脳を洗う(7話)
第七話:捕食
ある日、綾女は突然、悠真に「ある役目」を言い渡した。
「次の子……導いてみて」
「……え?」
「今までは私が隣にいたけど、今回は完全にあなたに任せる。“陽だまり”の中で、“種”を植えてあげてほしいの」
“種”――それはつまり、思想の入口。
綾女がよく使う隠語だった。
誰かの中に“陽だまりの視点”を芽生えさせ、それが育てば、完全な“仲間”になる。
「……うまく、できるかな」
「できるよ。あなたはもう、十分“こっち側”の人間だもの」
その夜、悠真は妙な高揚感と罪悪感の狭間で眠れなかった。
けれど、翌日、“新しい子”が分室に現れたとき――
彼は微笑みながら、自然にこう言っていた。
「こんにちは。今日は、ここに来てくれてありがとうございます」
彼女の名前は、山岸 理沙(やまぎし りさ)。
24歳、元営業職。パワハラで退職し、実家に戻るも、母親と折り合いが悪く、現在は一人暮らし。
「正直、もう誰も信じられなくて……でも、紹介してくれた人が“ここだけは違う”って言ってて」
分室のソファで、理沙はぎこちなく笑った。
悠真は、うなずいた。彼女の表情には、かつての自分と似た“居場所のなさ”が滲んでいた。
「ここは、“違う場所”だよ。誰かに合わせる必要も、無理して強くなる必要もない」
言いながら、自分でもその言葉の力に酔っているのを感じた。
彼女の目が潤む。
「……本当に、そう言ってくれる人、初めてかもしれない」
「なら、今日からはもう“大丈夫”だね」
その日から、理沙は“陽だまり”に通い始めた。
最初は週に一度。やがて、二日に一度。
そして一ヶ月後には、仕事も再開せず、毎日ふらりと分室に現れるようになった。
綾女はそんな理沙を見て、微笑んだ。
「“発芽”したね。あとは、育てるだけ」
ある日、悠真は理沙とふたりきりで話す機会を得た。
「……ここに来てから、夜が怖くなくなったんです」
「うん?」
「……眠る前に思い出すんです。ここで話したこととか、悠真さんの言葉とか……そうすると、心が静かになるから」
悠真は、理沙の言葉に微かな違和感を覚えた。
それは、まるで“信者”が教祖を語るような響きだった。
だが、同時に、その言葉は彼の中の何かを満たしていく。
「俺が……必要とされてる?」
それは、かつての自分がずっと欲しかった感覚だった。
「理沙さん。もし“この場所”がなくなったら、どうする?」
彼は、試すように訊いた。
理沙はしばらく黙って、ぽつりと呟いた。
「消えちゃう、と思う。私も」
その言葉に、悠真は目を逸らせなかった。
これは“依存”なのか、それとも“救済”なのか。
けれど、綾女ならこう言うだろう。
――「どちらでも構わない。必要なのは、“繋がり”という事実だけ」
悠真は、黙って理沙の肩に手を置いた。
「ここにいれば、理沙さんは消えないよ。ずっと、ここにいればいい」
理沙はこくんと頷き、静かに目を閉じた。
「理沙、最近連絡も返さないし、どうしちゃったの……?」
スマホの画面には、母親からのメッセージがずらりと並んでいた。
“心配しています”
“今どこにいるの?”
“会社にも行ってないって連絡きたのよ?”
