【日本100名城スタンプ】攻城戦記録 ~ 岩村城・七尾城・鳥越城・丸岡城・越前大野城・郡上八幡城・岐阜城・名古屋城(14/200)
2025年10月に、冒険家風間深志さん主催の『日本三霊山ラリー』に参加した。
このイベントで、静岡、富山、石川、岐阜、愛知をバイクで巡るのでついでに攻城戦もやろう!ということで、ルート上立ち寄れる岩村城、七尾城、鳥越城、丸岡城、越前大野城、郡上八幡城、岐阜城、名古屋城を攻略することとした。
岩村城
富士山をスタートした我々は、途中のウェイポイントを稼ぎつつ東名高速を西へ。浜松から一般道を北上し恵那市へと向かう途上、ルート上に岩村城があるため立ち寄ることに。
ただ、残念なことに雨が降っていて(割と土砂降り)城の写真どころの騒ぎじゃなかったのが残念だ。
概要
所在地:岐阜県恵那市岩村町城山
築城:1221年(承久3年)以降、遠山景朝による創建とされる(鎌倉時代中期)
構造:梯郭式山城。標高717mの本丸は諸藩居城として全国最高地点に位置し、日本三大山城の一角を占める
天守:天守は存在しない(山城特有の構造)
廃城:1871年(明治4年)廃城
文化財指定:岐阜県指定史跡
岩村城は標高717mの本丸を頂点とし、山上の曲輪群、麓の藩主邸(居館)、そして城下町まで一体で構成された巨大な山城である。
本丸北東側の 「六段壁」 は特に有名で、江戸後期の補強の結果、現在の6段構造となった壮大な石垣である。
また「霧ヶ城」の別名をもち、霧ヶ井にまつわる霧隠れ伝承でも知られる
歴史的背景
● 遠山氏の本拠として成立鎌倉幕府御家人・加藤景廉の長男 遠山景朝が築城し、その子孫である岩村遠山氏が戦国期まで城主を務めた。
山頂の本丸と複数の曲輪群、山麓の居館がセットで機能する構造は、山城として非常に強固で、長期支配の本拠として発展した。
● 女城主おつやの方と武田氏の侵攻(1572–1573)城主・遠山景任が病没すると、信長の叔母であるおつやの方が幼い養子(御坊丸)の後見として実質的な城主となった。
1572年、武田家の秋山虎繁が侵攻し、岩村城は籠城戦へ。
信長からの援軍が届かず、おつやの方は城兵と領民の命を守るため、虎繁との政略結婚を条件とした開城を選んだ。
● 織田軍の奪還と女城主の悲劇(1575)長篠の戦い後、織田軍は信忠を総大将として岩村城を包囲。
半年に及ぶ攻城の末に奪還し、当初の助命条件を反故にして 秋山虎繁・おつやの方を磔刑とした。この一連の事件は「女城主の悲劇」として語り継がれる。
● 松平家による整備と近世山城化(江戸時代)1601年、松平家乗が岩村藩を立藩し、山麓に藩邸を設け城下町を整備した。
本丸周辺の壮大な石垣群(六段壁を含む)は、この時期の築造が中心である。
1702年には藩校「知新館」が設立され、東濃地域の政治・文化の中心地として発展した。

