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【漫画批評】『良い祖母と孫の話』を“良い話”で終わらせないために

――「良い祖母」は本当に「良」かったのか?
――あれは「良」い話だったのか?

加藤片先生の『良い祖母と孫の話』という漫画作品への個人的批評です。

『良い祖母と孫の話』は、最初にpixivで読み切り版が発表され、その後マヴォ電脳BOOKSで連載版が制作されました。
連載版は「スキマ」という正規の無料漫画サイトで全話読むことができます(2025年7月4日現在)。連載版の最後に、pixivに掲載されたオリジナル読み切り版も収録されています。
ぜひこちらから作品をご覧ください。
リンク:【全話無料】良い祖母と孫の話 | スキマ公式

※以下、この記事は作品のネタバレを含みます※
※作品をご自身で読了してからの閲覧をお勧めします!※






1.良い話で閉じていいの?――ラストシーンの違和感

私が『良い祖母と孫の話』に初めて触れたのは、2025年6月。pixivに掲載された読み切り版でした。
読む前から、サムネイルを見た段階で直感しました。
「あ、これを読んだら自分の心が致命傷を負う」
そう思ったのに、どうしても引力に抗えず読んでしまい、案の定、心がメタメタになりました。

物語はやるせなくて、八方塞がりで、
祖母も孫も、どちらもどうすればいいのかわからない。
とても胸がえぐられました。

そのような八方塞がりに放り込まれた読者(私)にとって、連載版のラストシーンは救いのように思われました。
四話の最後、認知症になり老人ホームに住まうことになった祖母をお見舞いに行った主人公(孫・しょう子)。
もう孫の顔と名前も認識できなくなったおばあちゃんが、過去の記憶が混濁する意識で、最後にしょう子の名前を呼び「しょうちゃん 大きくなったねえ」と頭をなでるシーンです。
しょう子は無言で大粒の涙を流します。
これが物語のラストシーン。

この一瞬は、読者にとっても孫にとっても「救い」のように見えます。

しかし、私はその救いを素直に受け取ることができませんでした。
なぜなら、この「奇跡」があたかもすべてを帳消しにし、
祖母と孫のあいだにあった痛みや、解決されなかったわだかまりを
「これでよかったんだ」とする欺瞞のように感じられたからです。

だから私は、あのラストシーンだけをもって「良い話」として終わらせてしまうことをキッパリ拒否したい。

2.救いはあった、けれど届かなかった

作品の基調がどうしようもない閉塞と無希望に満ちたものであることは、言うまでもないと思います。そしてラストシーンはそうした全体への救済に届いていない。
それどころかむしろ、ここまで描かれてきた閉塞を隠蔽してしまうという意味で、二次傷害であるとさえ言えます。

ではラストシーンを除いて作中には一切の救いがなかったのでしょうか?
あります。しょう子の学友の大木ちゃんの存在です。

運動会の準備、クラスで制作する応援パネルの看板を描いているしょう子。 クラスの子たちのやんわりしたやる気の雰囲気とは違い、しょう子は独り責任感と気負いのなか制作に向かっています。
クラスの子たちが買い出しへ行き、いっぽうで一人でもくもくと作業を続けるしょう子。
しかし作業中にしょう子は、バケツに入ったペンキを看板のど真ん中にパコンとこぼしてしまいます。

翌朝、早く登校して一人でペンキをこぼした部分の絵を直しているしょう子。 そこへ大木ちゃんが颯爽と現れ、なんと!自らわざとペンキを盛大に看板にぶちまけて見せます。
絶句するしょう子に、「あーさっぱり、ちょーおもしろい」と笑う大木ちゃん。

この瞬間、大木ちゃんはしょう子に「閉塞の打ち破り」を見せました。
しょう子はほんの一度だけ、身動きとれない閉塞のなかで打ち破りを体験できた。
大木ちゃんの存在、そしてこのペンキのシーンは作中で唯一、「救い」と呼べる光だったと思います。

けれど大木ちゃんという救いは、しょう子の家庭の問題、この物語全体という問題を打開するほどの力は持っていなかった。それが私の見立てです。

3.反転する「こぼす」と「捨てる」――愛の痛みの循環

しょう子は、祖母が作ったお弁当をトイレに捨てていました。
祖母が自分を思って作ってくれたお弁当を、食べずに、こっそり、何度も。
それは、祖母の愛を受け取れないまま拒絶してしまう、しょう子の苦しい行為でした。

ところが物語の後半、立場は反転します。
認知症でホームに入っている祖母を自宅へ一時帰宅させ、「おばあちゃんの誕生日会」を催すシーン。
認知症になった祖母へ今度はしょう子がカレーを作り、そのカレーを祖母がこぼす――
しょう子がしてきた「捨てる」が、まるで祖母の「こぼす」として返ってきたようでした。

この「捨てる」と「こぼす」の反転を見たとき、
私は、祖母と孫が互いに「愛そうとしても、うまく届けられない痛み」を
鏡のように映しあっているように思いました。

祖母はしょう子に愛を注いだつもりだった。
でもしょう子はそれを拒絶した。
今度はしょう子が愛を届けようとしたとき、祖母はそれを取りこぼしてしまう――
まるで二人の愛のこぼれ落ちが循環しているかのようです。

