【第二部】僕は勇者の殺し方を知っている。 イッキ見【僕の作品の最高地点】
第十三話
それは、この俺マルスが、かつて共に背中を預け合った勇者パーティーの仲間たちと過ごした、在りし日々の思い出。
血と泥に塗れ、絶望に打ちひしがれながらも、互いの手を引き合い、必死に乗り切ろうと足掻いた苦難の日々の記憶。
俺の魂の奥底に、焼け焦げたようにこびりついて離れない、眩しくも残酷な青春の残滓だ。
――物語の始まりは、今から十六年前。
じっとりとした汗が首筋を伝い、息をするだけで肺が熱くなるような、ひどく蒸し暑い夏の日のことだった。
「やあ。君たちが、マルスとナターシャだね」
蝉の鳴き声がやかましく響く村の広場に、その男は唐突に現れた。
照りつける太陽の下、そこだけが別次元であるかのように、一切の汗をかかず、純白の外套を羽織った金髪の青年。
「僕はラングルド。この世界を救う『勇者』という者だ。君たち……僕と一緒に、魔王を倒す旅に出てくれないか?」
それが、俺とナターシャ、そして勇者ラングルドとの出会いだった。
何の前触れもない、あまりにも突拍子もない誘い。
普通の人間であれば、頭のおかしい奴だと笑い飛ばして断るか、あるいは厄介事から逃げるように扉を閉ざすところだろう。魔王を倒すなど、おとぎ話の中の狂人の戯言にしか聞こえないのだから。
だけど、その誘いに対する俺たちの答えは、ただ一つだった。
「……ああ。行くよ。俺も、ナターシャも」
迷いなど、一秒たりともなかった。
俺の隣に立つナターシャも、震える手で俺の服の裾を強く握りしめながら、無言で、しかし確かな意志を持って深く頷いた。
何故なら、俺たち二人はお互い……あの絶対的な邪悪である『魔王』の手によって、愛する家族を皆殺しにされていたからだ。
家が焼け落ちる焦げた匂い。両親が、兄弟が、無残な姿に成り果てて血の海に沈んでいたあの凄惨な光景。俺とナターシャは、その地獄を共有する幼馴染であり、互いの心に空いた底なしの穴を埋め合わせるようにして生きてきた共犯者だった。
俺たちの心は、とっくに復讐という名の炎で焼き尽くされていたのだ。
こうして、俺たちは育ててくれた村の大人たちに短い別れを告げた。
手作りの粗末な剣と、僅かな荷物だけを持って。
「絶対になんて言うなよ! 生きて帰ってくるんだぞ!」
「マルス! ナターシャちゃんを頼んだからね!」
涙ながらに見送ってくれる村人たちの声を背に、俺たちは村を出発した。
胸の中にあるのは、魔王をこの手で八つ裂きにしてやるという暗く熱い執念だけ。
しかし……この時の俺たちは、知る由もなかったのだ。
この世界に横たわる、本当の「厳しさ」というものを。
そして……魔王を殺すという行為に伴う、血反吐を吐くような『真の意味での覚悟』なんてものは、この時の未熟な俺たちには微塵も備わっていなかったということを。
俺たちがその現実を、冷水として頭から浴びせられることになったのは、旅が始まってすぐのことだった。
勇者パーティーとして道中で出会った、巨大な長弓を背負った口の悪い弓使いの男、ヘンリー。
彼を仲間に加えてから、わずか五日目の朝。
「……ッ!? マルス、上よ!!」
鬱蒼と茂る森の中で野営をしていた俺たちを、突如として黒い瘴気が包み込んだ。
ナターシャの悲鳴にも似た警告。
見上げると、木々の隙間から、ドロドロとしたタールのような闇が凝縮し、巨大な獣の姿――『魔王の幻影』を形作っていた。
「チィッ……! 幻影ごときが、朝っぱらからふざけやがって!!」
俺は剣を抜き、ヘンリーもまた舌打ちをしながら弓を構えた。
だが、幻影の動きは、俺たちの動体視力を遥かに凌駕していた。
「な……!?」
音もなかった。
突風が吹き抜けたかと思った次の瞬間。