七尾城
イベントのルートの関係上、能登半島を回る事となったため、七尾城を攻略することとした。
とは言いつつ、実は過去に何度も七尾城には訪れており、ライディングブーツで山城を登るのは大儀であるため、今回はスタンプだけ押印となった。
概要
所在地:石川県七尾市古城町(能登国・鹿島郡七尾)
築城:正長年間(1428〜1429)頃、畠山満慶による創建とされる
構造:連郭式山城。標高約300mの尾根と七つの支尾根に曲輪・砦を置く巨大山城構造(七尾=七つの尾根が語源)
天守:天守は存在しない(戦国期特有の山城形態)
廃城:1589年(天正17年)、前田氏の拠点移転により廃城
文化財指定:1934年に国の史跡に指定。2006年「日本100名城(34番)」に選定
七尾城は日本五大山城の一つに数えられ、南北約2.5km・東西約1kmにも及ぶ巨大な山城。七つの尾根に連なる曲輪群、山腹の家臣屋敷群、麓に続く「千門万戸」と呼ばれた城下町など、総体として巨大な城郭都市を形成していた
歴史的背景
● 能登畠山氏の本拠として発展
室町幕府三管領家の一つ・畠山氏の分家である能登畠山氏が拠点化し、150年近くにわたり能登支配の中心として栄えた。山上の本丸に加え、尾根を利用した複雑な縄張りによって、防御力の極めて高い城となった。
● 上杉謙信による攻囲戦(1576〜1577)
戦国時代後期、能登畠山氏の内紛を理由に上杉謙信が侵攻し包囲戦を展開。七尾城は一年近く耐えたが、内部対立による内応で落城した。謙信は本丸から七尾湾を望む景観を称賛した書状を残している。
● 前田利家の入城と放棄
謙信没後は織田方の支配となり、前田利家が城代として入る。しかし時代は山城から平地城郭への移行期であり、利家は海に近い小丸山城へ拠点を移したため、七尾城は1589年に廃城となった。
過去訪れた際の写真がどこかにあったはずだが見当たらないので今回は掲載しないが、実際に登ってみたところ攻め手には非常に困難な戦闘要塞であることが改めて分かる城であった。見に行くときは登山ブーツで訪れることをおすすめする。

鳥越城
イベントの最終目的地は白山、ゴールへ向かう途中に丁度城があるので攻城戦だ!ということで鳥越城に立ち寄る。
概要
所在地:石川県白山市三坂町(旧・鳥越村)
築城:天正初年(1573年)頃、白山麓の門徒勢力「山内衆」を率いた鈴木出羽守により築かれた
構造:連郭式山城。標高312mの尾根上に本丸・二の丸・三の丸・後二の丸・後三の丸など七つの主要郭が連なる大規模山城構造
天守:天守は存在しない(戦国期山城の形態)
廃城:1582年(天正10年)、加賀一向一揆が鎮圧され、城は使用されなくなる
文化財指定:国史跡「鳥越城跡 附 二曲城跡」に指定
鳥越城は、手取川・大日川に挟まれた天然の要害に築かれた巨大山城で、本丸を中心に複数の郭、空堀、土塁、腰郭が尾根上に巧みに配置されている。
2017年には続日本100名城(136番)に選定された。
歴史的背景
● 加賀一向一揆の「最後の砦」
鳥越城は、100年近く続いた加賀一向一揆の最終防衛拠点として築かれた。
本願寺門徒(山内衆)の拠点であり、信長勢の侵攻に対抗するために急速に整備された。
● 戦国期、織田勢との激しい攻防(1580–1582)
1580年(天正8年)、織田方・柴田勝家の攻撃により鳥越城は落城し、指導者・鈴木一族は討たれる。
その後、門徒勢は一度奪還して抵抗を続けたが、1582年(天正10年)、織田軍・佐久間盛政の最終攻撃により完全に鎮圧され、約300名の門徒が磔刑に処されたと伝わる。
この一連の戦いをもって、加賀一向一揆は事実上の終焉を迎える。
● 城郭構造としての特異性
尾根伝いの複数郭、深い空堀(首切り谷)、三方向の防衛線など、山全体を“立体的な防御陣地”とする縄張りが特徴。
落城後、織田軍は本丸虎口に枡形門や布目積石垣を増設しており、一向一揆と織田方の築城技術が混在する稀有な遺構となっている。

丸岡城
ラリーゴールの翌日は天候にも恵まれた。
白山を出発した我らがまず目指すは丸岡城。ここは全国12箇所しか残っていない現存天守の城である。個人的には大変楽しみにしていた城だ。
概要
所在地:福井県坂井市丸岡町霞町
築城:1576年(天正4年)、柴田勝家の甥・柴田勝豊による築城
構造:平山城(連郭式)。天守は独立式望楼型・2重3階で、国の重要文化財に指定される
天守:現存12天守の一つ。石瓦を葺いた唯一の現存天守という特異性を持つ
廃城:1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となる
文化財指定:天守は1950年に重要文化財に指定。2006年「日本100名城(36番)」に選定
丸岡城は“霞ヶ城”の別名を持ち、自然石を積んだ野面積の石垣、石瓦葺きの屋根、古式の望楼型天守が特徴的。1948年の福井地震で倒壊したが、倒壊材の7〜8割を再利用し1955年に奇跡の修復を遂げた。
■ 歴史的背景
● 柴田勝豊による築城と北陸支配の拠点化
織田信長の北陸支配を担った柴田勝家の甥・勝豊が1576年に築城。
越前支配の要衝として重要視され、堅固な石垣と望楼型天守を備えた防衛拠点として発展。
● 本多成重・有馬氏の時代(江戸期)
関ヶ原後は徳川家康の次男・結城秀康の配下から、のちに本多成重が入封し、丸岡藩が成立。
以後、有馬氏などを含め計17代の藩主がこの城を治め、城下町整備も進んだ。
● 明治以降の変遷と“奇跡の修復”
明治4年の廃藩置県で廃城となり、天守以外の建物は解体・移築された。 1948年の福井地震で天守が全壊したが、住民の寄付と努力により倒壊材の多くを再利用して1955年に復元された(現存天守で唯一の「倒壊→復元」例)。