4.ペンキとカレー、二つの「こぼす」の同型性。救いの有無

しょう子が運動会の看板にペンキをこぼしたシーンと、祖母がカレーをこぼしたシーン。
どちらも「こぼす」という行為として同型の失態でした。
二人とも孤独な責任感を負っている存在。単なる行為として以上に、彼女たちの役割の同型性・心持ちの同型性も浮かび上がる描き方です。

しかしながら明確な違いが二者の間にはあります。それが「救い」の有無です。
しょう子の「こぼす」には、大木ちゃんという救いがありました。
大木ちゃんは、しょう子の閉塞を打開して見せ、「やっちゃえ!!」と希望の火を灯してくれる存在でした。
しかし祖母には、そのような救いはありませんでした。
カレーをこぼした祖母を、「大丈夫だよ」と笑いに変えてくれる人はいなかったのです。

そして。しょう子の側にだけあった大木ちゃんの「救い」ですら、この物語の閉塞の打開には届かなかった。不十分な救いだったのです。

この物語は、しょう子と祖母の間で届かない愛の閉塞感を見事に描き切っていると思います。そこには作品としての価値と力強さがあります。
けれど、だからこそ、
ラストシーンの「一瞬の奇跡」で全てを「良い話」として閉じてしまうことには、やはり大きな違和感を覚えずにはいられませんでした。

なぜこんなことが起きてしまったのか?いったいここで何が起こっているのか?
この閉塞を生んでいたもののひとつに、
しょう子と祖母を取り巻く「家庭の構造」、とりわけ「父」の存在があります。

5.生やさしい父

祖母と孫の関係に焦点が当たるので注目されづらいですが、この物語で父親が果たしている機能は地味ながらとても重要だと思います。

父親は彼の「生やさしさ」によって祖母と孫の閉塞空間を強化している、と言えないでしょうか?言い換えると、父のやさしさはあまりに凡庸で、それゆえに事態を悪いほうに加速させている側面がある、と言えないでしょうか?

伴侶を亡くしたおばあちゃんを実家に迎える父親。
これは祖母へ、またおばあちゃんと一緒に暮らしたがっていた幼少のしょう子への、やさしさのある判断・行動に思えます。
また、認知症になったおばちゃんの誕生会を催す父親。
これは祖母へ、そして祖母への罪悪感を父に告白したしょう子への、やさしさある判断・行動のように思えます。

しかし、家に祖母を招き入れお弁当作りや食事準備の役割を託した、
という父の判断は、しょう子と祖母の間の
愛の交通遮断の「場をつくる」ことになりました。
実家におばあちゃんを同居させるのが一概に悪いなんて言うつもりはありません。けれど父の判断が結果的に閉塞空間をつくるものであったこともまた事実なのです。
しょう子にとって祖母は、「拒絶してはいけない相手」として毎日を共にする存在になりました。
祖母にとっても、孫に接し続けながら、孫が自分をどう思っているのか確かめることもできない苦しい関係が続いていたと思います。

また、認知症になって以降の祖母の誕生会。
おばあちゃんにひどいこと(=お弁当を捨てる)をしてしまった、というしょう子の罪悪感の告白を受け、父は老人ホームから自宅に祖母を呼んで、お手製の誕生会を催すことに決めます。
しかしこれは誰にとってもピースフルな時間とはなっていません。
しょう子は「愛情を受け取れなかった存在=かつて祖母のお弁当を捨てていた過去」かつ「差し出した愛を受け取ってもらえない存在=作ったカレーを祖母に食べてもらえない今」という二重苦の立場に置かれます。
祖母は認知症の進行で場の意味を十分に理解できておらず、かつカレーをこぼす失態を独りでなんとかしようという非常に痛切な立場に置かれていました。

父のやさしさは、しょう子と祖母の関係に横たわる痛みを解放するきっかけになっておらず、むしろ痛みの始まりを作ること・痛みの場を継続させることのほうにより寄与したと感じます。

6.「まだ食べるなって」「何もしなくていいんだから」

誕生会で、しょう子が作ったカップケーキに手を伸ばした祖母に、
父は「まだ食べるなって」と声をかけます。
しょう子が差し出した小さな愛情を祖母が素直に受け取ろうとしたその瞬間を、父は「ケーキを食べるのは後で」という進行上の都合で中断してしまいます。

どうして?
しょう子と祖母が、たとえ形だけでも愛を通わせられる唯一のチャンスだったかもしれないのに。
その「まだ食べるなって」という一言が、二人のあいだに小さく芽生えかけた救いを、容赦なく踏み潰しているように思えました。

誕生会という状況がよくわかっていない祖母は、家に居る時の癖として「お茶をいれなきゃ」と立ち上がり、台所へ向かおうとします。
そんなおばあちゃんを父は「何もしなくていいんだから」と席に戻す。
けれど「なにかしなきゃ」と祖母に思わせたのは、父だったのではないのか?