理沙は、それをぼんやりと眺めていた。
隣では、悠真が静かにコーヒーを淹れていた。
「……また、来てたの?」
「うん。でももう、いいの。あの人たち、私のこと何もわかってなかった」
彼女の声は、どこか遠くを見つめるように淡かった。
「“無理しなくていい”って言葉を、一度でも言ってくれたこと、なかったから」
悠真は何も言わなかった。ただ、マグカップを差し出し、彼女の手をそっと包んだ。
「ここには、君のことをちゃんと見てる人がいる。それで、充分だよね」
「うん……ほんとに、ありがとう。悠真さんがいてくれて、良かった」
そのとき、ドアがノックされた。
理沙の体がビクリと震えた。
「……誰?」
「綾女さんじゃない?」
悠真が立ち上がり、ドアを開けると、そこに立っていたのは――中年の女性だった。
「失礼します。……娘を、返していただけませんか?」
理沙の母だった。
彼女の目は、明らかに“普通”ではない何かを見抜こうとする強い光を宿していた。
「どうしてここが……」
「GPSを仕込んでいました。まさか、こんな得体の知れない場所に通っていたなんて」
母の声は怒りと恐怖と不信がないまぜになっていた。
理沙は、すぐに顔を伏せた。
「帰らない。私、ここにいるの」
「……何言ってるの。目を覚ましなさい!」
悠真は間に入った。
「ここは、“居場所”を失った人たちが、安心して過ごせる場所です。
無理に連れ戻すのは、逆効果になるかと――」
「あなたが“誘導”してるの? この子をおかしくしたのは、あなた?」
怒気をはらんだ母の声に、悠真の胸がざわついた。
(おかしく、した……?)
「……帰ってください」
思わず言っていた。
「理沙さんは、ここでようやく自分を取り戻しつつあるんです。過去の環境に戻るのは、むしろ彼女にとって害になります」
母は何かを言いかけたが、唇を噛んで、黙り込んだ。
「……警察に通報します」
その言葉を残し、彼女は踵を返して去っていった。
理沙は、全身を震わせていた。
「ごめん……私のせいで……」
「大丈夫。俺がいるから」
その言葉に、彼女はようやく小さく笑った。
その夜、悠真は久々に夢を見た。
炎に包まれる家。怒鳴り声。泣きじゃくる母。
それを黙って見ていた、少年時代の自分。
「努力が足りない」「泣くな」「迷惑をかけるな」
父の声が、いつまでも耳にこびりついて離れない。
目覚めたとき、悠真は静かにベッドの中で呟いた。
「俺も、誰かを“閉じ込めてる”んじゃないか……?」
でも、その疑念は、次の瞬間には霧のようにかき消えた。
「違う。これは“救い”なんだ。
綾女さんが言ってた、“本当の優しさ”なんだ」
心の奥底で、何かが軋む音がした。
「警察、来たよ」
分室の奥で資料をまとめていた悠真に、綾女が静かに言った。
「……理沙さんの?」
「そう。通報者は母親。『娘を拉致・監禁している宗教団体がある』って」
その言い方は、どこか他人事のようだった。
悠真は無意識に拳を握った。
「どうするの?」
「全部“合法”よ。会費も強制じゃないし、出入りも自由。……でも、“誰かがそう思えば”、それだけで疑われる。それがこの世界」
綾女は、窓から外を見つめていた。
その横顔は、いつになく険しかった。
「……悠真くん、最近どう?」
唐突に視線を向けられて、戸惑いながら答えた。
「……悪くないよ。俺も、少しずつだけど、自分を取り戻せてる気がする」
「それは、良かった」
綾女の笑顔は、やさしい。それなのに、どこか突き放すようでもあった。
「でも、少し“入れ込みすぎ”てない? 理沙さんに」
「……入れ込んでるつもりはないよ。俺は、ただ――」
「“ただ”?」
その一言が、悠真の言葉を遮った。
「救いたいだけだよ。あの人を。……俺と同じだから」
しばらく沈黙が流れた後、綾女はふっと笑った。
「人を“救う”って、気持ちいいよね」
「……え?」
「救ってるつもりが、依存させてるだけかもしれないって、不安になったりしない?」
悠真は、言葉を失った。
綾女は歩き出す。分室の入り口へ。そして、振り返る。
「忘れないで。“主導権”を握られた瞬間に、“支配”は終わるのよ」
そう言って、彼女は分室を出て行った。
その夜、悠真は理沙と話していた。
「綾女さんって、なんかすごいよね。私、ああいう人になりたいなって思う」
「……なれるよ。理沙さんなら」
「ふふ、ありがとう。でもね……」
理沙は少し俯いて、静かに呟いた。
「もし、“ここ”がなくなったら、私どうなっちゃうんだろうって、最近考えるの。悠真さんがいなかったら、もう生きていけないかもって……」