「ガ、ハッ……」
俺のすぐ横で、乾いた、ひどく嫌な音がした。
振り返った俺の視界に飛び込んできたのは、ヘンリーの胸の中心――心臓のある位置を、魔王の幻影の鋭い黒爪が完全に『貫通』している光景だった。
鮮血が、朝日に照らされて赤い飛沫となって宙を舞う。
「ヘンリー!!!」
俺の絶叫虚しく、ヘンリーの体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、血だまりの中に沈んだ。ピクリとも動かない。急所を完全に破壊された、即死だった。
嘘だろ。
たった五日だぞ。昨日まで、焚き火の前で下らない冗談を言って笑い合っていたじゃないか。
それが、こんな、あっさりと。
「ああああああああッッ!!」
怒りと、それ以上の「己の無力さ」に対する絶望が全身を駆け巡った。
俺は我を忘れ、ナターシャの援護魔法と共に、悲鳴を上げながら魔王の幻影に斬りかかった。何度も何度も剣を振り下ろし、幻影を完全に霧散させるまで、ただただ刃を振るい続けた。
そして、戦闘が終わり、静寂が戻った森の中。
俺とナターシャは、血の海に沈むヘンリーの亡骸の前にへたり込んだ。
ナターシャは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしている。俺もまた、剣を握る手が震え、歯を食いしばって涙を堪えていた。
これが、魔王と戦うということ。命を懸けるということの、本当の恐ろしさ。
俺たちは、何もわかっていなかったのだ。
「……なあ」
不意に。
背後から、ひどく間の抜けた、聞き慣れた声がした。
「俺を勝手に殺すなよ〜。服が血まみれで気持ち悪いじゃねえか。まあ、めんどくさいから死んだふりしてただけだろ? な?」
「は??」
俺とナターシャは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、弾かれたように振り返った。
そこには、胸にぽっかりと大穴を開け、全身を血で真っ赤に染めたヘンリーが、何事もなかったかのようにのそりと立ち上がっている姿があった。
傷口からは血が流れているはずなのに、彼の顔色は普段通りで、欠伸までしている。
幽霊か!? いや、ゾンビか!?
「お、お前……! 心臓を、えぐられて……!」
「ああ、そうか。お前らにはまだ言ってなかったか……俺はな、半分『不死身』なんだよ」
ヘンリーは、自分の胸の大穴を指を突っ込んで掻きながら、呆れたように言った。
「死のうと思っても、脳みそを完全にぶち抜かれない限りは死ねないんだよ。体質上な。だから、心臓をえぐられたくらいじゃ、ちょっと痛いだけで死にやしねえのさ」
理解が追いつかなかった。
だが、目の前で文句を垂れながら立っている彼が「生きている」という事実だけは、徐々に俺の脳髄に浸透していった。
「お前……! ふざけんなよ!! 生きていたなら、もっと早く言えよ……!!」
俺は、怒りよりも先に、全身の力が抜けていくのを感じた。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、安堵のあまり大きく息を吐き出す。
「……良かったぁ……本当に……っ」
しかし、隣にいたナターシャは違った。
彼女は涙目のままズンズンとヘンリーに歩み寄ると、その血まみれの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「なんでっ……! 生きていたなら、私たちが必死に戦ってる時に助けてくれなかったのよ!! バカ!! 最低!!」
そう怒りながら、彼女の小さな手は、ぽかぽかとヘンリーの肩を叩いていた。
