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最後の、苺フラッペ|#7|優しい嘘②|(全12話)|恋愛小説部門

第七話
五章 優しい嘘②


「お待たせいたしました。サマーアフタヌーンティーセットでございます」

ワゴンで運ばれてきた三段のスタンドには、メロンや桃、旬のフルーツのジュレ、スコーンやサーモンサンドが美しく並んでいる。
「すごーい。私、初めて……」
「僕もだよ」
「流星くん、楽しそう」
「シャンパン飲んでも帰らなくていいから最高〜」
僕たちは三段のお皿をあっという間に完食してしまった。部屋には戻らず、二人で庭を歩く。酔い覚ましにちょうどよかった。
「サプライズをありがとう。でも私のために無理してる?」
「そう見えるかな。喜ぶ顔が見たい、それだけだよ」

部屋に戻ってソファにもたれていると、陽菜さんの指が僕のうなじに触れた。
「流星くん、一緒に露天風呂入ろ」
その一言で、酔いも冷める。
入るまで目を瞑ってて、と陽菜さんに言われ通り目を閉じたまま湯に浸かっていると、お湯が揺れて、彼女が入ってきたのがわかった。
「お待たせ」
「なんか、照れるね」
湯の中で触れた肌が、思っていたよりも近くて、体を離す理由が見つからなかった。
唇が重なる。それだけで、十分だったはずなのに――
離れたあと、まだ息が乱れていることに気づいた。
「……また後でね」
陽菜さんがそう言って先に湯から上がり、僕だけに残された熱が、簡単には引かなかった。

ディナーまでの間、陽菜さんは外のテラスで何か書き物をしていた。僕はベッドに寝転び、その静かな横顔を視界の端に置きながら、うとうとしていた。
彼女の気配に守られるように、いつの間にか深い眠りに落ちていたらしい。すっかり日が暮れて、予約していたディナーの時間が腕の液晶に映った。一時間近くも眠ってしまっていたことに気づき「おっと」と慌ててベッドから身体を起こす。

それから滑り込むようにして座ったディナーの席。目の前に並んだ黒毛和牛のグリルを、陽菜さんは豪快に平らげていく。その飾らない姿が微笑ましくて、自分のフォークは置いたまま、ホテルお勧めのクラフトビールを飲んでいた。
「なんか笑ってる?」
「可愛いなって。陽菜さんを食べちゃいたいくらい」
「後で食べるでしょ。流星くんはもう酔っちゃったの? 昼からずっと飲んでるね」
「今日、大胆じゃない?」
「そう? 仕事から解放されてリラックスしてるもん。本能のまま過ごしてるかも」
「旅行はそうでなくちゃね」
「来年はハワイかなー? ね、流星くん」
部屋に戻っても、ディナーの話題は尽きなかった。開放感あるダイニング、オープンキッチン、から漂う熱気、そして目にも鮮やかな料理たち。すべてが完璧な夜だった。
「冷蔵庫に箱根モルツがあるよ、飲む?」
ビールを二本持ってソファに腰掛けると、隣にいた陽菜さんがふわりと寄りかかってきた。でも、少し待った。

「世の中の恋人達は、こんなふうに旅行を過ごすのね」
「こんなふうって?」
「イチャイチャしてばかりってこと」
「ははっ。どうなんだろう。真面目に観光する人もいるんじゃない?」
「そうかもしれないけど……私、旅行の過ごし方も知らなかったんだなって」
「陽菜さんは、もっとイチャイチャしたいの?」
「そうじゃなくて。十年以上も、いい子やって人を見返すことばかり考えてきて後悔してるの。外側だけ大人にはなれたけど、恋もしないで何やってたんだろうって」
「それは僕もだよ。いつも一人でいることを選んできたし。だけど、後悔しても信じて。今の陽菜さんに出会えてよかったって、僕は思っているから」
「私も。……なんかビールで酔っちゃった。顔も熱いし、先にシャワー浴びてくるね」
僕も酔いを覚ますため、ベランダに出て外の冷たい風に当たった。

僕がシャワーから戻ると、陽菜さんはベランダにいた。乾き切らない髪が風に揺れている。
「東京と違って真っ暗だから星が綺麗に見えるの」
「星ってこんなにあるんだね」
「そう、満天の星」
「ねぇ、その香り……」
近づいただけでわかった。体温でわずかに湿った洋梨の匂い。

