なぜ平日のファミレスにジジイはいないのか?
先週、妻とランチに出かけたら近所のファミレスに出かけたら、店内は見事に女性軍団だらけだった。ぐるっと見渡せど、周りはどこも女性3〜4人組。男は俺一人。
あれ?ジジイたちはどこ行った?と叫びたくなるような状況だった。
シニア男性は定年後、自由に好きなことをして暮らしている。世間ではそう言われている気がする。だが、少なくとも昼飯に関しては、この説はだいぶ怪しい。
さて、世のジジイは平日のお昼はどうしてる?という疑問符が頭の中で飛んでいた。
半径2キロに飲食店が50軒の激戦区なのに
気になって、自宅から歩いて行ける半径2キロ以内の飲食店をざっと調べてみた。我が家の近くは駅から離れているのだが、なぜか国道沿いに飲食店が非常に多い。ファミレス、ラーメン、回転寿司、うどん……ざっと50軒ほどある。ファミレスだけでも10軒あり、ランチは選び放題という、なかなかリッチな立地である。
ところが、平日の昼にファミレスを覗くと、ジジイがほとんどいない。試しにスシローへ行ってみた時もいない。吉野家だけは別格のようだが、あそこにいるのはジジイでなく現役の人たちだ。昼食時間が短いのでお昼をかき込んでいるのだろう。
スシローで見た、皿の高さという格差社会
そのスシローで、もう一つ発見したことがある。皿の高さが、見事なのだ。女性たちのテーブルを見ると、昼間なのに皿がタワーのように積み上がっている。あの食欲パワーには素直に圧倒された。こちらは5皿も食べれば十分満腹で、白旗を上げる。
ただし、こちらにも作戦がある。量で勝負できないなら、単価で勝負。200円の皿ばかりを黙々と頼み、心の中でひとり優越感に浸るのだ。「量より質、いや、量より優越感」。誰にも褒められないが、200円の色の違う皿だけを食べるというのも、これはこれで満足度が高い戦い方である。
誘えば来る、だが自ら動かない問題
なぜこうなるのか。ちょっと考えて見た。女性は「会うこと」自体が目的になる。「久しぶりだからランチでも」で成立する。だが男はそうはいかない。何かお誘いがないと、体が動かないようにできている。
もっとも、誘いの種類によって反応速度はまるで違う。釣り仲間から「今釣れてるよ」と連絡が来ると、こちらは即答である。考える余地などない。呼んでいるのは魚なのだ。時合を迷っている暇はない。
ところが、これが妻からの「一緒にランチどう?」になると、なぜか一瞬考えてしまう。行った方がいいのか、ただ気を使ってくれているのかと、頭の中で謎の会議が始まる。魚には即答できるのに、妻には一瞬迷う。この違いは、我ながらどう説明していいか分からない。
現役時代は毎日のように同僚と昼を食べに行っていた。一人で食べるのが嫌だっただけだ。会社という舞台が消えた途端、誘う相手も誘われる理由もなくなった。
かくいう私も、もし妻のお声がかからなければ、家で一人、カップラーメンをすすっていたと思う。「今日はあそこ行こう」の一言があるだけで、外に出る理由ができる。ありがたい話だが、少々情けなくもある。
祭り姿を見ただけで、疲れが分かる
もう一つ気づいたことがある。今日は近所の神社のお祭りだ。太鼓の音が家まで聞こえてくる。だが、行く気がしない。
昔なら、祭り姿の人とすれ違っただけでこちらまでテンションが上がった。今は、「あそこは混む」「暑い」「立っている時間が長い」まで一瞬で計算が終わっている。ミカン飴も焼きそばも、正直もう食べたいと思わない。祭りの入り口に立つ前に、もう祭りが終わった気分になっているのだ。
これを「年のせい」で片付けるのは簡単だが、正確には「先が見えすぎる」せいだと思う。経験を積むと、行く前から疲れる場面まで再生されてしまう。便利といえば便利、余計なお世話といえば余計なお世話である。
ちなみにこの現象、ちゃんと名前がついているらしい。「センセーション・シンキングの加齢低下」というそうだ。要は「新しい刺激を求める気持ちは、歳とともに下がる」ということらしい。私のワクワク不足は、統計的にちゃんと予測済みの、ごく普通の現象だったわけだ。名前がついた途端、なんとなく威張れる気がしてくるのだから現金なものである。
若い頃なら「夢の国だ!」でディズニーランドに突撃し、帰ってからもイッツ・ア・スモールワールドが一日中頭の中で鳴っていた。今は「帰りの渋滞しんどそうだな」が先に来る。最後にディズニーへ行ったのは子供が小学生の時。指折り数えると、かれこれ20年は行っていない。ついでに告白すると、ディズニーシーには一度も行ったことがない。ジジイだと思われたくないので、これはあまり人には話せない。
わがままなのか、選ぶ権利なのか
先日、娘に「お父さん最近わがままになったよね」と言われた。祭りがあっても行かず、旅行も混んでる時期は避け、外食も気分が乗らなければ断る。娘からすればワガママに見えるらしい。
だが本人としては、「わがまま」というより「選ぶ権利を取り戻した」感覚に近い。現役時代は、付き合いだから、家族のためだから、と「必要」を理由に時間を使ってきた。
定年後、初めて「これは自分にとって楽しいか」を自分に聞けるようになった。庭いじりでも釣りでも、選んだ結果が今の自分の時間になっている。胸を張るほどのことでもないが、少なくとも他人のせいにはできない生き方ではある。
娘には「わがままじゃない、選んでるんだ」と言い返したが、目が笑っていなかった。分が悪い戦いだった。
ここまで遠回りしてしまったが、ファミレスにいないジジイはどこ行ったか?である。誘ってもらえないからジジイはファミレスにいないのであろう。趣味の遊び場で済ましているのだろうという、ただの推測に過ぎない結論のようだ。
定年後に本当に必要なのは、お金でも時間でも達観でもなく、「今日、昼飯でもどう」と気軽に誘ってくれる相手なのだと思う。私の場合、それが妻だったというだけの話だ。
その妻いわく――
「200円の皿ばっかり頼んで喜んでるの、傍から見たら一番わがままな年寄りじゃない?」
著者について 研究員として仕事をして気づけば40年。昨年、63歳で定年退職して1年が過ぎた。このブログは元研究員の視点から感じる勝手なひとりごとである。
