる渋谷という街にも「空があったんだ」ということを再認識しました。

大山:「朝の8時ごろから夕方までゴンドラに乗って制作をしていると、街の時間の流れを感じられるんです。午後5時きっかりに子どもたちの帰宅を促すアナウンスが流れて、渋谷という、どちらかというと外部から訪れる人が多い街にも、地元住民の営みがあることに気づかされます。」

同上

先に、視点から壁画までの距離の中で都市のレイヤーを感じる余白距離が我々には十分にあることを示しましたが、この場所はまた、円山町に抜けていく道や、閑静な住宅地の広がる松濤へ向かう道の結節点でもあり、様々な人の営みを俯瞰するような位置でもあるのですね。

このように、作品の鑑賞を起点にしてその外部、周りの環境へと想像力を広げると、どんどん経験が立体的になっていきます。それはストリートアートの形式的な特徴といえます。無時間的で、静的な形式と一対一ではなく、ストリートの表現と対峙する時、我々は内外が複雑に混じった力学を含む動的な形式の中に入り込んでいる。我々はその中で自身のための余白を見つけ、作品を読み解き、「書き変えと上書きの運動」に参加するのです。

都市との共犯関係で自身の作品を流通させていく、それで自分はまた別のところへ飛んでいく。それがストリートアーティストのやり方でした。ゲット・アップ(自らのグラフィティーをあらゆるところに拡散し、常に人目に触れ続けようとすること。参照;ボムマニア  )、現代美術、都市活性化、プロダクトデザイン、どの一つも目的ではないのかもしれません。彼らは、自身がビジネスパーソンとなり、自身で作り上げてきた表現を流通させます。そのために文化的、社会的文脈をその都度作り上げる「書き換えの運動」を、純粋に楽しんでいる所があるのではないでしょうか。通常の目的意識を逸脱した掴みどころのなさがあります。


舞台装置
我々のストリートでの経験一般、つまり視点が移動し、忙しなく変化していく街での経験に、明確な形はありません。
ストリートアートを、あえてそのような経験を一つのものとして形作る時に必要となる、舞台装置のようなものだと捉えてみてはどうでしょうか。
舞台装置とは、それ自体で見られることはない単なる形式、しかし感覚可能な形として存在する形式です。街の音、光、私の徒歩、人の流れ、個人的記憶、街の歴史、といった内外の交差を多分に含む経験を、我々が一つの経験として捉えようとする時、ストリートアートは舞台装置のような媒体として働くのだと考えてみる。
街にQTSというモチーフがあり、その存在を介することで感じ取られ、聞こえてくる一連の経験があるとすれば、QTSはそういった舞台装置の一つになり得ているのではないでしょうか。そして全体としてそのような舞台装置が共有されるならば、そこは人間の想像力が集まる場にもなりうるでしょう。それは物理的な場ではなく、領土化ではなく、我々は「きっかけの穴」のようなものを作るのだと考えてみる。その穴に誰かが気づき、全体としては転々と穴があいており、きっかけの共有が起きている。そういう街にこそ「場の力」だったり、新鮮な「状況」が生まれるのではないでしょうか。

都市とは、従来、人間が人間たらんと欲した場合、彼らの要求を育てはぐくむ母胎であった。それは封建制に対する自由の砦であった。

安藤忠雄「ヨーロッパ諸国にたずねる商業空間の原点」『商店建築』1974年12月号

ただ、都市とはそもそも大きなシステム、政治によって管理されてもいます。渋谷の再開発を例にすれば、一般的な観点から見えるのは、投資効率の論理で構築される街ならぬビルとビルの関係性。我々に与えられたのは効率化され管理されたベンリな移動で、計画の論理に乗らない界隈性は消えていくという悲しい現実です。「自身のための余白」や「きっかけの穴」などはなくなる。それが一般的なシナリオです。
本来建築は、そこで生きる人間の文化を反映してきました。しかしその関係性が、バブル崩壊後に経済立て直しのために2002年「都市再生事業計画」として計画された昨今の再開発事業では、そこで生活する人間が作り上げる文化、雑多な界隈性からオーガニックに生まれたものではなくなっています。

不自然なのです。この不自然な解体と再構築に我々は毎日遭遇しています。工事現場。それは日常ではあるが、<過去-現在-未来>の時間の感覚が異化され、不思議なノスタルジーを感じ取らせる空間。渋谷駅西口の壮大な解体の現場に立ち止まって暫く見入る人々は、何かを感じている。

渋谷〜原宿へ抜け、表参道との間にあるGYREというユニークな商業施設に存在するGYRE GALLARYで行われたこんな展示があります。

テクノロジーの驚異的な進化は、私たちの理解の範囲を超え、しばしば「不気味さ」を伴う存在となりつつある。20世紀の心理学者ジグムント・フロイトが「不気味なもの」として言及した、見慣れたものが一変して異質に感じられる現象は、AIやバイオテクノロジーが日常生活に深く浸透した現代の芸術に強く現れている。本展では、この感覚を「技術崇高」と呼び、香港の思想家ユク・ホイやフランスのキュレーターであるエレーヌ・ゲナンの考察と共に文脈化し、私たちの感性を問い直す。

高橋洋介(共同キュレーター)

このギャラリーは都会人の感性を鋭く刺激する批判力の高いテーマが毎回設定されています。「来る世界2075テクノロジーと崇高」展でも、今の人間の感覚に呼応し、その感覚をフロイトの「不気味」を引き合いに出しつつ、「崇高」をキーワードとして歴史的に捉え直すことがテーマとなっていました。
「ある未来都市では…」に続く想像的な世界に鑑賞者を引き込みつつ、「歪なキメラ」(アンドレア・サモリー)、「複眼の怪物」(井田大介)、「極限的に抽象化された人工物」(牧田愛)、「人工子宮」(イオナ・ズール)などを通じて個人の制御の及ばない技術への畏怖に対し、まさに「新たなコミュニケーション間のプロトコルを起動させ、パブリックな意思決定のイメージに介入するアーティストたちのメッセージを発信」(飯田髙誉=本展企画者)する展覧会でした。

