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なぜゴッホ展はもやもやするのか?:感想レポート【東京都美術館】

東京都美術館で開催中の「ゴッホ展〜家族が繋いだ画家の夢〜」があまり楽しくなかった?もやもやが残る内容だったので、真面目にまとめて、感想を書いてみようと思いました。これから行く人、消化不良だった人の参考になりすぎるのですが、完全版のため時間がかかるのと、あまりポジティブな文章ではありません。しかし、愛に溢れているので、読んでいただけると嬉しいです。

また、立場としては深く考えていくと、この展覧会を構成したキュレーターの方、研究者の方、様々な考え方がありますが、基本美術展を楽しむ美術好きの”一なす”としての立場から感想を述べています。さらに、その上で勝手にこれからのゴッホ展を妄想してみようというのもあります。そこだけでもおもしろいです。【一万字】


◯楽しい美術展


そもそも、なすにきびがどのような美術展を「楽しかった」「行ってよかった」と思うかを説明したほうが、今回の感想についてわかりやすいと思ったため説明します。展覧会の内容が気になる方は飛ばし推奨です。

なすにきびは、前提として美術展・美術館に楽しみに行っています。そこに「鑑賞」や「勉強」、「知識」、「教養」、「学び直し」などの言葉はありません。教科書で見たあの名作が、死ぬまでに見たい宝が、故郷を飛び出して2-3ヶ月東京にやってくる!というお祭りが美術展です。亡くなった画家の作品だとすれば、現代で一番に画家の生命を感じられるものがそこにある、さらに当時だと実現しなかった作品の並び、「あの作品とあの作品が向かいに!?」というワクワク。作品と空間が、熱狂と感動を生む不思議な場所が美術館で、そういうとこらが一番に好きです。動き方などは違いますが、感覚としては好きなミュージシャンのライブに行くことに近く、一回一回が人生で一度きりの経験です。

あくまでもその上で「楽しい」にさらに「面白い」がのっかる美術展というのが、新しい学びや視点を発見させてもらえるというものです。「何でこの絵はきれいと思うんだろう」「この絵とこの絵は似ているかもしれない」楽しさの中で感じた疑問を、図録で補完したり家で調べたりして、納得したり新しい視点をもらう。そうすると次の美術展も新しい気持ちでワクワクする。美術館は受動的な勉強の場ではなく、能動的な体験が提供される場だということです。

展覧会のコンセプトにはじまり、作品の並びや章立てなどで、ワクワクの幅があればあるほど良い展覧会だと感じます。しかし、ニュアンスが難しいところなのが、先ほど言ったように美術展に勉強をしに行っている訳ではないので、勉強がすぎてしまうと楽しくなくなってしまいます。補足情報や、簡単には知ることのできない専門的な裏情報なら興味深いのですが、「こう見ると感動できるよ」とか「この絵はこういう絵です」と言った趣旨の文や映像が大量にある場合、教養に誘導されます。楽しさの幅がなくなってしまい、自主的なワクワクでもないためあまり記憶に残りません。研究者や学芸員の方の個性が光る一度きりの見せ方でありつつ、美術展としての自我は出さないでほしい。わがままですが、そういうワクワクの幅がある体験をくれる美術展が一番、すごかったと感じます。府中市美術館やアーティゾン美術館は、そういう幅の要素が強く、毎展覧回楽しみにしています。あと東京国立近代博物館は文章や内容的には面白いですが、流石にちょっと疲れる、覚悟のいる美術館です。いく日にちを分けないとしんどい。

◯ゴッホ展、楽しかったところ

その上でやっと、ゴッホ展について全貌解説していこうと思います。展覧会全体で見た時に楽しくなかったと言えども、オランダからゴッホがわざわざ来ているのでもちろん楽しみはありました。

・いつもの肖像画はじまりじゃない

一番興奮したのは最初の絵画作品である、ジョン・ピーター・ラッセル《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》1886年8-9月 ゴッホの肖像画です。東京都美術館では肖像画はじまりの展覧会が多く、特に直近で「キリコ展」「ミロ展」と定番ですがあれは自画像。あくまでも自分で自分を表現する自己紹介です。しかし、ヨーに「生前の雰囲気に一番近かった」と言われたこの肖像は、ゴッホ自身が自分でも見ることができていないゴッホ像が描かれているのではないか。それを最初に持ってくることが、ゴッホの周りの家族に焦点を当てるという、ゴッホの主観性から少し外れたコンセプトを持つ今展覧会にビタッとハマっていて結構好きでした。