文句を言いながらも、その手から伝わるのは確かな安堵と、「生きていてよかった」という深い愛情のようなものだった。ヘンリーも「悪かったって、痛い痛い」と、満更でもない顔で苦笑いをしている。
俺たちは、まだ出会って五日しか経っていないというのに。
すでにヘンリーのことが、大切でかけがえのない仲間になっていたのだ。
そして……それは、この時のラングルドも同じだったと。
俺は今でも、本当にそう思っている。
ずっと少し離れた場所で、静かに事の顛末を見守っていた勇者ラングルドが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「生きていて良かったよ。ヘンリー」
そう言って笑ったラングルドの表情を見て、俺はハッと息を呑んだ。
彼のその笑顔は、俺たちが初めて見るような、とても自然なものだったからだ。
というのも、出会ってからこの五日間、ラングルドが四六時中顔に貼り付けていた笑顔は、どこか人工的で、感情の伴わない「作り笑い」のような不気味さがあった。
だから俺は、ラングルドのことが正直怖かったし、「こいつは何か裏でよからぬことを企んでいるんじゃないか」と、常に心のどこかで疑念を抱いていたのだ。
でも……この時の俺の、ラングルドに対する疑念は、その一瞬で完全に消え去った。
何故なら、今のラングルドの笑顔は……年相応の少年のような、心底ホッとしたような、あまりにも無邪気で美しいものだったからだ。
「……なんだよ。勇者様も、そんな顔して笑えるんじゃねえか」
俺がぼそりと呟くと、ラングルドは少しだけ照れくさそうに目を伏せた。
この時、俺たちは確かに「一つのパーティー」になったのだと、そう確信した。
これが、俺たちの短くも熱かった、冒険の本当の始まり。
この先に、あんな絶望に満ちた地獄の裏切りが待っていることなど、知る由もなかった、幸せな記憶。
第十四話
ヘンリーがその厄介な「半分不死身」の体質を明かし、再び四人での騒がしくも温かい旅が再開してから、およそ一ヶ月の月日が流れていた。俺たち勇者パーティーの冒険は、控えめに言っても「拍子抜けするほど順調」だった。
道中、魔王の差し金である上位魔族や、かつてヘンリーの胸を貫いたような恐るべき魔王の幻影たちが幾度となく立ち塞がった。
しかし、それらすべてを俺たちは容易く退けてきた。遥か遠方から放たれるヘンリーの長弓が敵の急所を正確に射抜き、漆黒のローブに身を包んだナターシャが炎と氷の槍で敵の陣形を崩す。
そして俺が、身の丈ほどもある大剣を振るって残った敵を両断し、最後に純白の外套を羽織った勇者ラングルドが聖なる光で浄化する。
俺たちの連携は日を追うごとに洗練されていき、気づけば、魔王城を望む「終焉の回廊」へと足を踏み入れてから、三日が経過していた。
空は常に鉛色の雲に覆われ、吹き荒れる風は生物の体温を容赦なく奪い去っていく。だが、そんな過酷な環境とは裏腹に、俺たちの進軍は驚くほどに「順調」だった。
「……なあ、やっぱりおかしくねえか?」
愛剣の柄を握り直しながら、俺――マルス・エマーソンは低く声を漏らした。
「魔王の膝元だってのに、雑兵の一匹も出てこねえ。まるで、赤い絨毯でも敷いて招待されてる気分だ」
「同感だ。俺の勘が、この先は死ぬほど面倒なことになると告げてるぜ」
巨大な長弓を肩に担いだヘンリーが、吐き捨てるように言った。彼は半分不死身というデタラメな体質を持っているが、その警戒心は誰よりも強い。
「……そうね。あまりに静かすぎて、自分の心臓の音がうるさく感じるわ」
漆黒のローブを纏ったナターシャが、杖を握る手に力を込める。彼女の瞳には、家族の仇である魔王への憎悪と、それ以上の言いようのない不安が同居していた。