外を見ても、渋谷はやはり今でも若者が集まる場所であります。この街は若者が自分の才能とセンスだけでやったるという気持ち、ファッションからITまであらゆる初期衝動が集まった場所でした。
ミヤシタパークの鉄のツインアーチ(Panasonic設計・施工)は、将来そこに植物が生え緑の天蓋になる予定ですが、現在これをミヤシタパークに立って観ると、駅前の巨大ビルの景色と、そこでスケートボードをし、配信を楽しみ、下校中そこのスタバに寄り道しておしゃべりをする中高生たち、二つの相容れないランドスケープを繋ぐミライ的な鉄のアーチ状のモチーフに見えます。しかしサイバーパンク感はなく、なぜか周囲のビルと公園が不思議と調和している。この不思議な調和は、みやした公園ひいては渋谷が培って来た、ひた向きに自己表現する人とシステムの絶妙な関係性のためなのかななどと感じます。

筆者撮影 (何となく撮っていた動画のスクリーンショット)
筆者撮影(同上)
筆者撮影(同上)

現在、やたらと増えている高層階のオフィスでも普通に中高生が潜入していたりします。そこで行われる公開講座やワークショップがあるので、ふつうに来たのです。
新たな感性が生まれるのでしょう。
高いところ、壊れたところ、空中通路、どこであっても舞台装置を見つけ、捉えた経験を集合的なエクリチュールの余白に書き込みたいものです。それは風景として昇華し、未来の表現に影響していくでしょう。ノスタルジーは書く者にとって付きものですが、それは単なる過去にだけあるわけではないと思います。未来の若者の記憶、技術的崇高、、この記事が扱ったものだけでも我々は別なる感性を垣間見ることができました。…。

筆者撮影2025.02.24

少し、脱線してしまいました。

リズム

大山エンリコイサム《FFIGURATI #652》2025年 Artwork ©︎Enrico Isamu Oyama / EIOS Photo ©︎Shu Nakagawa

その中でも今回私が《FFIGURATI #652》に感じたのは、非常に明快なリズムでした。少し楽しげでもあります。
人と物の激しい流通の中にありつつ、それには流されないでいるための、自らのリズムを知っている都会っ子。そんな感じです。

2つのブロックに分かれている壁面の特徴に呼応して、一双の状態で現れたQTSは、自由に動きながらも、互いに動きを模倣し合うように、方端を並行に向かい合わせています。それにより、個々のダイナミズムが全体としては一つの調子に乗り、リズムとして現れているのです。
一つではダイナミックな動き、2つでは、それがリズムに変わるのは面白いです。

「今回のBunkamuraの壁面は東急百貨店本店の解体によって露呈しているため、フラットではなく、さまざまな要素が凹凸として混在していて複合的です。そのなかで壁面上のあるパーツが、右下から左上に向けてリズムを生み出しているように思える箇所がありました。そこで僕の主要なモティーフである「クイックターン・ストラクチャー」を、その壁面のリズムを反復するように右下から左上に、そしてさらに空に繋がるようなレイアウトで制作しました。この作品を見た人がそのまま視線を上げて、ひととき空を眺めてくれたらと思います。」

同上

実際の動機としては「壁面上のあるパーツ」がリズムを生み出しているように見えたからで、それに呼応したリズムであるようですね。
壁面上のパーツは我々には見えませんが、それまで「まっさらなコンクリート」だったものは明らかにQTSが描かれたとたんにそのテクスチャーを露わにし、あたかもQTSのための磁場を形成して待っていたかのような、そんな必然性の高い画面になっているのが見受けられます。
このように支持体の素材、テクスチャー、ひいては構造に造形的に遡ってQTSの構造をねじることで、必然性の高い強固な空間を作り上げるのも大山作品の特徴です。それが今回は明快なリズムとして結実しているのだといえるでしょう。


この壁画は、かなり多くの人の目に止まります。
あなたが見ている時、別の場所にいる他の人も多分一緒に見ているでしょう。
目の前の信号を待つ間、ちょっと空を見上げ、この作品のリズムや街の響き、今という時間の流れ、右下から左上へ空に続いてゆく広がりの中で、あなた自身の余白をしばし楽しんで、いざ自分のリズムで歩き出してみてはいかがでしょうか?



さて

しかしこの「QTS、クイックターン・ストラクチャー」とは何であるのか?
QTSは、ある形の決まったマーク、ロゴではありません。あるものを指し示す特定のサインでもない。同一性や再現性は保持されているものの、ある静的なマークではないのです。

例えば
このようなもの

Installation view from solo exhibition "Altered Dimension" Enrico Isamu Oyama, FIGURATI #444, 2022, Polypropylene sheet, mixed media 45 × 55 x 47 cm
Enrico Isamu Oyama "FFIGURATI #590" 2023 Polypropylene sheet and wood stool / mixed media Dimension variable
Artwork ©Enrico Isamu Oyama Studio

このようなものもQTSの構造による造形です。

・・・

気になりましたか?

このnoteでは以降何回かに分けてQTSを考察していきたいと思います。
このモティーフについて少しでも気になった方は、ぜひお読みくださいませ。

ではまた . ・° °  ・

Installation view
FFIGURATI #613, 2024, Polypropylene sheet, fluorescent light, pipe + FFIGURATI #615, 2024
Polypropylene sheet, fluorescent light, Artwork ©Enrico Isamu Oyama



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