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公衆電話盛衰記――街角の声、硬貨、赤い箱

1 駅に残された空の棚

2000年代以後

駅の片隅に、公衆電話の設置棚だけが残されていることがある。電話機そのものはすでに撤去され、壁際の台だけが、少し所在なげに残っている。かつてそこには緑や灰色の電話機が並び、人びとは硬貨を探し、テレホンカードを差し込み、受話器を耳に当てていた。いまは何も置かれていない。その空白には、通信が「場所」から「個人の手元」へ移っていった時代の変化が刻まれている。

公衆電話の衰退は、統計の上では設置台数の減少として語られる。しかし、生活の記憶としては、駅の空棚や、電話ボックスの撤去跡や、商店の店先から消えた赤電話として思い出される。かつて人は、誰かと話すために、まず電話のある場所へ行かなければならなかった。その場所が、駅であり、商店であり、喫茶店であり、電話ボックスだったのである。

この小文では、公衆電話を、街角に置かれた社会装置として振り返ってみたい。そこには、声、硬貨、行列、色、緊急ボタン、そして災害時の記憶が重なっている。

2 電話が家になかった時代

明治末から昭和前期、あるいは1950年代前半まで

一般家庭に電話端末が十分に普及していなかった時代、急ぎの知らせはしばしば電報によって伝えられた。電報の言葉は短い。「チチキトク」「スグカエレ」といった切り詰められた文体には、通信費用と制度が生んだ独特の緊張があった。感情は省かれ、用件だけが残る。しかし、用件だけになった言葉ほど、かえって背後の切迫感を強く感じさせることもある。

日本の公衆電話は、1900年9月、上野・新橋の両駅構内に設置された「自働電話」に始まるとされる。[1] その後、1925年には「公衆電話」という呼称が用いられるようになった。[2] もっとも、それはまだ誰もが気軽に使う日常的な通信手段というより、公共の場所に置かれた特別な設備であった。電話は個人の所有物ではなく、電話局、駅、商店など、場所に属していたのである。

現在、電話は身体に近い。ポケットや鞄の中にあり、必要なときに取り出して使う。しかし、かつて電話は身体から離れ、街の中に据え付けられていた。人は電話を持ち歩くのではなく、電話のある場所へ歩いていった。この差異こそ、公衆電話の時代を考えるうえで重要である。

3 街角に出た電話

1950年代へ

戦後、公衆電話が街に広がる一つの契機となったのは、1951年に登場した委託公衆電話である。商店などの店先に電話機を置き、地域の人びとが利用できるようにしたものであった。[3] それは、電話局や駅だけにあった電話が、より生活圏に近い場所へ出てきたことを意味する。

電話をかける行為には、現在よりもずっと強い身体性があった。店へ行く。電話機の前に立つ。硬貨を入れる。番号を回す。相手が出るのを待つ。受話器の重み、ダイヤルを回す指の感触、硬貨の落ちる音。それらは、通信という抽象的な行為を、身体で覚えるための所作だった。

公衆電話は、声を送るための公共空間であった。そこでは、個人的な用件が公共の場所で処理される。家族への連絡、会社への報告、恋人への電話、医者や警察への相談。公衆電話の前に立つ人は、それぞれ異なる事情を抱えていた。公衆電話とは、街角に設けられた、小さな声の交通機関だったともいえる。

4 色と場所の公衆電話

1950年代から1980年代

公衆電話の記憶は、色と深く結びついている。赤、ピンク、青、黄、緑。それらは塗装の違いにとどまらず、置かれた場所、使われ方、時代の気配を示す都市の記号であった。

商店の店頭には、赤電話があった。1953年、委託公衆電話は目立つように赤く塗られ、いわゆる赤電話として普及していった。[4] 店先の赤電話は、独立した公共設備というより、商店の暮らしと一体化した電話であった。店の人の目の届くところで、近所の人が電話を借りる。電話は商品棚や新聞、たばこ、菓子と同じように、店先の風景の一部となった。

喫茶店には、ピンク電話があった。1959年に特殊簡易公衆電話制度が施行され、通称ピンク電話と呼ばれる電話機が登場した。[5] これは一般加入電話を公衆電話としても利用できるようにしたもので、アパート、病院、喫茶店など、人の出入りの多い場所に置かれた。喫茶店の片隅にあるピンク電話には、独特の半公共性があった。店内という私的な空間にありながら、客はそこから外の世界へ電話をかける。コーヒーの香り、椅子の音、店員の視線の中で、受話器だけが別の場所へつながっていた。