そんな俺たちの背後で、純白の外套を翻した勇者ラングルドが、いつもの穏やかな……感情の読めない作り笑いを浮かべていた。
「大丈夫だよ。きっと魔王も、僕たちが来るのを震えて待っているんだ。さあ、先を急ごう」
彼の言葉には、常に不思議な説得力がある。だが、その瞳の奥にあるはずの「熱」を、俺はこの旅の間、一度も見たことがなかった。
進軍を続けて数時間。
吹き荒れる吹雪から逃れるようにして俺たちが辿り着いたのは、岩壁に穿たれた巨大な洞窟だった。
ただの自然洞窟ではない。入り口には、人間が造ったとは思えないほど巨大な石柱が立ち並び、神話の時代の空気を感じさせる。
「ここは……聖堂の跡?」
ナターシャが指先を灯すと、青白い光が広大な空間を照らし出した。
奥へと続く通路の壁面には、色褪せながらも鮮明な色彩を残した「壁画」が、果てしなく連なっていた。
俺たちは導かれるように、その壁画の前で足を止めた。
「これは……創世神話か?」
ナターシャが壁面に手をかざす。
最初のパネルに描かれていたのは、一人の巨大な神――『最高神ワールド』が、掌の中に一つの炎を掲げている姿だった。
「へっ、神様が退屈しのぎに世界を作ったって話か。どこにでもあるお仕着せの神話じゃねえか」
ヘンリーが鼻で笑う。
だが、二枚目のパネルを見た瞬間、俺たちの空気が変わった。
神の掌にあった炎が、二つに引き裂かれている。
一方は眩い「黄金の光」を放ち、もう一方はすべてを呑み込む「漆黒の闇」を纏っている。
そして、その光と闇はそれぞれ一人の「人間」へと姿を変えていた。
「光を宿した勇者と……闇を纏った魔王」
俺は無意識に呟いていた。
「見て、マルス。その次よ」
ナターシャが指し示した三枚目のパネル。そこには、巨大な『天秤』が描かれていた。
天秤の両端には、先ほどの勇者と魔王が乗っている。
驚くべきは、天秤を支える中心の針だ。それはどちらかに傾くことを拒むように、完全に水平を保っている。
「『調律』……」
ナターシャが壁画に刻まれた古代文字を読み解く。
「『光が強まれば闇もまた深まり、闇が極まれば光がそれを撃つ。勇者と魔王は、一輪の馬車の両輪なり。一方が失われれば、理(システム)は崩壊し、世界は無へ還らん』」
「……どういう意味だ? 勇者と魔王が、馬車の両輪だと?」
俺は冷たい汗が背筋を伝うのを感じた。
「俺たちが魔王を倒せば、世界が救われるんじゃないのか? この絵じゃ、まるで……」
「まるで、魔王が死ねば勇者も死ぬ。あるいは、その逆も然り、と言いたいみたいだな」
ヘンリーの皮肉めいた声が、静かな洞窟に冷たく響いた。
「ふざけるな! そんな理屈があるか! ラングルド、お前はどう思う!」
俺は答えを求めて、勇者を振り返った。
ラングルドは、壁画を見上げていた。
その顔には、相変わらずの穏やかな微笑みが張り付いている。
だが、その黄金の瞳だけが、壁画に描かれた「死にゆく勇者」の姿を、吸い込まれるような深い愛おしみを持って見つめていた。
「……美しいと思わないかい? マルス」
ラングルドの声は、どこか遠い場所から届いているように聞こえた。
「この世界は、最初から完成されているんだ。正義と悪、希望と絶望。そのバランスこそが、神が望んだ『平和』の正体なんだよ」
「平和だと……? 家族が殺され、故郷が焼かれることがか!」
俺の叫びに、ラングルドはゆっくりと首を巡らせた。
「そう。それも含めてだ。誰かが泣かなければ、誰かの笑顔に価値は生まれない。それが、この世界の残酷で完璧な『理』なんだから」
「ラングルド……あんた、何を言って……」
ナターシャが恐怖に顔を強張らせ、一歩後退る。
その時、壁画の最後のパネルが目に飛び込んできた。