祖母に食事作りを担当させていた(そしてその役割はいましょう子に引き継がれている)のは誰だったんだ?
何もしなかったのは父、あなただったのではないのか?

(感情的になってしまいましたが、それほどに胸を抉られた場面でした。)

父は家計を支えるという意味では自分の働きを成しているわけですが、
この漫画が取り扱う問題の解決という観点では「何もしていない」のです。

7.自分の言葉を持ちたい孫。作者が語らせられなかったこと

物語の最後、しょう子は祖母の老人ホームへお見舞いに行きます。(大学進学で一人暮らしを始めるのを機に、祖母へ別れを告げにきているようにも読めます。)
そこでしょう子は、自分は友達が進んでいくのに付いて行くだけだと言いながらも、孫と話しているとさえ認識していないおばあちゃんに向かって自分自身の言葉でこう語ります。

「だけど後悔だけはもうしたくないんだ
自分の感じたことを自分の言葉で伝えられるようになりたい
ちゃんと人とぶつかれるようになりたい(……)
ただそういう当たり前のことができるようになりたいんだ」


今こそ、率直な私の読後の感想を引かせていただきたいです。
「すごい。情動がやばいよ。なんというか、身の回りの紙を引き裂いて回りたい。。。。。。まじでやばい。叫びたい。ぐわああああああああ!!!!!!!ぐぬぬぬぬぬぬ!!!!私が言葉にしてみせる。あの漫画はまだ仕事がのこってる作品だと思う。作者が余韻を残したって意味で「仕事が残ってる」んじゃない。作者のする仕事が残ってるって意味。 だから読者の私の胸がこんなに張り裂けそうなの。登場人物はまだぜんぜんわだかまりの中にいる。なにも解けてない。」

この感想がすべてです。
しょう子が「自分の言葉を持ちたい」と願ったあの瞬間こそ、
この物語が本当に始まるべき地点だったと思います。
物語は、彼女がこの願いをどう生きていくかを描いてこそ、
初めて本当の救いを探し出せるはずだと感じました。

この漫画はドキュメンタリーなのか? そうならば、これでいい。 けれど、漫画なのだから。創作なのだから。 ドキュメンタリー以上のものが、どうしても欲しい。 どうしても欲しいと思ってしまうほどに、作品がどうしようもなくリアルでした。
しょう子の辛さも、罪悪感も。祖母の立場も、心情も、認知症という顛末も。父の薄い存在感も。大木ちゃんや進学といったわずかな、けれど根本には届かない救いの存在も。どれもこれもがどうしようもなくリアルでした。

けれどそれでも!それでも救いをここに読み取るのならば。 救いというのは蓄積なのかもしれない。一度の決定的な救いなどそれこそ物語の中だけの絵空事なのかもしれない。救いは微弱な赦しの蓄積……。
そこまでの(希望的な)読みを含めてもなお、この漫画はあまりにリアルと言わざるをえません。

現実にはありえない希望でもいいから欲しい。あるいは――俯瞰。
現実にはおかれない視座としての俯瞰。俯瞰の語る物語。
この作品はなんなのか。ドキュメンタリーなのか?ちがう。創作漫画。しかもとびきり優れた創作漫画。だからドキュメンタリー以上がどうしても欲しい。そうじゃなきゃ読者の私が救われなさすぎる。

8.おわりに

「良い祖母」は本当に「良」かったのでしょうか。
この問いはもしかしたら祖母に向かう問いではないのかもしれません。むしろ……
「良い祖母」に対する孫(しょう子)は「悪」かったのか?

しょう子自身が「悪いのは自分かもしれない」と思っているとしても(思っているでしょうが)、私はそうは思わないとハッキリ言いたい。
というか、登場人物の誰も明確に悪いわけではない。にもかかわらず状況は明確に悪い。これがこの漫画が描くもののタチの悪さです。


――「良い祖母」は本当に「良」かったのか?
正面からこの問いに答えてみれば、「いや。特別良くはない。かといって悪くもなく、ただ凡庸だった」のだと思います。

――あれは「良」い話だったのか?
たとえ誰も明確には悪くなかったとしても、みな凡庸に極めてリアルに生きているだけなのだとしても、認知症になったりいずれ死んでしまって苦しみがチャラになる(忘れちゃえる)のだとしても、「けっして良い話なんかじゃない」と私は思います。

苦しみはどこからやってきて、どこへ行くんだろう。

明確な悪者を指させないのだとしたら、物語を覆う閉塞や苦痛はどこに起源を持つんでしょうか。
「やがて忘れる」ということだけが真に救いなのでしょうか。
孫と祖母の絶妙なきしみは認知症に吸収されてしまった。けれどそれで、苦痛は本当にどこかへ行ってくれたのでしょうか。

ここまで読んでくださりありがとうございました。
私にとってこの漫画は、まだ終わっていない物語です。しょう子にとって、これからの生き方こそがまさに描かれるべき“物語”であるように。