その言葉に、悠真の心がざわついた。
(依存……させてる? それとも……)
けれど、その揺らぎをかき消すように、理沙は微笑んだ。
「……でも、怖くないの。悠真さんがいるから」
その瞬間、悠真は思ってしまった。
――もし“この子”を手放すくらいなら、全部壊れてもいい。
頭のどこかで「おかしい」と思いながらも、そう思ってしまった自分を、否定できなかった。
警察の調査は、思っていたよりも早く進んだ。
「あなたの関与は? この施設、そしてその運営について、あなたは何も知らなかったというのですか?」
理沙の母が証言した内容をもとに、警察が送り込んできたのは若い警官だった。
彼の表情は険しく、なにかを疑うような目をしていた。悠真は冷静に応対しながらも、心の中で不安が膨らんでいくのを感じていた。
「はい、全て理解しています。入会を希望する方は自己判断で。施設内での活動も、自由に参加・退会できます」
警察官はうなずきながら、メモを取っていく。
「もし問題があれば、指摘してください。無理な勧誘や強制的なことは一切ありません」
悠真は、疑念をかけられていることに無意識に動揺しながらも、その態度を崩さなかった。
「理沙さんも、以前は家族との関係がうまくいっていなかったと聞きました。それで、こちらに来てから少しずつ自分を取り戻してきた――そのお手伝いができているなら、それが一番です」
警察官が黙り込み、机の上で手帳を閉じた。
「わかりました。ですが、再度警告します。もし何か不正が見つかれば、すぐに捜査が入ります」
その言葉に、悠真は心の中で息を呑んだ。だが、表情には出さず、静かに会話を終わらせた。
その後、悠真は理沙と一緒に部屋で過ごしていた。
「悠真さん、怖かったよね……」
理沙はソファに座り、膝を抱えて小さく縮こまっていた。その目は、深い不安に沈んでいる。
「……大丈夫。理沙さんはもう、僕が守るから」
「でも、もし警察がまた来たら、私たちどうすれば……?」
悠真は少し考えた後、ゆっくりと答えた。
「警察の調査に協力しつつ、君を守る方法を考えるよ。今は、冷静に待つしかない」
そのとき、部屋のドアがノックされた。
悠真は振り返り、少し警戒しながら扉を開ける。
「……綾女さん?」
そこには、予想外の人物が立っていた。綾女だった。
彼女は穏やかな表情で、悠真を見つめている。
「ちょっとだけ話せる?」
「……入ってください」
綾女は無言で部屋に入り、静かにソファに座った。
「警察、来たんだって?」
「はい。警察は何か悪いことがあったらすぐに指摘してくれると思いますし、その点は心配してません」
綾女は頷きながら、視線を理沙に向けた。
「理沙さん、元気?」
理沙は、少し驚いたように顔を上げた。
「うん、でも、ちょっと怖い……」
「わかる。でも、ここは“安全な場所”だから。警察も、私たちが正当な活動をしていることを確認するために来ただけ。
この施設が悪い場所だなんて、あり得ない」
綾女は穏やかに言ったが、その言葉に悠真は違和感を覚えた。
「確かに……そうですね」
その後、綾女は少し沈黙してから、静かに続けた。
「悠真くん、少しだけ考えてみて。
もし、この場所が正しい場所だとしたら、警察が来た時に、みんながすぐに答えられるはずでしょ?」
悠真はその言葉に、心がざわついた。
「……どういう意味ですか?」
綾女は冷ややかに微笑んだ。
「私はただ、思うんだよ。すべてが完璧すぎて怖いって。少し、距離を取ってみたほうがいい」
その言葉が、悠真の心を揺さぶった。
「綾女さん、あなたは……」
綾女は言葉を切り、立ち上がって部屋を出る準備をした。
「考えてみて。あなたが目指しているもの、本当にそのままでいいのか」
部屋を出るとき、振り返らずに言った。
「また、話そう」
扉が静かに閉まる。残された空間に、一瞬、空気の重みだけが残った。
その場に残された悠真と理沙。
部屋には妙な静寂があった。外から聞こえる足音も、空調の音も、遠くに感じる。
理沙が小さく声を漏らした。
「……ねえ、あの人、何か変だったよね?」
その言葉に、悠真は反応しなかった。綾女の最後の言葉が、まだ頭の中で渦巻いていた。
“考えてみて。あなたが目指しているもの、本当にそのままでいいのか”
(目指してるもの……)
理沙を守ること。彼女が壊れてしまわないように、正しい場所に導くこと。
いや――それだけだったはずだ。でも、それは本当に“理沙のため”だったのか?
