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もっと自由に…心のまま生きられたのなら.....言葉の呪縛に縛られる私の後悔…。


言葉は、ときに人の自由を奪う。

たったひとつの言葉が、心の深い場所に棘のように刺さり、長い年月を経ても、抜けることなく残り続けることがある。それは、誰かの意図した優しさだったかもしれないし、たまたま口をついた一言だったかもしれない。

けれど、受け取った側にとっては、それが人生を形づくる“縛り”になることがある。


私にとって、その一つが「一期一会」だった。

昔、別れた恋人に言われた言葉だ。
別れ話のあと、どうしても理由が知りたくて、彼女に問いかけたときのことだった。

「また一緒に歩むとしても同じ理由で、きっと別れることになる。人生は一度切り。出会いも一度切り。一期一会。だから、一緒にいる時間を大切にして欲しかった…」

──その言葉が、私の中に根を張った。

それ以降、恋愛において「やり直す」という発想が持てなくなった。どれほど後悔しても、もう一度好きになっても、「一度きり」の言葉が、私の感情にストッパーをかける。どうせダメになる。

映画のようなラストシーン──別れたふたりが数年後に再会し、もう一度手を取り合う。
そんな物語を見ても、どこか冷めた自分がいる。

「いや、現実には、そんなことない」と。

私は、彼女の言葉に今もなお縛られているのかもしれない。


もうひとつ、忘れられない言葉がある。

かつての親友が、お葬式の帰り道で言ったひとことだ。

「大切な人が亡くなって泣くのは、その人を思い、悲しんでいるのではなくて、自分が可哀想だから泣くのだ。」

その時は、ただの皮肉のように聞き流した。
でも数年後、自分の祖父が亡くなったとき、その言葉が私を締めつけた。

祖父は、私を本当に大切にしてくれていた人だった。
葬儀では、みんなが涙を流す中、私だけが泣けなかった。
悲しくないわけじゃなかった。でも、「自分が可哀想で泣いてるんだ」というあの言葉が、心に浮かんでは消え、感情を曇らせた。

泣いても、それが自己憐憫だと思ってしまう。
泣かなくても、悲しくないわけではない。
そんな感情の迷路に入り込み、私はただ、祖父に申し訳なさを感じながら、黙って手を合わせた。

今でも、仏壇の前で「ごめん、じいちゃん」と謝ることしかできない。


言葉とは、恐ろしいものだ。

誰かの言葉が、自分を縛り、そして、いつか自分の言葉が、他人を縛るかもしれない。

もし、いまこの文章を読んでいる人がいるなら、お願いがある。
私のこの言葉すらも、“絶対”だと思わないでほしい。


人の感情はもっと自由でいい。

恋愛も、別れも、再会も。
死との向き合い方も、涙の意味も。
他人の言葉ではなく、自分自身の心の声に従ってほしい。

言葉に振り回されるのではなく、
言葉を使う前に、まずは「心」で感じてほしい。

それが、本当の“自由”なのだと思う。



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