初っ端の映像と年表は、よくあるものだけれど、個人的にノイズでした。もし、入り口入ってすぐにこの肖像画が見えたのならば、かっこいい!とテンションがあがって展覧会の感想もまだ良くなったかもしれません。

・名作はいつでも嬉しい

ゴッホの暗め農村時代の絵は、割と好きなのですが、今回来日した30点の中で他にもニッチよりのゴッホが来ています。それらも作風の遍歴が見れたり、「ふーん」という面白さはあるのですが、やっぱり目玉の作品はどうしてもテンションが上がります。

チラシやホームページのアイコンになっているのは今回の二つめのゴッホの肖像画、こちらは自画像です。展示の仕方もフロアに入るとばっと抜けた一番奥に、まるで玉座に鎮座しているようなゴッホが見えました。存在感はあったものの、位置としては一歩引いている、つまりこれも、メインのゴッホから外した視点という展覧会コンセプトそのものを表す展示の仕方とも受け取ることができます。(意識しているかわかりませんが)グッときました。

《種をまく人》もどれも名作ですが、今回来ていたやつもだいぶクールで好き。浮世絵に受けた影響はもちろん、画角が特にかっこいいです。

・ひまわりのイマーシブ

イマーシブはなすにきびは基本「つまんないー」と思う派で、今回も同じくそんないらないなーと思いましたが、少しだけ。ひまわりのズームアップでCGの地形図みたいになるのは面白かったです。また、ゴッホの自画像イマーシブも顔を構成する線が一つ一つ分解して飛んでいく様も面白いと思いました。筆致を分解していくのはなかなかありですね。別に上野にわざわざ行って見たいかと言われたら、、、

・色々な人のモヤモヤを生んだ

最後だけ、「楽しかった」よりは、「面白かった」の感想で、しかも結果論になってしまうのですが、、、今回のゴッホ展の感想は、noteをはじめ色々な場所でいろんな人が話しています。そこで気になるのが純粋に楽しかった、感動したという感想の中に、ある程度「もやもやした」という類の感想も目立っているところです。優れたコンテンツは意外と人の心を曇らせたり、評価の賛否が拮抗するなんてことがありますが、そういう意味では何か大きな力をもった展覧会であったことは確かでしょう。

「もやもや」はこの記事のように、展覧会自体に焦点をあてたものもあり、また別に「ゴッホの人生は幸か不幸か」「ゴッホは人格者か」「優れた芸術家とは何か」「画商としてのテオと、弟としてのテオ」などなど、、、
従来の美術展では簡単に発生しなさそうな、深読みによる混乱を大量に生んでいるのが、今回の美術展ともいえます。この現状の異様さは「美術好き」というより「美術展ファン」の視点としては面白いです。

ただ、先ほども言ったように面白いだけで、楽しくはありません。興味深いと言った感じでしょうか。私はこのなすにきびというnoteで、知識から生まれるこじらせ考察も面白がりつつ、本来の絵を楽しむ純粋な心を忘れたくないという形を提示しています。上で述べたようなさまざまなこじれた考察は、面白くはありますが、やりすぎると絵や画家に対する愛が曇ったり、疲れたりしてしまうのではないか、、、それ以上の何か言いしれぬ危険性を感じてしまいます。なので自戒の念もこめて、穿った脳みそが育ってしまったなーというくらいに思うようにしているのです。

ただ、自分で勝手にこじれてしまうのはしょうがないというか、独りよがりなので面白いで済むのですが、今回の「もやもや」の震源地は間違いなく、ゴッホ展自体にあるので、そんな展覧会は「美術展」としてはいかがなものか?というのが今記事の焦点です。ここからめっちゃ批判します!

◯ゴッホ展、楽しくなかったところ

・文字と映像が多い

昨今の展覧会は全て多い傾向はありましたが、限界の多さでした。特に映像は最後のイマーシブ以外は新しさもないため無意味です。先ほどの楽しい美術展についての文を見てほしいのですが、勉強しに美術館行ってる訳じゃないのでいらないです。疑問が生まれたら、調べるか、NHKの特集を見るなどして家で勉強するし、そもそもゴッホだと既知の情報が多いので、作品だけに集中したい気持ちがあります。文字と映像に場所を使われて、すべて見終わった後、作品の記憶が少なく混雑の記憶が多くなってしまいました。