胸の奥に、かすかに違和感が浮かんだ。
「理沙」
悠真は、ゆっくりと彼女の名前を呼んだ。
「……なに?」
理沙は不安げに彼を見上げた。その目には、わずかな怯えが宿っていた。だが悠真は、それに気づきながらも、自分の思考を止められなかった。
「君は……ここにいて、安全だって思う?」
「……正直、ちょっと怖いよ。あの人も、なんか変だし。悠真も、最近……」
言いかけたその言葉を、理沙は飲み込んだ。
悠真は笑った。だがそれは、どこか虚ろで、優しさを装った“形”の笑みだった。
「理沙、それは“怖いから間違ってる”っていう理屈じゃないかな。綾女さんが言ってた。完璧すぎて怖いって。でも、それはつまり、正しいってことでもある」
「……正しい?」
「そう。君は、外の世界で何か救われた? 家族は? 友達は? 誰も、君のことを本当に理解してくれなかった。僕は違う。ここは違うんだ。僕は、君をわかってる」
理沙の目が見開かれる。
「でも……悠真、それって……」
「怖がらないで。大丈夫だよ。僕が、君を正しい場所に導いてあげる。もう、間違わないように」
その言葉は優しく聞こえる。けれど、その中には確かな“強制”があった。彼の言う「正しさ」は、理沙が選べる選択肢ではなかった。
理沙の目に、次第に恐怖が広がり、その顔は真っ青になっていった。
「悠真……違うよ、そんなの、あなたじゃない……」
「僕は、僕だよ。でも……ようやく、自分の“役目”がわかったんだ」
その目には、確かに狂気の光が宿っていた。優しさと正しさの皮を被った、支配と従属の構図。その中心に、自分がいるという確信。
(君を守る。それが僕の使命なんだ)
彼は理沙に歩み寄る。その一歩一歩が、彼女を“救済”へと導くようでいて、奈落へ引きずり込む音のように響いた。
理沙は後ずさりしながら、心の中で叫んだ。
(お願い、誰か――悠真さんを、助けて)
でもその声は、彼には届かない。
彼の中で鳴り響いているのは、綾女の声だけだった。
『正しい行いをして。あなたなら、できる』
そして、彼はそっと手を差し伸べた。
「大丈夫。君は、僕と一緒にいればいい。全部、僕が決めてあげるから」
理沙の目から涙がこぼれる。
それが、洗脳と支配の始まりであることを、悠真だけが知らなかった。
理沙の涙が頬を伝い落ちる。
(違う、これじゃない。こんなの、悠真じゃない……)
彼女の中にある“知っていた悠真”の姿が、今、目の前の男と重ならない。
目の奥が、異様な静けさで濁っていた。言葉は優しく、手のひらはあたたかい。でも、その温もりが、何よりも冷たく感じた。
「悠真……お願い、少し距離を……」
理沙は震える声で言ったが、悠真は微笑んだまま、さらに一歩、近づいた。
「ねぇ、思い出して。君がどれだけ辛かったか。ひとりで、泣いていた夜を。誰もわかってくれなかった時間を。……僕は知ってる」
「でも、でもそれは――」
「もう苦しまなくていいんだ。僕がいるから。全部、僕が背負ってあげる。君は、ただ僕のそばにいればいい」
その瞬間、理沙の心に浮かんだのは、“自由を奪われる”という言葉だった。
まるで、自分の存在が、“彼の救済のための材料”に変わっていくような感覚。
彼は“優しさ”という皮を被りながら、じわじわと彼女の「意志」を侵食していた。
(逃げなきゃ)