越前大野城
丸岡城を出た我々は、158号線を東進し次なる目的地である越前大野城を目指した。
越前大野城は嘘っぱち天守閣ではあるが立派な天守閣が山頂にそびえる山城で、山を登らねばならない…
まあちゃんと登ってきたわけだが…登ってから気付いたが、一番きつい勾配の階段側の駐車場から登ってしまったので特に辛い山行となった。
天守閣は資料館となっており、至る所にうさぎをモチーフにした絵があって可愛かった。


概要
所在地:福井県大野市城町(旧・越前国大野郡)
築城:1580年(天正8年)、織田信長の家臣・金森長近が築城(1576年開始 → 1580年完成)
構造:梯郭式平山城。標高249mの亀山山頂に本丸を置き、城下町「北陸の小京都」と呼ばれた短冊状区画を麓に形成
天守:当初は大天守(2重3階)と小天守(2重2階)の複合連結式天守だったが、1775年の大火で焼失。
現在の天守は1968年に絵図などを基に鉄筋コンクリートで復興されたもの(史実完全復元ではない)
廃城:1873年(明治6年)、廃城令により破却
文化財指定:越前大野城跡は福井県指定史跡(1957年)。2017年「続日本100名城(138番)」選定
越前大野城は、大野盆地を取り巻く山々に雲海が発生した際、**城が雲海に浮かぶ“天空の城”**として全国に名高い。
竹田城・備中松山城と並ぶ三大“天空城”の一つとして知られる。
■ 歴史的背景
● 金森長近による築城と城下町形成
1575年、金森長近は越前一向一揆平定の恩賞として大野郡3万石を与えられる。
翌1576年より亀山で築城を開始、4年を費やして1580年に完成。
城下には短冊状の町割り・武家地・寺町を整備し、大野城下は“北陸の小京都”と呼ばれる都市構造を形成した。
● 豊臣・織田家時代
長近の転封後、青木一矩を経て、織田信長の孫 織田秀雄が城主となり「大野宰相」と称された。
秀雄は朝廷で参議に任ぜられ、大野の政治文化の発展に寄与した。
● 江戸時代の藩政と相次ぐ城主交代
江戸初期には越前松平家、その後天領化などを経て、土井氏による支配で安定。
1775年の太郎兵衛火事で天守を含む主要建造物の多くが焼失し、1795年に天守を除いて再建された。
1858年の地震では櫓・石垣が大破し、幕末までに原形維持が困難となった。
● 明治以降の廃城と復興
1873年、廃城令により破却される。
戦後、地元の士族・萩原貞らの寄付により1968年に天守が復興(RC造)され、現在は資料館として利用されている。



