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啄木の知らない戦争|終章 城址の草

 冬が終わると、盛岡の草は戻ってくる。

 颪が緩み、岩手山の雪が解け始めると北上川が増し、城址の石垣の下に枯れた茎の根元から淡い緑が戻ってくる。毎年そうだった。戦争の前も、戦争の間も、終わった後も、草は春になれば戻ってきた。石垣の石は江戸時代から動かず、颪が来る方向も変わらず、北上川が流れる向きも変わらなかった。人間だけが変わり、変わった人間がまたこの草の上に来て、空を見た。

 かつて、この草の上に寝転んでいた少年がいた。

 盛岡中学の生徒で、十五か十六かそのあたりの少年が、城址の草の上に仰向けになって空を見上げ、言葉になる前の何かを感じていた。その少年が何を書いていたかを後に知る者は多くいたが、草の上の少年自身は、自分が書いたものがどこへ届くかを知らなかった。届くとも思っていなかったかもしれない。ただ書かずにいられなかった——そういう人間がいた、ということだけが、この城址の草の上の事実だった。

 少年は二十六歳で死んだ。明治四十五年のことだった。

 それから長い時間が経った。その時間の中で、少年と同じ校庭にいた人間たちが、それぞれの場所でそれぞれの仕事をした。誰一人、校庭にいた頃に自分がどこへ行くかを知らなかった。知らないまま、それぞれの方向へ歩いた。

 少年の書いたものは、残った。

 少年は書くことしかできなかった。書かずにいられないという衝動が、この少年の全てだった。その同じ衝動が、盛岡の校庭から出ていった人間たちの中にも、それぞれの形で宿っていた——艦の甲板で少年の言葉を口の中で繰り返した者がいた。戦地から手紙に書き写した者がいた。字の薄れた便箋に、少年の歌を書いて、本土の家族に送った者がいた。夜の研究室で辞典の原稿を書きながら、引き出しの底の古い紙を取り出した者がいた。

 少年は知らなかった——自分の書いたものがどこへ届くかを、誰かの中で何かが続くかを、知らなかった。それでも書かずにいられなかったから書いた。その衝動だけが、盛岡の校庭を出た人間たちの間に、言葉にならない形で繋がっていた。

 流れていることを、本人は気づかなかったかもしれない。気づかなくても、流れていた——そういうものが、言葉の底にはある。

 盛岡中学の校庭から出た人間たちが、それぞれの場所でそれぞれの仕事を終えていった。海軍大臣として終戦に関わり、釧路の牧場でプーシキンを読んで逝った男がいた。満洲に夢を持ち、法廷で向き合い、盛岡の颪を思い出しながら巣鴨の夜を過ごした男がいた。太平洋の向こうで言葉を積み上げ、廊下まで来て本会議に届かなかった男がいた。炉の前で生涯を過ごし、報告書の末尾に「炉の補修は来月中に」と書き残して逝った男がいた。江戸の市井で二十六年間平次を歩かせ続けた男がいた。北の島々で消えかかっている言葉を書き留め続けた男がいた。そして城址の草の上に寝転んで、言葉を書かずにいられなかった少年がいた。

 それぞれの生涯は、交わらなかった部分の方が交わった部分より多かった。しかし根の一部は同じ土にあった。盛岡の土、南部の颪、岩手山の立つ方角——そういうものが、それぞれの体の中の見えない場所に根を張っていた。遠く離れても、根は残る。根が残るから、颪の方向だけは分かる。颪の方向が分かる限り、どこへ行っても帰る場所が体の中にある。

 少年が書いた言葉は今も生きている。読む者がいる限り生き続ける。読む者がいなくなっても、どこかに書かれている限り生き続ける可能性が消えない。それが言葉というものの、死なない部分だった。

 城址の石垣の下に、今年も草が萌え出している。枯れた茎の根元から淡い緑が戻り、石垣の石は変わらず、草だけが冬になれば枯れ春になれば戻るという繰り返しを続けていた。その繰り返しを、かつて草の上に寝転んでいた少年も見ていた。見ていたはずだ。この城址で育った人間は、この草と颪と岩手山と北上川を見て育つ。見て育ったものが、その後どんな遠い場所に行っても、体の中の何処かに残る。

 颪が来た——北西の岩手山の方から春の颪が来て、城址の草が風に従いながら揺れた。少年が生きていた頃の颪と同じ方角から、同じように草を揺らして、風は北上川の方へ流れていった。

 岩手山は、その春も盛岡の北西に立っていた。少年が生きた頃も、戦争が続いた頃も、今もそこにある。変わらないものが変わっていくものの傍らにあり続けることで、変わっていくものは自分がどこから来たかを知ることができる。岩手山は、その役割を、人間の歴史よりはるかに長い時間、担い続けてきた。これからも担い続けるだろう。人間が変わっても、岩手山は変わらない。颪は今日も北西から来る。

  己が名をほのかに呼びて涙せし
  十四の春に かへる術なし


(終章 了)



本シリーズはマガジンにまとめています。
全五章+終章です。
https://note.com/long_dietes7789/m/mc8c90ca2ec70

他の作品
【短編連作】華と修羅が日常 — PRパーソンの告白
https://note.com/long_dietes7789/m/med124fa32fff


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