反射的にそう思った。だが、その思考を読み取ったかのように、悠真は彼女の手首をそっと掴んだ。
「大丈夫。怖くないよ。ここにいれば、誰も君を傷つけない。警察も、家族も、社会も。……僕が守る」
理沙は掴まれた手を引こうとしたが、彼の力は思ったより強く、離れない。
「やめて……離して……!」
声が震え、涙が込み上げる。だけど悠真は、微笑を崩さなかった。
まるで、すでに彼の中で“理沙の未来”は確定しているかのように。
「理沙、わからないなら、時間をかけていいよ。でも、君のために、僕はここにいるから」
そのときだった。
部屋の片隅にあったモニターに、うっすらと赤いランプが灯った。
“監視中”
理沙の目が、その点滅を捉える。
彼女は悟った。この部屋だけじゃない。ずっと前から――この施設そのものが、誰かに“見られている”。
(……綾女さん?……)
唯一、自分たちに「距離を置け」と言ってくれた彼女の言葉が、今になって胸の奥を突く。
理沙は、涙を拭い、わずかに首を振った。
「……わかった、悠真。ちょっと……だけ、落ち着かせて」
一瞬だけ、悠真の顔に安堵のような影が差した。
「うん、ゆっくりでいいよ。僕はここにいるから」
理沙はうつむいたまま、自分の心の中で叫ぶ。
(逃げる。絶対、ここから逃げなきゃ)
だがその背後で、悠真の声が優しく響いた。
「……大丈夫、どこにも行かないでね」
その“お願い”は、優しく響く檻だった。
まるで、見えない手錠が、もうすでに掛けられているようだった。
理沙はその夜、布団の中でひたすら眠ったふりを続けていた。
隣の部屋には悠真がいる。ドアは開いている。視線も、音も、彼の“気配”がずっと付き纏っていた。
閉ざされた窓。遮音された壁。外の世界の気配が、まるで途絶えている。
(誰か……誰か助けて……)
喉の奥から、震えが込み上げる。声を出せば、気づかれてしまう気がした。
スマートフォンは入居時に預けさせられた。外部との連絡手段は何もない。
だが、理沙にはひとつだけ、心に残っている名前があった。
(綾女さん……)
私たちに距離を置くように言った、あの人。
唯一、この場所の“完璧さ”に疑問を口にした人間。
――もしかしたら、助けてくれるかもしれない。
翌朝、理沙は意を決して、悠真がいない隙を見計らって廊下へと出た。
職員たちは笑顔で挨拶をしてくる。
だがその目の奥には、何かが張り付いている。まるで笑顔という仮面の下に、別の意志が隠れているようだった。
(早く……綾女さんに……)
ふと、理沙の目の前に、一人の女性が立ちはだかった。
紺色の制服に身を包んだスタッフ。
その顔を見て、理沙は一瞬、心臓が止まりそうになった。
「こんにちは、理沙さん」
その声は、綾女だった。
「あ……あの……綾女さん……っ!」
理沙は涙が込み上げた。助けを求めようと手を伸ばしかけ――だが、次の瞬間、彼女の足が止まった。
綾女の笑顔は、以前見たものと違っていた。
柔らかい、それでいて“確信”に満ちた、まるで指導者のような眼差し。
「落ち着いて。大丈夫、私がいるわ」
「……綾女さん、ここは……本当に……?」
綾女は理沙の肩に手を置いた。
「ねえ理沙さん。あなたも、少しずつ“わかって”きたでしょう? この場所の意味が」
その声は優しい。けれど、逃げ場を失わせる優しさだった。
理沙の中で、警報が鳴った。
(この人も――“こっち側”なの……?)
