月の花 #シロクマ文芸部
(本文1699文字 字下げ空白除く)
「月の花を・・・」
老女が呟いた言葉はあまりに弱々しくほとんどが吹き荒ぶ寒風の音にかき消されていた。
「なにか仰いました?」思わずすれ違う足を止め私は彼女に訊いた。
彼女は私に声かけたわけではなかろうが、その姿と伏し目がちに私を見た表情に見過ごしてはいけないと感じたのだ。
少し背を丸めた彼女は後ろでまとめた白髪を片手で気にしながら、もう片方の手で着古された濃い青のハーフダウンコートの襟元をしっかりと押さえていた。手袋もせず寒風に凍え色味もなく、かじかんだ小さなしわがれた手で。
私はコートのポケットにいれていた使い捨てカイロが暖かなままなのを確かめ彼女に渡そうとした。
「手がとても冷たいでしょう。よかったらこれを」
「寒くなどありませんよ。これくらいは」
今度はハッキリと聴こえる声で彼女は言った。
「今夜は風がきつい。私はマフラーにニット帽、手袋もしていますけどそれでも寒いですよ」
そう言うと彼女はやっと私のいで立ちを一瞥し寒さに引き攣ることなく柔和な笑顔を見せた。年相応ではあるものの上品な顔立ちの彼女は襟元を押さえていた小さな手で差し出したカイロを丁寧に断る。
「ありがとうございます」彼女はそう言って軽く会釈をし、空を見上げるような仕草をする。夜空は晴れていた。寒風がやんだとしてもしっかりと冷えていく空だった。
「あの、さっきなんて仰っていたのですか?」私は不躾にもそう訊いた。
「さっき?」
「はい。月の花とか仰ってたような……」
「ああ、そうです。月の花…… あなたご存じ?」彼女は視線を空に向けたままそう言う。私は彼女の先を目で追う。小さく白く浮かんでいる月が見えた。
「月って、あの月ですか?」
「そうですよ。今はあそこに浮かんでいる月」
「私、花のことは詳しくないんで。月の名前が付く花とかですか? 月見草とか……」
彼女は少し微笑んだ。それは私の無学ぶりを笑ったのではないと感じた。それほど彼女は寂し気であったからだ。
「違いますよね」私は先をどう続けるのかわからず照れ隠しのように言う。寒風は少しおさまっている。
「どうしてこんなに長生きしちゃったんでしょうかね」唐突な彼女の言葉により掛けるべき言葉を見つけられなくなり私は黙ったままだ。
「こんなになってまでね、どうしてここにいなくちゃならないのかしら」
彼女はそう言い自分のしわがれた手の皮膚を撫でる。その皮膚が擦り切れるほど撫でたとしても暖かくならない心がそこにあるような気がした。
「そんなこと言っちゃいけませんよ。私もあなたとそうは変わらない歳ですよ。それでも生かされている間は頑張らないと」
けれど彼女の何も知ってはいないくせにそんな言葉をつい吐いてしまった。あなたに何がわかるのと言われまいかと後悔するが「そうね」と短く答えた彼女に私は少し救われた気がした。
「あの、しつこいかもですけど、月の花ってどんなのなんですか」
彼女は「そうね」と言い少し考える。
「なにか思い出でもおありですか」私は彼女の何を知りたいのだろう。
「もう二度と見る事ができない花って言えばいいのかしら」
「日本では観れないとか……ですか?」
私の問いに彼女はふふと今度は口にだして笑った。
「ああ、私、ほんとうに花のこと知らなくてお恥ずかしい」
「いえいえ、誰もしりませんよ、月の花なんて。私が勝手に言っているだけ」
寒風はすっかり止み、しかし寒さは足元から伝う。立ち話を続けるのはこれくらいにしないと。
「すみません。つまらないことで足を止めさせてしまって、お気をつけてお帰りくださいね」私は彼女の目線まで頭をさげ寒さに強張った表情をできるだけほぐすように笑顔を作った。
「あの月に昔は花が咲いていたのよ。あなたは信じる?」
「月に花がですか?」
「そう。私が帰らないばかりにその花はもう咲くことがなくなってしまったけど」
えっ、と私が言葉を詰まらせる間に彼女はまた少し背を丸め白く浮かぶ月を道標に歩いていく。その先には公園がありそれを抜けると住宅地が続く。あの町のどこかに住んでいる人だろう。身寄りがあるのかないのかは分からないが。
月を見上げる。視線を戻した時にはもう彼女の姿は闇に隠されていた。
完
シロクマ文芸部様の企画 「月の花」に参加させていただきました。