電話ボックスや街角には、青電話があった。ボックスの中に収まった青電話は、屋外に設けられた電話として人びとの記憶に残った。1968年には大形青公衆電話機が登場し、街角や駅前に置かれた。[6] 青電話は、夜でも、雨でも、外出先から使える電話として、都市の中に点在していた。

黄色い電話は、100円硬貨の記憶と結びつく。1972年、100円硬貨にも対応する黄色の公衆電話機が登場した。[7] 長距離電話では10円玉が次々に吸い込まれる。そのため100円玉が使えることは便利であった。しかし、100円玉を入れた場合、通話料金が100円に満たなくても釣り銭は出ない。[8] 便利さと損失感が同居するところに、黄色い電話の記憶がある。

緑の電話は、テレホンカード以後の公衆電話の姿として印象深い。1982年にはテレホンカードを使えるカード式公衆電話機が登場した。[9] 1990年代以後、カード式、デジタル式、そして現行の公衆電話へと続く中で、緑色系の電話機は「公衆電話らしさ」を代表する姿になっていった。

公衆電話の色は、街の中で役割を知らせていた。赤は店頭、ピンクは店内、青はボックスや街角、黄は100円硬貨、緑はカードとデジタル化以後の標準的な公共端末を思わせる。色を見れば、その電話がどこにあり、どのように使われるものかが、おおよそ分かったのである。

5 電話ボックスの民俗学

1960年代から1980年代

携帯電話のない時代、公衆電話には行列ができた。駅の構内では、帰宅を知らせる学生、会社に連絡する勤め人、家族や恋人に電話する人びとが順番を待った。前の利用者の通話が長くなるにつれ、列の空気は少しずつ変化する。はじめは黙って待っている。しかし、三分、五分、さらに長くなると、足の位置が変わり、咳払いが増え、視線が鋭くなる。

雨の日には、傘がその苛立ちを物理的なものにした。後ろの人の傘の先が背中に近づく。実際に刺されるほどではなくても、傘で突かれるような圧迫感があった。電話ボックスの中の人は、外から見られている。外の人は、中の人がいつ終わるのかを待っている。公衆電話の行列は、通信の順番待ちであると同時に、他人の私的時間を待たされる経験でもあった。

電話ボックスには、もう一つ興味深い性格がある。それは、見えることと見えないことの均衡である。今日思い出される電話ボックスには、ガラス張りで中の様子が分かるものが多い。しかし、かつては外から中が見えにくい、あるいはほとんど見えない電話ボックスもあった。そこでは、通話者は街路のただ中にいながら、ひととき外界から切り離された。

電話ボックスは、公共空間の中に仮設された私的密室であった。家族への急報、恋人への告白、会社への弁明、借金の相談。声は電話線の向こうへ送られるが、表情や身振りは箱の内側に閉じ込められる。中の者にとっては守られた空間であり、外の者にとっては閉ざされた空間である。この二面性こそ、電話ボックスという装置の社会的性格をよく示している。

6 料金の記憶

1960年代から1980年代

公衆電話の記憶には、料金感覚が強く結びついている。いまの通信料金は、月額契約や定額制の中に溶け込んでいる。しかし、公衆電話では、通話時間と料金が目に見えた。硬貨を入れる。話す。時間が来る。追加の硬貨を入れる。硬貨が落ちる音は、通話時間を刻む時計のようだった。

市内通話については、かつて一度硬貨を入れれば時間を気にせず話せた時期があった。近くの人へかける電話には、料金の緊張が比較的少ない。受話器の向こうの相手も、同じ町内、同じ市内の生活圏にいる。そこでは電話は、遠方へ声を飛ばす技術というより、地域社会の延長に置かれた連絡手段であった。

しかし、市外通話、まして長距離通話となると事情は変わる。競合する通信会社がまだない時代、長距離電話は高かった。遠くの人と話すことは、心理的な距離だけでなく、金銭的な距離を伴っていた。10円玉は驚くほど早く消えていく。用件を短くまとめ、相手の声を聞きつつも、残り時間を意識する。電話料金は、地理的距離を日常生活の中に可視化する制度であった。