遠くから、悠真の足音が聞こえてくる。
綾女が静かに囁いた。
「私たちは、もう選ばれたの。あなたも、ね?」
その瞬間、理沙の中で全ての希望が崩れ落ちた。
“この場所に味方なんていない”
誰もが優しい。誰もが微笑む。でもそれは――自由を奪うための微笑みだった。
悠真の足音が近づく中、綾女が最後に言った。
「さあ、一緒に“祈り”ましょう。すべては救いのために」
理沙の瞳から、完全に色が失われていった。
儀式室と呼ばれる部屋は、異様なほど清潔で静かだった。
白を基調とした内装。天井には丸く光るシャンデリア。
正面には、何かの象徴らしき抽象的なモニュメントが立っている。歪んでいるのに整っている。まるで人間の意識そのもののようだった。
「理沙さん、こちらへどうぞ」
綾女が静かに促す。
その後ろには、すでに祈りの姿勢を取っている数名の入居者たちがいた。皆、まっすぐ前を向き、言葉ひとつ発しない。
理沙は足を引きずるように歩いた。身体の力が抜けない。目が乾いている。
自分がどこに向かっているのかも、よくわからなかった。
綾女は、理沙の耳元で囁く。
「怖くない。これは“救済の儀”よ。あなたは今、ほんとうの自分に還るの」
その言葉を、理沙の脳が拒絶しようとした。
だけど、身体はもう逆らえなかった。
悠真が現れた。
儀式の中央に立ち、堂々とした足取りで壇の上へ登っていく。
その目は、完全に澄んでいた。
“悟っている者”の目だった。
「皆さん。今日、私たちはまたひとり、新たな同志を迎えます」
その声に、周囲の人々が無言のまま頷く。
「理沙さん。あなたは今、選ばれた。拒絶ではなく、受容を。恐れではなく、理解を。疑いではなく、信仰を」
理沙は震えながら首を横に振った。
「私は……ちが……っ」
「あなたは、まだ自分を縛っているんです」
悠真は、あの優しい声で言った。
初めて話してくれたあの日の声と、何ひとつ変わっていなかった。
「自由になるんです、理沙さん。ほら、僕の目を見てください」
その声に抗えず、理沙は顔を上げた。
悠真の目は、黒く、深く、底なしに静かだった。
その奥に、何かが渦巻いている。感情ではない。信念でもない。
――“空虚”だった。
綾女が、理沙の肩に手を添える。
「あなたも、救われたかったはずよ。寂しかったでしょ? 苦しかったでしょ? 誰にも理解されなかった。だから、ここに来たの。間違いじゃないわ」
理沙の中で、何かが崩れる音がした。
(わたしは……わたしは……)
祈りの音が、静かに部屋に満ちていく。
言葉にならない呟き。誰ともわからない声が、部屋全体を揺らしていた。
「さあ、祈って」
綾女が、微笑んで言う。
「これは、あなたの意志よ」
理沙の唇が、かすかに動いた。
ひとつ、またひとつ、形にならない“音”が、彼女の口から漏れ出す。
涙が流れていた。
でもそれは、抗いきれなかったからではない。
――もう、何も感じられなくなったからだった。
祈りの輪の中、理沙は“ひとつの存在”に還っていった。
意思を失った魂は、信仰に呑まれていく。
悠真は、静かに目を閉じた。
もう、何も恐れることはない。
“ここにいる限り、永遠に救われ続けるから”。
儀式が終わると、理沙は新しい衣を纏い、何も語らずに微笑んでいた。
その微笑みに、かつての“理沙”はもう残っていなかった。
目は澄んでいて、動作は柔らかく、まるで最初からここにいたようだった。
綾女はそっと手を添え、彼女を導く。