「ゴッホは普段美術館に行かない人にも知られていて、絵の楽しさを知る入り口になるから、キャプションや映像で色々誘導があったほうが良い展覧会である。詳しい人は作品のみ集中すればいい。」そう思う方がいるかもしれませんが、なすにきびはそう思いません。むしろ初心者の方が今回の展覧会を美術を楽しむ入り口にしてしまうのが一番勿体無いことだと感じました。個人的には、感動を生むヒントだけ散りばめるのが美術展の役割だと考えています。楽しみ方は人それぞれとは思いつつ、美術展に訪れた人は初心者の人も詳しい人も同じように純粋に心動かされる事が重要なポイントだと思うのです。

そう考えるとコンセプト全体を批判するようになってしまいますが、今展覧会は「家族の尽力によって、現代の私たちが見れるゴッホの情熱、超感動だよね!」という動き方を美術館側が主体的に、しかも表面的にやりに行ってしまっています。もちろんその家族の協力の歴史は感動もので、それを踏まえて見るゴッホの絵も、無知の場合よりも一歩踏み込んだ感動を届けてくれます。しかし、あまり美術に触れていない、例えば「ゴッホって教科書で名前は知ってるけどいっぱい絵を見たことはないな」や「ひまわりをSOMPO美術館で見て好きだったから、色々知りたいな」といった方が今展覧会のコンセプトに触れてしまうのは、いくつかの段階を飛ばされた強制的な誘導だと思うのです。

あまり知らない状態で本物のゴッホを何回か見に行く、そこで気になったことを自発的に調べる。それが健全な美術の楽しみ方です。そもそも、画商や資料を挟んだ時点でそれは二次の情報になっており、本来は画家の絵それだけが、純粋な情報です。最初の美術体験が「勉強の上での感動」になってしまうのはあまりにも勿体無いというに他なりません。

また、多くの人の「もやもや」感にも表れていそうですが、そもそも「画商テオ」という存在が興味深くもあり、複雑すぎる存在です。「名画商」の存在は印象派であれば、デュラン=リエルというように、多くのジャンルで立役者として存在し、「彼がいなければ美術史は変わっていた」なんて言い方がされる場合も多いです。

しかし、それは「美術史」や「アート商売」を楽しむ場合であり、「美術」を楽しむにおいては本来必要のない影の情報と言っていいでしょう。人気漫画ナルトをの作者を褒めるか、編集者を褒めるか。テレビやラジオの芸人を褒めるか、放送作家を褒めるか。画商の存在というのはこの2つの例よりもさらに奥まった、いわゆるオタク向けの情報です。ゴッホについては例外で、名画商のテオは同時に実の弟であり、そこから家族に情熱が引き継がれる。しかもそこそこ有名。ゴッホを楽しむ上で、ノイズと言えばノイズなのに、感動物語として十分楽しめる。なかなか絶妙な立ち位置です。

「まっさらな状態で見る本物のゴッホ」と「家族のことを知った上で見る本物のゴッホ」で得られる2つの感動はものが違います。本来後者の感動は人それぞれのタイミングで自発的に起こるべき事だと思うのです。何回か美術展に行き、図録を買い、特集番組や本で勉強をし、その上でゴッホの家族のことを知る、その手間のある作業を行った上での一発目の本物のゴッホ。その時に胸に込み上げる感情は何にも変え難く、誰にも奪えないその人だけのものなのです。その感動は今展覧会で感じられる感動よりも一層凄まじいものだと考えています。物語を誰かに見せてもらうより、自分で発見した自分だけの物語を読んだ時の方が感動の度合いは大きいでしょう。今展覧会は前者のような用意された感動に成り下がっている印象がありました。

一生その物語に出会うまま機会を失ってしまうよりは良い!というのはそうかもしれません。ただそもそもゴッホについて知る過程において「テオをはじめとした家族の協力」の要素はそう時間がかかることなく出てくる情報です。なにも限られた人だけが学べる専門的小ネタではありません。なのでゴッホのこの側面に一生触れる事がない人は、その人の人生には、ゴッホの人生を知る事が大きな意味を持たないでしょう。それよりも今後、誰かの感動を生むはずだった、ゴッホを楽しむ側面の一つが、今回一斉に安易な感動によりに配られてしまった事が勿体無いのです。それは言い過ぎだとしても、展覧会に行く目的をつくり、美術を楽しむ一種の技術(順当な楽しみ方)を習得する機会を奪う場所であったことは間違い無いでしょう。

