第1話|違和感をのせた妹のいないタクシーの行き先
あの朝のことは、今でもはっきり覚えている。
「駅に買い物に行くよ」
そう言って、母は僕を起こした。
まだ眠たい目をこすりながらリビングに行くと、
そこにはあらかじめ用意された服が、きれいにたたまれて置いてあった。
いつもは、
「早く自分で着替えなさい」
って言われていたのに、
その日に限って、母は服を準備していた。
ちょっと変だなと思った。
けれど、眠気のせいにして、深く考えないようにした。
双子の妹も同じように、着替えを促されていたけれど、
朝の支度が遅くて、母は少しイライラしていた。
「もうタクシー来るから、先に乗ってなさい」
そう言われて、僕は1人でタクシーに乗り込んだ。
その日は、春のはじまりだったと思う。
少し肌寒くて、曇り空。
空はぼんやりと白く、
なんだか、空気の輪郭が曖昧に感じた。
車の中で窓の外を見ながら5分ほど待った。
母が乗ってきたとき、
僕はてっきり、妹も一緒に来ると思っていた。
でも、母は何も言わずにドアを閉めて、
「お願いします」
とだけ運転手に伝えた。
タクシーが動き出すと、
車内には急に音がなくなったような、静けさが満ちた。
エンジンの振動だけが、少しだけ膝を揺らした。
「妹は、どうするの?」
そう聞きたかったのに、
喉が固まって、声が出なかった。
母は窓の外を見ていた。
表情は固く、口を結んだまま。
目も、まるで心の奥を閉ざすように伏せられていた。
その静けさは、ただの無言ではなかった。
自分の選んだ道を、振り返らず進む人の静けさ。
母親としての決意が、そこにはあった。
でも、怖かった。
その横顔は、
僕が知っていた母の顔と、どこか違って見えた。
その瞬間、ふと記憶が重なった。
たまに感じていた、日本語のぎこちなさ。
怒ったときに出る、聞いたことのない外国語の響き。
それが、このときはあまりに静かで、
それがかえって恐ろしかった。
この人は、
僕の知ってるお母さんじゃないかもしれない。
そう思ったわけじゃない。
でも、そう思いそうな気がした。
違和感。
子どもでも、何かが違う空気はちゃんと感じられる。
妹は、来なかった。
それが何を意味するのか、
僕にはまだわからなかったけれど、
あのとき僕は、
もう二度と「普通の朝」に戻れない場所へ向かっていた。
母の不機嫌、
準備された服、
静かなタクシー、
遠い曇り空。
すべてが「日常」から、ほんの少しずれていた。
子どもでも、
「いつもと違う日」 は、
わかるんだ。
その日が、僕にとっての“違う日”だった。
妹の顔が、あのとき最後にどんな表情だったか、
もう思い出せない。
思い出そうとするほど、遠くなる。
それが、一番怖い。
でも今思えば、
あの朝、母は“すべてを決めていた”のかもしれない。
そして僕は、何も知らないまま、
“切り離される旅”に乗っていたんだ。
それでも、まだ気づいていなかった。
まさか、この日からの1年が、
僕の一生において「境目」になるとは。
妹を置いて、母と向かったその先は、
異国の空気と、理解の追いつかない出来事の連続だった。
親族を巻き込む騒動に発展し、
裁判沙汰にまで進むことになるなんて、
あの頃の僕には、想像もつかなかった。
人生で“ねずみ”を食べたことがある。
日常的に、生き物が解体されるのを目にして育った。
正体のわからない高熱にうなされ、
医者に診せても、病名がつかなかった。
そう語ると、多くの人は少し黙る。
でも、それが僕の現実だった。
あの日、あのタクシーに乗ったことが、
すべての始まりだった。