「もう大丈夫。あなたは、一人じゃない」
理沙は、ゆっくりと頷いた。
その様子を、悠真は少し離れた場所から見ていた。
胸の奥に、微かなざらつきが残っていた。
だが、それが“間違いの証拠”とは、もう思えなかった。
(あれは、正しい選択だったんだ。彼女は、苦しみから解放された。僕が導いた……)
けれど、どこかで、彼自身も気づいていた。
“あの時、自分は彼女を守ろうとはしていなかった。綾女と同じ側に立っていたのだ”と。
それでも、もう後戻りはできなかった。
その夜。
悠真は綾女と並んで、広い窓の向こうに広がる夜景を見つめていた。
施設の最上階。
窓の外には、かつて自分が“現実”と呼んでいた街が広がっていた。
「……変わっていくわね。ゆっくりと。でも確実に」
綾女がぽつりと言った。
「人は、恐怖の中では変われない。希望がなければ、盲目的にもなれない。だから私たちは、“安心”を与えるの。支配ではない。“居場所”よ」
悠真は、静かに訊いた。
「本当に……これが、正しいんですか?」
綾女は微笑んだ。その微笑みに、優しさと残酷さが同居していた。
「悠真くん、あなたも知ってるでしょ。信じる者の瞳は、恐怖に濁らない。むしろ澄んでいく」
「……理沙はもう、戻れないですね」
「戻る必要があるの?」
綾女の声は、穏やかでありながら、底冷えするような確信に満ちていた。
「私たちは、これからもっと多くの人を救っていく。あなたの役目も、ここから始まるのよ」
悠真は窓の外を見つめた。
その目は、もはや過去を映してはいなかった。
――“ここ”が現実であり、
“あちら”が、狂気だったのかもしれない。
彼の手には、新しく渡された“紹介資料”が握られていた。
次に導くのは、まだ躊躇いを抱えた、ある大学生の名前。
見慣れた名前だった。
かつて、青春と呼べる時期を共にし、将来の悩みを語り合ったことのある――亮、という名。
悠真は、静かに息を吐いた。
「わかりました。任せてください」
綾女は、満足げに微笑んだ。
「あなたは、私が選んだのよ。最初から」
外の夜景が、どこまでも静かに滲んでいた。
窓の外に広がる夜景は、都市の喧騒を吸い込んだように静かだった。
ビルの灯りは穏やかにまたたき、まるで何事もない日常がそこに続いているようだった。
けれど、悠真の心には確かな波紋が広がっていた。
自分が誰かを導く側になるという現実。
紹介資料に記された、懐かしい名前。
(亮……)
彼の顔が脳裏に浮かぶ。
大学の帰り道、深夜のラーメン屋、就活の愚痴を語り合った日々。
理想と現実の狭間で、何が正しいのかを模索していたあの頃。
今の自分が、果たしてその答えに辿り着いているのかはわからない。
ただ、綾女の「導く」という言葉は、なぜか恐ろしいほどしっくりきてしまった。
静かに立ち上がった悠真は、紹介資料をカバンに入れ、扉を開ける。
廊下には、微かなアロマの香りが漂っていた。
まるで人の不安や疑念を包み込むような優しい香りだ。
足音だけが、やけに大きく響く。
施設の出口で、綾女が最後に振り返った。
「迷わなくていいの。悠真くん。あなたはもう、正しい側にいるのだから」
その言葉に、悠真はほんのわずか、目を伏せた。
だが次の瞬間にはもう、何も迷いのない顔で頷いていた。
「亮に、伝えます。“安心していい”って」
綾女は満足そうに微笑み、静かに言った。
「ええ。“陽だまり”は、誰にでも必要だから」
ドアが閉まる音がしたとき、遠くで風鈴が鳴ったような気がした。