郡上八幡城
越前大野城を出発後は中部縦貫道を東進、九頭竜湖を越えて東海北陸自動車道へ入り郡上八幡へと向かう。
同行している姫様が腹が減ったと大騒ぎし、更に郡上八幡城は行ったことがあるというので、郡上八幡城麓で二手に分かれて攻城組と飯組で別行動となった。
山麓の駐車場から徒歩で登山し山頂本丸へと向かう。ライダースブーツだとやはり登山は厳しい…しかも暑いし。
郡上八幡城の天守も再建天守ではあるが、木造で再建された天守閣であるため私の中の分類では「嘘っぱち天守」ではないが、忠実再現ではないので「ハリボテ天守」となる(酷い)。
概要
所在地:岐阜県郡上市八幡町柳町周辺(旧・美濃国郡上郡)
築城:1559年(永禄2年)、遠藤盛数によって初築と伝わる
構造:山頂(標高約354m)の八幡山に築かれる山城。山上に本丸・天守台、山麓に城下町を形成する典型的な城郭都市構造
天守:江戸時代に天守は存在したが、1871年(明治4年)廃城令後に失われた。現天守は1933年(昭和8年)に木造再建された「復興天守」(日本最古の木造再建天守)
廃城:1871年(明治4年)、廃藩置県・廃城令により廃城
文化財指定:城跡としての国指定などはないが、城下町は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている(郡上八幡旧町)
郡上八幡城は「日本最古の木造復興天守」を持つ山城として有名で、山上から望む郡上八幡の城下町と清流吉田川の景観が大きな魅力である。
秋季の雲海出現日には「天空の城・郡上八幡城」として稀に雲海に浮かぶ姿が見られる。
■ 歴史的背景
● 遠藤氏による初築(戦国時代)
1559年、郡上の国衆である遠藤盛数が八幡山に砦状の城を築いたのが起源。
盛数の子・遠藤慶隆の代に城下町が整備され、山麓の大手町・職人町・鍛冶屋町などが形成され、後の郡上八幡の基盤となる。
● 稲葉氏・金森氏・井上氏などの支配(江戸時代)
江戸初期、遠藤氏が改易された後、稲葉氏・金森氏が入封し、城郭・城下町の整備が進む。
1758〜1764年の郡上一揆により郡上藩は混乱し、江戸幕府による裁定後、井上氏が藩主として安定した藩政を行った。
● 明治維新後の破却と再建
1871年の廃藩置県で廃城となり、建物の多くは失われた。
1933年(昭和8年)、城跡に往時の姿を参考に木造で天守が再建される(全国で最も古い木造復興天守)。
現在は郡上市の歴史資料館として利用され、城下町とともに観光地として高い評価を受けている。



岐阜城
この日の目的地は名古屋だ。
同行している尾張守の家に泊めてもらう関係からゴールは名古屋であるため、途上の岐阜城も攻めることとした。
岐阜城は過去に訪れたことがあったのだが、天気も良いしスタンプは天守閣まで行かないと貰えないので久々に訪れることにした。
稲葉山攻めといったところか。竹中半兵衛だな。
久々に訪れたが、山麓は完全に観光地化され非常に綺麗に整備されていた。
バイクを駐輪するのは正面の自転車駐輪場とのことでタダで停められる、ラッキー。
なお、ここの天守も嘘っぱち天守だが、眺めが良いので気にしない。
概要
所在地:岐阜県岐阜市金華山山頂(旧・美濃国井之口/稲葉山)
築城:1201年(建仁元年)、二階堂行政による砦築造が起源
構造:山城。金華山(標高329m)全体を要塞化した大規模城郭で、山上の城郭部と山麓の信長公居館跡から成る
天守:斎藤道三・織田信長時代の天守は非現存。
現在の天守は 1956年(昭和31年)RC造の復興天守
廃城:1601年(慶長6年)、関ヶ原合戦後に徳川家康が廃城処分を下す
文化財指定:2011年に山頂部と山麓の居館跡を含む**金華山一帯約209haが国指定史跡「岐阜城跡」**となる
岐阜城は戦国時代に織田信長が天下統一を見据えて本拠とした城として広く知られ、
山全体が防御機能をもつ巨大山城であり、戦国城郭史上極めて重要な位置を占める。
■ 歴史的背景
● 鎌倉〜室町期:二階堂氏・斎藤氏の山城
1201年、二階堂行政が金華山に砦を築いたのが起源。
中世には稲葉山城と呼ばれ、斎藤利永・斎藤道三代に大幅改修され、山頂要塞として整備が進む。
● 斎藤道三の居城として
戦国期、斎藤道三が稲葉山城を本拠とし、美濃支配を確立。
道三没後は斎藤義龍、ついで斎藤龍興が継承するが、家中の不和により勢力は衰退。
● 1567年:織田信長の稲葉山城攻略
信長は**稲葉山城の戦い(1567)**で城を奪取し、本拠を小牧山から移転。
地名「井口」を古代中国「岐山」になぞらえて **「岐阜」**と改名し、城も「岐阜城」となる。
この頃より「天下布武」印を用い、天下統一政策が本格化。
● 信長時代の岐阜城
信長・嫡男信忠により城は大改修され、
山頂には望楼型天守、麓には巨大な居館「信長公居館」が整備された。
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスはその壮麗さを記録し、
金華山全体が巨大な要塞だったことを詳細に記している。
● 関ヶ原前哨戦と落城(1600)
関ヶ原前哨戦で織田秀信(信長孫)が西軍につき、
池田輝政・福島正則ら東軍に攻められ岐阜城は落城。
翌1601年、家康により廃城。




