栄光を取って何が残る
夫が怪我をした。
トレーニング中、ベンチプレスでバーをラックアップする際に右肩からブチブチという音が聞こえたと言う。肩を挙げようとすると激痛が走るので病院にかかったら、腱板断裂の疑いがあると言われ、大きな病院でMRIを取ったらほぼ断裂していることが確認できたらしい。
この時点で、彼の今シーズンのボディビル大会への出場は全て無くなり、今年は治療とリハビリに取り組む年となった。大会に出場するボディビルダーやフィジーカーには珍しくない、必ず起きてしまう事故のようなものが夫にとっての今年だったということである。
夫は基本的に気性の落ち着いた愉快な男であるが、怪我直後はそれなりに取り乱していた。怪我をしたことに対してシンプルに落ち込んでいたし、落ち込んでメンタルがやられてしまうことに対して過剰に防衛的になって、無理矢理前向きになろうなどとしていた。インターネットで治療や予後についての情報をディグって、リハビリが終わる期間と、そこから取り戻せるトレーニングの期間を計算しては、来年の大会に間に合うか真剣に検討していた。
「俺から筋肉を取ったら何も無い」というのは夫の談である。
週7回ジムに通い、生活の大部分を筋肉に注いでいる男である。大会で評価されやすい己の武器である肩の筋肉が衰えてしまうことも不安だろうし、仕事にも多少の支障が発生していて、珍しく弱音などを吐いていた。キッチンで作業する私の後ろでボソボソ言うので、「誰でもいいから一人、人間を思い浮かべてみなさい」と聞いてみる。
「その人から何を取ったら何が残る?」
夫はきょとんとして、職場の同僚を一人思い浮かべたようだった。
「あいつは酒好きやから、ウイスキーを取ったら……?」
「違う、酒は物質やろ。筋肉はお前が成し遂げて手に入れたことであって、酒とは違う。これにはキャリアとか好きが高じて成し遂げた事が入る。私や君の父親にしよか。あの人達から専門性を取ったら何が残る」
好きが高じた専門職で定年後も現役である、私たちの父親を挙げる。夫はこれにはスムーズに答えられた。
「こだわりの強いおじさんが残る……」
「そうやろ。じゃあ私から何を取ったら何が残る」
「えぇ~……」
自慢では無いが、キャリアも無ければ好きが高じて手に入れた物も無いのが私である。夫はさらりとは答えられないようだった。
「私からは何も取れない。じゃあ私は不幸な人間か?」
「そうでもない」
「せやろがい」
私も含めて人間はどうやら、「何かを成し遂げなければならない」という病にかかっている。これは別に、生まれて生きて死ぬのに必須でも無いのに、それが無いと生きている意味がないという極端な思想に取りつかれている。”栄光”というキラキラワードに振り回されているのだ。「何かを成し遂げる」ために何かを一生懸命に行うことが出来るという過程の部分を軽視して、結果論だけで自分や他者を評価しようとする。
結果論だけで言えば、それは夫にとっての筋肉で、父親たちにとっての専門性で、私にとっては、一生懸命色んな事に取り組みはしたが、何も残らなかったので何も無いのである。その結果不幸な人生を送っているか? 紆余曲折はあったが存外満たされている。本当に手に入れたいことはあったけれど、それに固執したら不幸になるのだ。成果物に固執して残った人間性を評価出来なければ本末転倒である。こだわりの強いおじさん達も、そのこだわりの強さこそが彼らの強みなのだ。
夫は善人である。筋肉が無くなっても、筋肉を育てるという自己研鑽が出来る、一生懸命な愚直さのある人間性が残って、それはそれだけで強烈なアドバンテージなのに、こいつはそんなことにはちっとも気付いていないのだ。
「なるほど、無くすものがあるだけマシってことか!」
……お前の価値は筋肉そのものでは無い、ということが言いたかったのだが。少し話が遠回りだったかもしれない。「元気出たわ」と表情が明るくなった夫が言うので、これ以上話を重ねるのも蛇足に思えた。
何にせよ、元気が出たなら何だっていいのだ。