そこには、砕け散った天秤と、その中心で「自らの心臓を貫く勇者」の姿が描かれていた。
そして、勇者の影がそのまま魔王へと繋がっており、勇者が死ぬことで魔王もまた崩れ落ちていく描写。
「『勇者の殺し方は、剣で身体を貫くことではない。それは、対なる存在そのものを消滅させることなり』」
「ハハッ、とんだバッドエンドだ」
ヘンリーが自嘲気味に笑った。
「俺たちがやってることは、世界を救う旅じゃなくて、心中相手を探す旅だったってわけか?」
「違う! こんなのはただの古い迷信だ!」
俺は自分自身に言い聞かせるように叫んだ。
「俺たちは魔王を倒して、ナターシャの仇を討って、三人で村に帰るんだ。そうだろ、ラングルド!」
ラングルドは、再び俺たちに背を向け、奥へと続く暗闇を見つめた。
「……ああ。行こうか、マルス。魔王が、そして『終焉』が僕たちを待っている」
彼は一歩、また一歩と、迷いのない足取りで進んでいく。
その背中は、世界を救う英雄のそれというよりは、すべての因果を断ち切るために、自ら地獄へと飛び込もうとする「狂人」のそれに見えた。
「マルス……」
ナターシャが俺の腕に縋りつく。彼女の手は、小刻みに震えていた。
「私、怖い。ラングルド様が……あの壁画の言葉が……」
「大丈夫だ、ナターシャ」
俺は彼女を安心させるように、その手を強く握り締めた。
「壁画がなんだ。運命がなんだ。俺の剣は、お前を守るためにある。神様が決めたルールなんて、俺がブチ壊してやるよ」
そう強がってみせたものの、俺の胸の奥には、拭い去れない不安が澱のように溜まっていた。
壁画の最後に描かれていた、あの勇者の笑顔。
それは、今まさに俺たちの前を歩いているラングルドが時折見せる、あの「無邪気な笑み」と、気味が悪いほどに似ていたのだ。
俺たちが向かっているのは、本当に希望の地なのか。
それとも、すべてを無に還すための「前フリ」に過ぎないのか。
暗い洞窟の奥から、冷たい風が吹き抜けた。
それは、これから始まる凄惨な悲劇を予感させる、死の匂いを孕んでいた。
俺たちは、沈黙に包まれたまま、魔王の待つ玉座の間へと歩みを進めた。
その先で待ち受けている、本当の「絶望」を知る由もなく。
****
そして、気づけば俺たちは、この世界の元凶が潜む最奥の地――「魔王城」の奥深く、玉座へと続く巨大な黒曜石の扉の前にまで辿り着いていた。
「……おかしい」
ひんやりとした城内の空気が肌を撫でる中、俺は自身の愛剣の柄を握りしめながら、ぽつりとこぼした。
「あまりにも順調すぎる」
罠らしい罠もなく、魔王の側近と呼べるような強敵との死闘もなかった。まるで、誰かがご丁寧に俺たちのために道を切り開いて、玉座まで案内してくれたかのような気味の悪さがあった。
だが、そんな俺の僅かな不安を打ち消すように、先頭に立っていたラングルドが振り返り、いつもの穏やかな笑顔を見せた。
「大丈夫。なんとかなるさ」
その言葉には、不思議な説得力があった。
――本当に……そうなのかな。
まあ、なんとかなるか。ここまで誰一人欠けることなく辿り着いたんだ。俺たちなら、絶対にやれる。
俺は小さく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた。
「よし、行くぞ」
ラングルドが静かに頷き、重厚な玉座の扉に手をかける。
ギギギギギ……と、地鳴りのような重い音を立てて、魔王が待つはずの絶対的な闇の空間が、俺たちの目の前に開かれた。
俺たちは武器を構え、全神経を研ぎ澄ませて玉座の間へと足を踏み入れた。
しかし。
「……誰も……いない?」
静まり返った広大な空間の最奥。
そこにあるはずの禍々しい玉座には、主の姿はなかった。空気の淀みもなく、魔力すら感じられない。ただの、だだっ広い空洞だった。