100円玉の問題も忘れがたい。10円玉なら、通話が成立しなければ戻る。時間が余れば返る場合もある。しかし100円玉は、通話料金が100円に満たなくても釣り銭が出ない。[8] 急いでいる時、財布に100円玉しかない時、人は仕方なくそれを入れる。短い用件で済んでしまえば、少し損をした気分になる。公衆電話をよく使う者が小銭入れに10円玉をためていたのは、料金制度への生活上の適応であった。

7 テレホンカードとプリペイド化

1980年代から1990年代

1982年、テレホンカードを使って通話できるカード式公衆電話機が登場した。[9] これは、公衆電話の使い方を大きく変えた。小銭を用意しなくてもよい。長距離通話中に10円玉を次々に追加する必要がない。財布の中にテレホンカードを一枚入れておけば、外出先で電話をかけられるという安心感があった。

テレホンカードは、通信手段であると同時に、小さな印刷メディアでもあった。観光地、企業広告、アイドル、鉄道、記念行事。カードの図柄は多様であり、使うために買われたカードが、使われずに保存されることもあった。公衆電話の料金を払う道具が、収集の対象にもなる。ここに、通信文化と消費文化の接点があった。

プリペイド化によって、通話の不安は少し軽くなった。だが同時に、カードの残度数を気にする新しい習慣も生まれた。硬貨の減り方を耳で聞く時代から、カードの度数を目で見る時代へ。料金の感覚は消えたのではなく、別の形に移ったのである。

8 ポケットベルと伝言の時代

1980年代後半から1990年代

携帯電話が一般化する前、公衆電話にはもう一つ重要な役割があった。ポケットベルへの返事をするための電話である。ポケットベルは、呼び出しを個人に届ける。しかし、それ自体で会話はできない。ベルが鳴る。表示された番号を見る。すると人は、近くの公衆電話を探した。

この時代、公衆電話は「返信端末」でもあった。駅の構内、コンビニの前、学校の近く、繁華街の電話ボックス。ベルに呼び出された人びとは、公衆電話へ急いだ。テレホンカードを差し込み、番号を押す。相手に電話を返すこともあれば、数字の語呂合わせで短いメッセージを送ることもあった。呼び出しは個人に届くが、返事は街角の電話から送られる。そこに、通信が場所から個人へ移る途中の姿があった。

ポケットベルは、1968年にサービスを開始し、1996年に契約数のピークを迎えたのち、2007年にサービスを終了した。[10] その盛衰は、公衆電話の最後の繁忙期と重なっている。携帯電話がまだ十分に普及していない時代、ポケットベルは人を呼び出し、公衆電話はその呼び出しに応答する場所となった。

伝言ダイヤルもまた、電話の使い方を広げた。電話は、相手と同時に話すためだけの道具ではなく、声を預けるための道具にもなった。外出先の公衆電話から短い用件を残す。あとで誰かがそれを聞く。声は直接届くのではなく、いったん通信網のどこかに置かれる。電話は、即時の会話であると同時に、時間差の伝言でもあった。

9 INS公衆電話という最後の進化

1990年代

1990年代に入ると、公衆電話はデータ通信の入口にもなろうとした。灰色のINS公衆電話、あるいはディジタル公衆電話である。1990年にはISDN回線を使ったディジタル公衆電話機が登場し、ラップトップ・パソコンやハンディターミナルなどを接続して、データ通信や画像通信ができるようになった。[11]

これは、今日から見るといかにも過渡期らしい装置である。まだ無線データ通信が一般化していない。だが、外出先で情報ネットワークへ入りたいという欲望はすでにある。その時、公衆電話は、声を送る機械から、データを運ぶ端末へ拡張されようとした。

ノートパソコンを持ち、公衆電話に接続し、街角から通信する。いまでは少し奇妙にも見えるその姿は、電話がインターネット以前の通信網から、デジタル・ネットワークへ移行していく時代の一場面であった。公衆電話は、最後にもう一度、未来の入口になろうとしたのである。

10 赤い箱と赤い柱

1920年代から1970年代、そして公衆電話では戦後から現在まで

公衆電話には、有料通信機器としての顔と、緊急通報のための公共装置としての顔があった。

古い公衆電話には、電話機本体の上に、赤い小箱のような緊急用の装置が載っているものがあった。通常の通話では、硬貨を入れ、発信音を確かめ、番号を回す。しかし警察や消防へ通報する場合には、その赤い箱の緊急ダイアル、あるいは緊急通報用の仕掛けを使う。現行の案内では、赤い緊急通報ボタンのある公衆電話では、受話器を上げ、赤ボタンを押し、110、118、119をダイヤルする。硬貨やカードは不要である。[12]