「お預けを頑張ったご褒美だよ」

僕のバスローブの紐に、細い指がかかる。僕だけ、いきなり肌が露わになった。

「陽菜」

我慢できず僕から唇を重ねると、彼女はためらいなく息を漏らした。
抱き寄せた細い体が、逃げるように、なのに縋りついてくる。
「流星くん、いつもと違うことがしたい」
「そんなこと言ったら、僕、止まらなくなるよ。……いいの?」
陽菜さんは答えなかった。ただ、強く抱きついてきた。
何かを振り払うように、僕の名前を繰り返す。声が、少しずつ崩れていく。
一瞬、目を伏せた。
「流星くん……もっと」
彼女の指が、僕の肩を押した。
「陽菜」
吐息と一緒に溢れた声は、自分のものじゃないみたいだった。
もう、陽菜さんの好きにしてほしかった。
細い体を閉じ込めるみたいに力いっぱい抱きしめた。離したくない。
重なり合ったまま、キスをした。熱い吐息が首筋にこぼれていく。
お互いの肌を濡らしていた熱が、時間をかけて静かに引いていった。

「……陽菜、ありがとう」
聞こえるかどうかもわからない声で、そう呟いた。
返事はなかった。もう、眠っている。
それでもしばらく離せなかった。

「おはよう。昨日はそのまま寝ちゃった。流星くんも?」
「寝顔を見ながら、いつの間にか寝てたよ」
「やだー、髪がぼさぼさ。昨日、化粧水も忘れちゃった。流星くんの前だけど、今日は頑張らなくていい?」
「そのままでいいよ。ぼさぼさの陽菜さん、好きだよ」
こっちを見ながら、子供みたいにベッドでゴロゴロしている。
「私、オレンジジュースが飲みたい」
「はいはい」
昨日、朝食をルームサービスに変更しておいてよかった。オレンジジュースを追加で頼み、サンテラスで食事をしながら今日の予定を決めることにした。
運ばれてきたオレンジジュースを、陽菜さんは一気に飲み干した。ふぅ、と小さく息を吐いて、空になったグラスを両手で包むようにして持っている。
「……なんか、変な感じ」
「何が?」
「こんなボサボサのまま男の人の前でご飯食べてるの、信じられない。流星くんじゃなかったら、絶対無理」
化粧水を探す陽菜さんのポーチの中はぐちゃぐちゃだった。
「仕事の鞄はちゃんとしてるのに」そう言うと、慌てて散らかったリップや鏡をポーチに押し込み「あんまり見ないで」と子供みたいに頬を膨らませた。
僕は、そんなことお構いなしに肩肘で頬杖をつき、いつまでも彼女を見つめていた。

ドライブしながら綺麗な景色を探して写真を撮る。これが、陽菜さんのやりたいことだった。僕は、正直なんでもよかった。お散歩でも、ベッドでくつろぐのでも、陽菜さんと一緒ならなんだって楽しい。
「この写真、私が大きすぎない? 絶対遠近感がおかしいもん」
「いつもこんなだよ。うわっ、小っちゃってこれ僕じゃん」
気を遣い合っていた身長のことも冗談にできるようになった。その分、ハイヒールを履く陽菜さんを見ることもなくなった。

二日目のディナーを終え、露天風呂に浸かる。暗闇に浮かぶ湯気を眺めながら、陽菜さんがぽつりと言った。
「三十歳の自分って想像できる? 私はどこに住んでるのかな?」
「アメリカに住んでたりしてね。先のことなんて誰もわからないよ」
漠然と自分の未来に陽菜さんとの結婚を想像している自分がいた。
言わなかった。冗談にもならない、そんな気がした。
今の陽菜さんには仕事しかない。僕だってそうだ。まだ何も成し遂げていない。結婚はその先にあるもの。自分でもわかっていた。
最後の夜は、抱き合ったまま、陽菜さんは僕に「愛してる」と何度も囁いてくれた。張り詰めていた僕の肩の力が、自然と抜けていく。
僕は、彼女の腕の中で眠りについていた。

約束だった朝のランニングを終えて、チェックアウトを済ませると、箱根方面へ車を走らせた。
「結構、本気で走ったね」
助手席で水を飲む陽菜さんの横顔を見て、僕はアクセルを少し踏み込む。神社を散策したり、足湯カフェでのんびりしたり、帰るまでの時間を夏の観光で楽しんだ。カフェのテラスで山の景色を眺めていると、陽菜さんが僕の肩に寄りかかってくる。その仕草がとても自然で僕も彼女に少しもたれかかってみる。鎌倉からの帰り、僕たちは寂しさの中にいたけれど、今は違う。この箱根でこれまでとは違う愛が深まったことで、漠然とした不安が消えていた。
僕たちの旅行は終わってしまうけれど、僕の心の中には、消えることない希望みたいなものが生まれていた。