先ほどテオの絶妙な立ち位置について触れました。加えてそもそも画家・ゴッホ本人にとって今回の家族の特集は、真正面に喜ばしいものではないと言うことも出来るでしょう。ゴッホという人が現代の人気の高さや美術史に与えた影響により、もはや偉人の域に達しているのでしょうがない要素ではありますが、、、

・印象派を取り入れた独特の画風
・画面の力強さにも現れる情熱
・日本への憧れ
・他の画家への憧れと交流
・病や自らの性格による不安定さ
・ピストル自殺(?)37年という短命
・その後の家族と死後の評価(今展覧会)

一人の画家としてわかりやすい楽しみ方の側面がここまでの数あるのは、ゴッホだけと言っても過言ではありません。しかし下3つの要素は、ゴッホが生前有名になったとしても、触れられて嬉しい部分ではなかったと言えるでしょう。下の3つはゴッホが夢半ばで死んだからこそ、人生の物語を俯瞰して見て楽しめるのであって、ゴッホの作り出した画面を真正面に受け取る行為と、また種類が違うものです。画商の存在が前面に出てくるというのも家族とは言えども特殊なことだと思います。アーティストへ向けられる評価というのは何のジャンルにも関わらず、生前と死後で内容や種類が変わる。それは全くもって正常なことでしょうがないのですが、今展覧会のコンセプトはある意味でゴッホの人生に触れているようで、ゴッホの人生をある意味で無視している、その意識はあった方が誠実な向き合い方であると思います。

以上の理由から、前提として今展覧会のコンセプト自体が初めてゴッホを見る人にはお勧めし難いです。しかし、人気の高さによる過去の展覧会の多さ(被り回避による新鮮さ)、名前を冠した美術館の存在から、ゴッホだからこそ一つ展覧会が成り立つという特殊な結果でもあります(もう一つのゴッホを多く持つ美術館、クレラー・ミュラーに関する特集も近年あったし)。そうだとしても美術展と比べて、感動の種類が物語の要素が大半であるので、「美術展覧会」ではなく、「美術ドラマ展覧会」という名前ならしっくりくるというか、適しているといった内容でした。

・家族なのかゴッホなのか

今回はコンセプト自体はとやかく言ってもしょうがないので飲み込んでみます。(展覧会前にはなんとなく飲み込んでいた状態)その上で「ゴッホ美術史ドラマ展覧会」として楽しもうとしても、なすにきびの感想は微妙でした。「美術史ドラマ展覧会」であればそこに新しさを持たせて、振り切った形にして欲しかったというのが本筋の感想です。

まずひっかかったのは視点が誰なのかということ。今展覧会は題名の通りゴッホの夢と情熱が「ゴッホ→テオ→ヨー→フィンセント・ウィレム」という流れで受け継がれた物語を、全て追う大河的構成にしたかったのだと思います。しかし、ゴッホの作品は30点と少なめで、ゴッホの情熱や憧れに自体の情報、ゴッホ美術館のコレクションの収集と言った情報が渋滞しているような印象を受けました。流れのつながりを意識するがあまり、ごちゃついているような感じです。一番核になるはずの家族の物語が、コンセプトとしてがっつり残るかと言われれば、「人による」といったレベルです。「ワクワクの幅が少しでも残っている」という考え方もできますが、「家族の物語」と銘打つ以上、1から100まで一貫して物語装置としての役割を果たした方が綺麗だったのではないか、そう感じました。

・新しいようで新しくない

画家ゴッホの人気と名声に、画商一家の存在が多かったということは先ほども触れたように、さして踏み込んだ視点と感じません。また、ミレーなどに影響を受けた農民の生活を映し出す視点、浮世絵や版画の影響、これらも少し本を読んだり、検索するだけで知ることのできる情報です。目新しさも大してありません。さらに美術展的に言えば、テオの存在に触れる展覧会は過去に日本にも存在しました。

今展覧会ではゴッホの情熱を「繋ぐ」「家族」という視点が日本初のコンセプトであるという点も押し出されていました。しかし、完全にその要素に踏み込む構成ならばそういった新しさを感じたかもしれませんが、実際は上で述べたように他の要素についてが言及も多く、全体の感覚として「従来のゴッホ像+家族に関する小ネタ」という期待を下回るものでした。初心者の方にお勧めし難い内容ということを先ほど述べましたが、その結果の上で得られるほど、ゴッホ好きを唸らせる、納得のいく目新しさも感じることができませんでした。