この赤い箱、あるいは赤いボタンは、公衆電話の二重性をよく示している。ふだんは10円玉や100円玉を要求する機械が、危急の場面では料金の論理を停止する。通話は商品である以前に、救援を求める回路となる。赤い装置は、その切り替えを目に見える形で示す標識であった。

同じ赤の記憶として、街角に立っていた火災報知機の柱も挙げておきたい。東京では、市民が使える公衆用火災報知機が1920年に登場した。[13] 赤く塗られた柱、あるいは箱に取り付けられた押しボタンは、火災を発見した市民が消防へ知らせるための装置であった。電話ではなく、声も使わない。ただ、街角の赤い装置に手を伸ばし、ボタンを押す。その単純な所作によって、都市の危機が消防機関へ伝えられる。

公衆電話の赤い緊急ダイアルと、街頭の赤い火災報知ボタンとは、同じ時代の公共感覚を共有していた。どちらも、ふだんは目立たぬ都市設備である。しかし非常時には、個人を警察や消防へ接続する入口となる。赤という色は、危険を知らせる標識であると同時に、「ここを押せば社会が応答する」という約束の色でもあった。

やがて家庭電話が普及すると、街頭の火災報知機は役割を失っていく。東京では、家庭電話の普及、利用率の低下、いたずら通報の増加などを背景に、1972年から廃止が始まり、1974年に公衆用火災報知機は全廃された。[13] 市民は赤い柱のボタンを押す代わりに、電話で119番へ通報するようになった。公衆電話が災害時の通信手段として残ったのに対し、街頭の火災報知機は都市風景から消えていったのである。

11 携帯電話による衰退

1990年代後半から2000年代以後

携帯電話の普及によって、公衆電話は急速に使われなくなった。人は、電話のある場所へ行く必要を失った。電話は都市設備ではなく、身体に付属する道具となった。

待ち合わせに遅れる。帰宅時間を知らせる。会社に連絡する。家族の安否を確認する。ポケットベルに返事をする。かつて公衆電話が担っていた無数の小さな用件は、携帯電話へ吸収されていった。駅の電話ボックスの前にできていた列は消え、商店の赤電話は撤去され、喫茶店のピンク電話も見かけなくなった。

便利になったことは疑いない。だが、失われたものもある。人は電話のある場所を覚えなくなった。駅のどこに電話があるか、商店街のどこに赤電話があるか、学校の近くの電話ボックスがどこにあるか。かつて身体に刻まれていた都市の通信地図は、携帯電話の普及とともに薄れていった。

冒頭の駅の空棚は、この変化を静かに物語る。そこは、かつて誰かが誰かへ声を送った場所であった。だが電話機が外された後、棚は誰も待たなくなった。公衆電話の衰退は、機械の消滅だけではない。人が街の中で「電話の場所」を意識しなくなったことでもあった。

12 災害に強いが、探すのがたいへんな公衆電話

1995年以後、現在へ

公衆電話は、日常の主役から退いた。しかし、役目を終えたわけではない。大きな災害が起き、携帯電話がつながりにくくなると、公衆電話の価値は再び思い出される。停電時にも使える機種があり、災害時には無料化される場合がある。緊急通報では硬貨やカードを必要としない。[12] 日常では忘れられていた装置が、非常時には公共インフラとして前景化する。

災害用伝言ダイヤル171も、この文脈で重要である。171は、被災地の人の電話番号をキーにして、安否などの情報を音声で登録・確認できるサービスであり、公衆電話や災害時用公衆電話からも利用できる。[14] ここでは電話は、同時に話すための線ではなく、声を置いておく掲示板となる。伝言ダイヤルの生活文化は、災害時には安否確認の仕組みとして再び現れる。

しかし、ここには一つの皮肉がある。災害に強い公衆電話は、平時にはあまり使われない。そのため、いざ必要になったとき、どこにあるのかが分からない。駅前にあったはずの電話は撤去され、商店の前の赤電話も姿を消し、電話ボックスはいつの間にかなくなっている。頼れる装置であるにもかかわらず、頼ろうとする瞬間には、まず探さなければならない。

公衆電話は強い。しかし、見つからなければ使えない。防災インフラとは、存在するだけでは足りない。人びとの生活地図の中に残っていなければならないのである。

13 田村電機の消息

1946年から2004年へ

公衆電話の背後には、それを作った会社があった。田村電機製作所は、その一つである。サクサグループの沿革によれば、田村電機製作所は1946年に設立され、1954年には料金後納式赤でんわの試作に成功し、本格的量産を開始した。[15] さらに1983年には磁気カード式公衆電話機の生産を開始している。[15]