「その店」は青山通りから一本入った路地の奥にあった。フランス語で「シエル エトワレ」という名前のタルトケーキ店。フランスのどこか田舎町にありそうな、素朴だけどお洒落な一軒家、そんな雰囲気のお店だった。

二十種類ものタルトが大きなガラスケースに並んでいる。夏休みとあって、店内は親子連れが多く賑わっていた。
僕たちが選んだのは「夏の果物のタルト」「チョコレートのタルト」「シャインマスカットのタルト」の三つ。「シェアして食べようね」と話す陽菜さんに「僕たちはシェア好きだよね」と返すと「スカイツリーの初デートを思い出すね」と嬉しそうに言った。増えていく思い出が、二人の距離を深めていく。その一つ一つが、僕にとってはかけがえのない重み。
「『シエル エトワレ』はフランス語で「星空」っていう意味なんだって。素敵でしょ」
「箱根の星空を思い出すね」
「箱根、楽しかったなぁ」
三つのタルトと紅茶が運ばれてきた。ケーキがテーブルに並ぶと、陽菜さんは目を輝かせていた。
「とりあえず半分ずつカットね。私は夏の果物から食べよっと」
「僕は、シャインマスカットかな」
「フルーツ好きの二十七歳は『夏の果物』から食べないの?」
「もう、やめて。それは僕の黒歴史だから。陽菜さんには一生言われちゃうな」
「強烈に覚えてるもん。なんか可愛いことをサラリと言ってるけど、桜木さん、顔も耳も赤いですよって、心の中で思ってた」
「本当に? 陽菜さん最低ー」
久しぶりに大声で笑う陽菜さんを見た。大きく笑うと左頬だけに現れるエクボが見えた。仕事で疲れているような気がしていたけど、いつもの元気な陽菜さんだった。

シャインマスカットの甘さに誘われて、ついつい果物だけ食べてしまう。
「流星くん、タルトも一緒に食べなきゃ。フルーツだけ食べるなんて、もしかしたらメロンパンも上の美味しいところだけ先に食べるタイプ?」
「そんな子供みたいなことしないよ」
僕は、タルトを食べた。フルーツと甘さ控えめのカスタード、タルト生地がサクサクして素朴なのに上品な味がした。チョコレートタルトは濃厚でカカオ香る大人の味。陽菜さんは夏の果物タルトが一番好きだと言っていた。
紅茶を飲んでいたが、コーヒーが欲しくなり注文した。
「流星くん、ちょっと顔色悪くない? 気分悪いの?」
「そんなことないよ。実は仕事のストレス、ほらサイトのリニューアルしてるでしょ。本社との板挟みで胃の調子が悪いんだ。前に話したでしょ。日本語が上手なマークのこと。彼、お願い上手なんだよ」
「彼か。前に聞いたよね。でもストレスは怖いのよ。胃潰瘍になったら大変」
「ちょっとごめん、トイレに行ってくるよ」
「お水もらっておくね」

陽菜さんに初めて「嘘」をついた。僕はトイレで吐いた。卵が食べられない。本当はドーナツだって。でも卵が入っていないスターライトコーヒーのドーナツだけは特別だったことを、陽菜さんは知らない。こんな嘘、つきたくなかった。
吐けば楽になる。少しすれば、いつものように笑える。そう思ったとき、陽菜さんからLINE通話が入った。
「どうしたの? 全然戻ってこないから」
「ごめん、トイレの前で会社からサイトの件で連絡があって……ちょっと長引いちゃった。同期の清水くんだよ。電話は終わったから戻るよ」
「よかった。心配しちゃった。待ってるね」
また、嘘をついた。いつかちゃんと話そう。そうだ、陽菜さんが昇進したら必ず言おう。今はまだ陽菜さんの『ご褒美』を奪えない。
鏡に映る僕は、とてもスッキリした顔をしていた。大丈夫、きっと大丈夫。そう言い聞かせて、彼女の元へ戻った。
「おかえり。顔色が戻ったね。ごめんね、流星くん。美味しいから全部食べちゃった。また注文する?」
「大丈夫だよ。逆にごめん。仕事のストレスも二月までだから心配しないで。また必ず来よう」
いつもの自分の顔に戻っていた。
箱根のホテルでは、事前に食べられないものを伝えていたし、薬も飲んでいたから、その場は凌げた。今日は無理だった。でも、なんとかなると思いたかった。嬉しそうにタルトを食べる陽菜さんを見ていたかったから。でも、ついた嘘が僕の心を蝕み、罪の意識を背負わせていく。 
僕の自己卑下の原因となった、あの記憶から目を背けることなどできなかった。


(第八話へつづく)

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