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寛永寺の中の庶民のために建てられたお堂/寛永寺 清水観音堂

上野の山のシンボルである寛永寺は、京都の鬼門の方角を護ってきた比叡山延暦寺にならって、徳川家康の参謀といわれていた天海大僧正によって建立され、東叡山寛永寺の称号を得て徳川家の菩提寺になりました。不忍池は琵琶湖に、小島は竹生島に、不忍池弁天堂は竹生島の宝厳寺に見立て建立されました。現在の上野公園のほぼ全域がかつては寛永寺の境内で、最盛期は約30万坪、上野公園の約2倍の面積だったそうです。
不忍池弁天堂から上野の山に向かい、階段を上ったところにある舞台をもつお堂が清水観音堂です。寛永寺は将軍家の菩提寺であった為、一般人の出入りが厳しく制限されていました。1631(寛永8)年、天海大僧正は幕府の意に背き、寺の中に庶民が集う場所として自費で清水観音堂を建立しました。舞台からは不忍池に浮かぶような弁天堂が眺められます。歌川広重が描いた「月の松」が観音堂の舞台前に復元されています。
幕末、寛永寺は上野戦争の戦場となりました。上野の山に立てこもった徳川慶喜の警護部隊「彰義隊」と、それを包囲した薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍との間で起きた戦いです。大政奉還の翌年の1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗れ、慶喜は大阪城を脱出して上野の寛永寺で謹慎していました。新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟の会談により、慶喜の水戸謹慎と江戸城の無血開城が決定され江戸総攻撃は回避されましたが、新政府軍は「彰義隊」が立てこもる上野の山を攻撃。戦いはわずか半日で新政府軍が勝利しましたが、寛永寺の建物は次々に焼けて失われました。また寛永寺は「彰義隊」をかくまったとしてすべての境内地が新政府に接収され、その大部分が後に日本初の西洋式公園として上野公園となりました。寛永寺に戻ってきた境内地は最盛期の10分の1ほどです。上野戦争によって「彰義隊」は壊滅しましたが、一部の敗残兵は会津戦争、箱館戦争を戦い、最後は五稜郭で全滅、一連の戊辰戦争は終結しました。

2022.03


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