・イマーシブの新しい視点

これは未だイマーシブ最新技術に慣れていないという、個人的な好みも含まれていますが、、、イマーシブで得られる新しいアートの見方といったことはどういう要素なのでしょうか。私はゴッホについて、情熱や感動、時には彼の人間性の難しさが手に取れるキャンバスの中に集約されていることに魅力を感じています。目とキャンバスの間に発生する異様な磁気が好きなので、あまりイマーシブで没入体験をしたいとは思いませんでした。

視覚による癒し効果が大きいモネの睡蓮や、デザイン的にも楽しめるクリムト、迫力があって漫画らしさのある北斎、彼らの絵がイマーシブになって楽しい感覚は共感できます(値段が高いので、あまり行きません)。しかし、ゴッホのイマーシブで得る感覚と言うのは、少し野暮というか、必要な行為なのか?という疑問があります。花びらがやカラスが動いたところで、別に面白くないし。

ひまわりにズームアップしてCGの地形図のように見える演出は好きでしたが、少し変わった絵の楽しみ方ですし、絵の具の立体感を感じるのには大塚国際美術館の陶器複製などでも十分に感じることはできるだろうと思いました。嫌いとまではいかないですが、今後ミケランジェロやピカソでも同じようにとりあえずイマーシブにしていくのかな?という違和感は拭えません。

さらに今回の展覧会において最後にイマーシブを持ってきてくる意味はなんなのでしょうか。「ゴッホの情熱は、家族の手から最新技術によって、さらにこれからの未来へーー」といったニュアンスなのでしょうか。どれだけ面白いと感じるとはおいておいて、今回の展覧会でのほとんどの文と映像が、絵画作品を多く持ってこれなかった故の展覧会のボリュームの心許なさを、とりあえず物語で埋め尽くそう、そういうネガティヴな理由の工夫を感じざるを得ないというのが正直な感覚です。

感動物語は先ほども言ったように、NHKの番組で全て補足可能なもので、上野の展覧会でわざわざ本物の作品と織り交ぜるメリットを全く感じませんでした。文章や映像を飛ばせばいいというのは結局間違いないのですが、文章や映像が、大勢の人のインプットに対する時間の浪費も含めた全く意味のない混雑を生んでしまっていたのです。なんなら会場全体の長さが短く、コンパクトにまとまっていた方が、「短くて拍子抜けだけど、なんかすごかった!」と感じられたのではないか、そこまで思いました。

◯こうだったら楽しかったかもしれない

・ファン・ゴッホ美術館展

個人的な妄想の域を出ませんが、渋滞している多くの情報は、全てヴァン・ゴッホ美術館の所蔵作品によるゴッホ展だという設定を前面に押し出していれば、情報が整理されると考えられます。章ごとに大枠の説明をするだけで、とりあえず浮世絵や他の画家の作品を並べます。それにより「なんでヴァン・ゴッホ美術館なのに浮世絵?」「なぜヴァン・ゴッホ美術館展でゴッホの絵がなかなか出てこないの?」という疑問から入ることができるので、ゴッホの家族の協力をベースに遂にできた美術館であるということが綺麗に飲み込みやすいのではないでしょうか。手紙の文言などは、確かにゴッホと家族の繋がりを示す、生きた情報ではありますが、絵の解説とは区切りをはっきりさせてほしいなと思いました。

映像の場所があるのもしょうがないとしても、NHK的映像の代わりにゴッホ美術館の館長が喋っている専門的な視点の解説動画を流すとか、フィンセント・ウィレムについての実際の映像(あるかわかりませんが)などがあった方がヴァン・ゴッホ美術館現地にも行きたくなるような、興味深い内容になったと思います。

・ゴッホの視点なし

ゴッホ家族の物語を新しさとして押し出すなら、ゴッホ側の視点は完全に無くしたほうが新鮮だったのではないか、と強く感じました。「テオから見たゴッホ」「ヨーから見たゴッホ」「ヴィンセント・ウィレムから見たゴッホ」という視点という外からの矢印によって、画家ゴッホの概形を捉えるという手法が徹底されている展覧会こそ、今まではないのではないでしょうか。手紙もゴッホ側ではなく、テオ側から送ったものに限定するなどして、画家の視線を一切無くしてまうということをできるのはゴッホのみでしょう。