名古屋城
尾張守の家で一泊後、翌日は神奈川まで帰るだけだったが、折角だからと名古屋城まで行くことに。バイクで行くには雨が降りそうだったので尾張守の自家用車で連れて行ってもらうという至れり尽くせりである。
ここも嘘っぱち天守ではあるのだが、河村たかしが当時の技法と図面で完全木造で復元を掲げているので、私が生きているうちに是非復元を完了させていただきたい。エレベーターなんて作っちゃ駄目だぞ、城ってのはバリアの権化でありバリアフリーだったら最早城ではないのだ。
復元された本丸御殿は復元されたばかりの頃に訪れたが、実に素晴らしい復元であった。宮大工の技伝承のために全国の城復元は継続的にやってもらいたいものだ。
概要
所在地:愛知県名古屋市中区本丸(旧・尾張国)
築城:1610年(慶長15年)、徳川家康が天下普請により築城開始(加藤清正ら多くの諸大名が普請)
構造:平城(梯郭式)。本丸・二之丸・西之丸を中心に巨大な堀・石垣・櫓を備える江戸初期の典型的近世城郭
天守:五層五階・地下一階の大天守と小天守を備えた巨大天守
※現天守は1945年の空襲により焼失、1959年にRC造で再建
廃城:1871年(明治4年)、廃藩置県後も軍施設として存続し、正式廃城は1873年(明治6年)
文化財指定:本丸御殿は国宝(1930年指定 → 空襲で焼失 → 2018年復元完了)。石垣・櫓・門等多数が国重要文化財
名古屋城は徳川幕府による尾張藩の中心であり、
「加藤清正の石垣」「金鯱」「本丸御殿」 に象徴される日本随一の威容を誇る大城郭として知られる。
■ 歴史的背景
● 徳川家康の命により築城(1610–1612)
関ヶ原合戦後、家康は西国大名への備えとして“尾張要地”に巨大城郭の築造を命じ、名古屋城は天下普請として建築された。
加藤清正・福島正則・黒田長政など豊臣恩顧大名が石垣普請に動員されたため、**「清正石」と呼ばれる巨石切石」**が現在も多く残る。
● 徳川御三家・尾張徳川家の居城
初代藩主・徳川義直をはじめ、尾張徳川家が明治維新まで17代にわたり居城とした。
金鯱の大天守は“武威の象徴”として江戸全体の中でも最大級の規模を持っていた。
● 本丸御殿:武家書院造の最高峰
将軍上洛時の宿館として建造された本丸御殿は、狩野派の障壁画などを備える日本書院造の金字塔とされ、1930年に国宝指定。
1945年の空襲で天守とともに焼失したが、2009–2018年にかけて忠実復元され現在公開されている。
● 空襲による焼失と戦後の復興(1945–1959)
1945年5月、名古屋大空襲により大天守・小天守・本丸御殿など主要建造物が焼失。
1959年、RC造の大天守・小天守が再建され、名古屋の象徴として復興を遂げた。
● 現代:史跡整備と木造天守復元構想
石垣・櫓などは国重要文化財として保存されており、現在も本丸・二之丸地区で発掘・修復が継続中。
木造天守の復元構想が2020年前後より議論されているが、石垣保全の観点から慎重な議論が継続している。


というわけで、バイクラリーイベントのついでにこれだけの城を回ることができた。
だが日本は意外と広い。まだ14/200だ。
生きてるうちに終わるのだろうか…
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基本、お金を取って読んでもらうほどのことは書いているつもりはないのですが、チップをやるからちゃんと書けという叱咤激励と受け止め、引き続き執筆していきたいと思います。