近代日本の産声と最後の内戦の傷跡/西南戦争の銃弾跡
「鹿児島(鶴丸)城跡」に通りを挟んで隣接する「私学校跡」の石垣には、西南戦争の生々しい傷跡が残っています。現在は「鹿児島医療センター」の敷地になっており、観光目的で駐車するのは気が引けますので、「西郷隆盛像」の前にある地下駐車場に車を留め、徒歩で移動することにしました。
徳川慶喜が行った「大政奉還」は、政権こそ朝廷に返上するものの、諸侯会議を開いて自らが新しい政治の中心に座り続けようとする、高度な政治的駆け引きでした。これに強い危機感を覚えたのが西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視らです。「これでは本質的に何も変わらない」と考えた彼らは、武力で徳川家を完全に排除することを決意。西郷らはクーデター「王政復古の大号令」を起こして徳川家の領地と権力を一方的に剥奪しました。これに激怒した旧幕府軍との間で勃発したのが「戊辰戦争」です。鳥羽・伏見の戦いから始まったこの戦争は、江戸(上野)、会津(福島)、箱館(函館)へと北上し、旧幕府勢力を完全に掃討するまで続きました。
戊辰戦争が新政府軍の勝利で終わり、ようやく新政府が誕生したものの、今度は日本の近代化を巡って仲間割れが起きます。明治新政府は、四民平等を進めて武士の特権をすべて剥奪。さらに、西郷が主張した征韓論(朝鮮半島への開国要求)が政府内の政争で却下されたため、彼は下野して鹿児島へ帰郷します。特権を奪われ、生活に困窮し、新政府への怒りを爆発させる全国の不平士族(元武士)たちのカリスマとして、西郷は神輿に担ぎ上げられる形で「西南戦争」へと突き進むことになります。
戊辰戦争では最強を誇った薩摩の武士たちですが、西南戦争における新政府軍との戦力・兵器の差はもはや絶望的でした。新政府軍は、皮肉にも西郷たちが作った「徴兵制」によって集められた平民の軍隊でした。「百姓の軍隊など恐れるに足らず」と突撃した薩摩士族でしたが、新政府軍が手にする最新銃器の圧倒的な連射力と無限とも思える物量の前に、薩摩の強力な剣術も近づくことすらできず、次々と倒れていきました。終盤には弾薬も底をつき、刀を手に斬り込むしかなくなった西郷軍は、じりじりと城山へと追い詰められていきます。
かつて自分が新政府に導入した最先端兵器や軍隊によって、今度は逆に自分たちが追い詰められていく。薩摩が蒔いた近代化の種は、明治新政府という巨大な大樹となり、皮肉にもその生みの親である薩摩の士族たちを吞み込んでいったのです。私学校跡の石垣に無数に刻まれた西南戦争の銃弾跡を目の当たりにしたとき、近代兵器と物量の圧倒的な格差という残酷な現実を突きつけられた西郷さんの無念さが、より一層リアルに胸に迫ってきます。






2026.01