・完全物語仕立て

今回の音声ガイドはゴッホ、テオ、ヨーのボイスドラマのような形式だったそうなのですが(今度借りてみます)、せっかくだからそのテンションで展覧会を全て構成して欲しかったという気持ちもあります。映像も勝手にテオとヨーのアニメーションにしてみたり、ミニキャラなどを勝手に作ったり、NHK的ドラマ仕立てではなく、今展覧会のみのオリジナルの物語(NHKで言うならねこのめ美術館みたいな?)を展開されていたら、「美術展が遂にこういう形になったか、新しい!」という面白さは感じることができたでしょう。

権利や諸々の関係で上のような演出が無理だとしても、「家族のつないだ画家の夢」という宣伝文句なら、もう少し美術史観や、絵画分析の視点を捨てて、物語に振り切っていたら面白いと思ったかもしれません。

◯勝手妄想ゴッホ展

おこがましいですが、このゴッホ展面白いんじゃないかなーと勝手に妄想してみました。基本的に今回貸し出された作品と同じ内容で考えてみます。

・ゴッホが死んだ!展

個人的に考えていて「ゴッホの視点が0」と言うのが面白そうと思っていたので、こんなのはどうでしょうか。少しショッキングなので題名は考える余地ありですが、「ゴッホが死んだ」と最初物語的に言ってしまいましょう。そうすればそこから家族の物語の流れが自然であり、感動も生まれそうです。

イマーシブも最初に持ってきちゃう。ひまわりや黄色い家、いろんな絵に没入させた後で最後に晩年の《カラスのいる麦畑》のカラスはテキトーに動かせとけばいい。ラストはピストルで多少ショッキングに!

兄 フィンセント・ファン・ゴッホ が死んだ

そこからの構成はもちろんゴッホの絵やゴッホ美術館が収集した絵を展示するわけですが、美術史観は出来るだけ抜きます。

「兄は、極東の日本に憧れていた・・・」
「この絵の輝きに憧れ、アルルにそれを重ねていた・・・」

と言う回想視点で話が進みます。その後も

「この絵が生前の義兄の印象をよく表している気がする・・・」
「私が生まれた時この《花さくアーモンドの木の枝》を送ってくれたらしい・・・」

ヨーとフィンセント・ウィレムから見たゴッホ、という外から向けられるゴッホ像の紹介を徹底します。テオとヨーのビジネス面もさらに踏み込んでみたりすると面白いかも。

ゴッホの喪失感からの家族の絆で感動も表面的には生みながらも、誰も本当のゴッホを知らない、という悲しさを感じる人もいるかもしれません。さらに生前認められなかった画家が、死後評価を受け、国に作品が買われるという「画家としての幸福」「人間としての幸福」にも迫る深い誘導もすることができるかも!?

そういう幅を持たせつつ、表面上はゴッホが死んだから始まる不穏と悲しみと感動の物語を展開できるのがこの「ゴッホが死んだ!展」です。
原田マハさんのようなミステリー調にするのもあり。
そして音声ガイドを研究者のニッチな解説にするという逆っちゃ逆の構造にしてみたり。

◯ゴッホの好きなところ

色々言いましたが、まとめると

コンセプト的にはゴッホの展覧会が新しい視点に移ってきたと感じ、そういう新しさを提示するなら、違和感なくガッツリやってほしかった。思っていたより中途半端だったので楽しくない

という感想でした。
とは言いつつ、そりゃあゴッホの作品の変遷や、他の収蔵品の紹介という内容なので一定の面白さと満足は保証されています。色々なことに目を瞑れば楽しむことはできます。

なすにきびがゴッホをどのくらい好きかというと、結構好きではあるけれど、自分の美術好き遍歴でいうとそこまで重要な位置にはいない、人並みくらいかもしれません。モネら印象派の方が好きです。ゴッホ展でテンションめっちゃ上がるというより、ごちゃ混ぜ西洋美術展覧会の時に、鮮烈な色彩の画面が唐突に表れた時、「うおぉー」とグッときます。そんな異様さの光ゴッホが一番好きです。
時代の中でもそんな感じだったのかな。突然の落雷みたいな。ゴーギャン、セザンヌよりグッとくる熱が強い。

夜のカフェテラス来日の「大ゴッホ展」が楽しみ。

めちゃくちゃ長いのに最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。行った方は感想いただけると大変参考になります!

おわり


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なすにきび...勝手美術 偏った美術愛ですが、面白いなと思っていただけたら、いいねフォローなどよろしくお願いします。大変はしゃぎます。