赤電話、カード式公衆電話、そして通信端末の時代。田村電機は、公衆電話が街角に存在した時代を機械の側から支えた企業であった。利用者はしばしば電話機のメーカー名を意識しない。だが、受話器の形、硬貨の収納機構、カードの読み取り、緊急通報の仕組みの背後には、それを設計し、製造した会社の技術がある。

その田村電機製作所の名も、現在では日常的に耳にすることは少ない。2004年、田村電機製作所と大興電機製作所の統合により、サクサ株式会社が誕生した。[16] 公衆電話が街角から減っていったように、その機械を支えた企業名もまた、再編の中で別の形へ受け継がれていった。公衆電話の衰退は、端末メーカーの記憶の後退でもあった。

14 結語――公衆電話とは何だったのか

現在から振り返る

公衆電話とは、何だったのだろうか。

それは、電話が場所に属していた時代の装置である。人びとは、つながるために場所へ出向いた。駅へ行き、商店へ行き、喫茶店の片隅へ行き、電話ボックスに入った。順番を待ち、硬貨を用意し、テレホンカードの残度数を気にし、言葉を短く選んだ。

赤電話は商店の店頭にあった。
ピンク電話は喫茶店の片隅にあった。
青電話は電話ボックスや街角にあった。
黄電話は長距離通話と100円玉の記憶をまとっていた。
緑の電話は、テレホンカードとともに、最後の公衆電話らしい姿として残った。

電話ボックスは、公共空間の中の小さな密室であった。
赤い緊急ダイアルは、料金を超えて社会へ助けを求める入口であった。
ポケットベルの時代、公衆電話は呼び出された個人が返事をするための中継点であった。
災害時には、公衆電話はふたたび頼りになる。しかし、ふだん使われなくなったために、いざという時には探さなければならない。

公衆電話の盛衰には、機械の歴史だけでなく、通信の場所、料金、色、待ち時間、公共性の変化が重なっている。便利さは増した。電話は一人ひとりの手元にある。しかし、街角の電話ボックス、硬貨の落ちる音、駅の空棚、赤い箱の緊急ダイアルには、通信がまだ少し重く、少し不自由で、だからこそ切実であった時代の記憶が残っている。

公衆電話は、消えゆく機械である以前に、人びとが公共の場所で私的な声を送ることを学んだ、小さな近代の教室であった。


[1] NTT東日本「公衆電話」
https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2024_11.pdf

[2] NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」
https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/095-099_koshudenwa_utsurikawari.pdf

[3] NTT東日本「公衆電話」委託公衆電話の記述
https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2024_11.pdf

[4] NTT東日本「公衆電話」赤電話の記述
https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2024_11.pdf

[5] NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」特殊簡易公衆電話・ピンク電話の記述
https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/095-099_koshudenwa_utsurikawari.pdf

[6] NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」大形青公衆電話機の記述
https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/095-099_koshudenwa_utsurikawari.pdf

[7] NTT東日本「公衆電話」黄電話の記述
https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2024_11.pdf

[8] NTT西日本「公衆電話の種類と使用方法について」100円硬貨の釣り銭に関する記述
https://www.ntt-west.co.jp/info/support/teiden.pdf

[9] NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」カード式公衆電話機の記述
https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/095-099_koshudenwa_utsurikawari.pdf

[10] NTTドコモ「クイックキャスト サービス終了のお知らせ」報道発表
https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/page/20050425a.html

[11] NTT西日本「公衆電話機のうつりかわり」ディジタル公衆電話機の記述
https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/095-099_koshudenwa_utsurikawari.pdf

[12] NTT西日本「公衆電話の種類と利用方法について」緊急通報の記述
https://www.ntt-west.co.jp/ptd/mag_public/kind.html

[13] 東京消防庁「街頭から姿を消した火災報知機」
https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/learning/elib/qa/qa_69.html

[14] NTTグループ「災害用伝言ダイヤル(171)」
https://group.ntt/jp/disaster/service/171.html

[15] サクサグループ「沿革」田村電機製作所の記述
https://www.saxa.co.jp/about/history.html

[16] サクサグループ「沿革」田村電機製作所・大興電機製作所統合の記述
https://www.saxa.co.jp/about/history.html


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