「なんで……。こんなことって……!」
ナターシャが、手にした魔法の杖を下ろし、悲痛な声で嘆いた。彼女の瞳には、家族の仇を討てなかったことへの行き場のない怒りと落胆が渦巻いていた。
「これじゃ……! 魔王を倒せないじゃねえか!!」
ヘンリーも弓を下ろし、忌々しそうに舌打ちをして周囲の柱を蹴り上げた。
俺もまた、激しい困惑の渦中にいた。だが、同時に俺の心の中には、ある種の「驕り」が芽生え始めていた。
(――逃げたのか? あの魔王が)
自分たちの強さに自惚れていた俺は、本気でそう思い込んでしまったのだ。
俺たちが一ヶ月間、無敗のまま進軍してきたその圧倒的な力に恐れをなし、魔王は玉座を捨てて俺たちから逃げ出したのだと。
「チッ、臆病風に吹かれたか。魔王のくせに情けねえ……」
俺が警戒を完全に解き、大剣を背中の鞘に収めようとした、その次の刹那だった。
「――ここは戦場だぞ? 勇者殿」
空間そのものが、ひび割れるような嫌な音がした。
直後、空気を切り裂く鋭い音と共に、生温かい赤い液体が俺の頬に飛沫となって降り注いだ。
「気を抜いては駄目ではないかァ」
地獄の底から響くような、粘り気のある悍ましい嘲笑。
「は?? なんで……ラングルド」
俺の視界が、スローモーションのようにゆっくりと現実を捉える。
数歩先を歩いていた純白の外套の背中。その後ろに、先ほどまで何もなかったはずの「暗闇」が実体を持って歪み、這い出てきた異形の化物の腕が、背後からラングルドの左胸――心臓の位置を、容赦なく貫いていたのだ。
「嘘……そんな」
ナターシャが喉をひきつらせる。
「ラングルドオオォ!!!」
俺の絶叫が、虚無の玉座の間にこだました。
純白の外套が、どす黒い鮮血で急速に染まっていく。
なん……で……。
「クソっ……!!」
俺の脳内を、強烈な後悔と自責の念が駆け巡った。
俺は甘かった!
自分たちの力に慢心し、勝手に勝利を確信していなければ!
順調すぎる道のりに対して抱いたあの違和感を無視せず、もっと周囲の気配に気を配っていれば!
勇者は……ラングルドは、こんな風にあっけなく死なずにすんだのに!!
俺が大剣を抜き直し、狂ったように魔王へ向けて踏み込もうとした、その時だった。
心臓を完全に破壊され、血の海に倒れ伏す寸前。
ラングルドは、絶望と混乱に陥っている俺たちの方へとゆっくりと首を巡らせた。
その顔には、死の苦痛も、魔王への憎悪もなかった。
ヘンリーが生き返ったあの朝に見せたような、本当に優しくて、心底無邪気な笑顔を浮かべていた。
そして、彼は俺たちに、最後の言葉を遺してくれた。
「大丈夫だよ。みんな……また会える」
その言葉の真意を測る間もなく、ラングルドの瞳に、勇者としての最後の強い光が宿った。
「ラングルド……ッ!」
「勇者よ。すでに心臓を潰されたというのに、この俺相手に何をするつもりだ」
魔王がいぶかしげに声を荒げる。
ラングルドの顔つきが、決死の覚悟を秘めた統率者のそれへと変わった。
「”無詠唱・空間転移”。……命令する。マルス、ナターシャ、ヘンリーを、どこか遠くへ飛ばせ」
彼の残された全生命力が、眩い緑色の魔力となって俺たちの足元を包み込む。
「クソっ! 逃がすか!!」
事態を悟った魔王が声を荒げ、焦燥と共に俺たちを切り刻もうと凶刃を振り下ろす。
しかし、その黒い刃が俺たちの肉体に届くことは永遠になかった。
何故なら……魔王が気づいた時には、すでに勇者の命と引き換えに発動した転移魔法によるワープが完全に完了していたからだ。
空間が歪み、視界が白く飛ぶ中、俺はただ真っ赤に染まって崩れ落ちる勇者の姿を、網膜に焼き付けることしかできなかった。
――俺たちは、ラングルドに命を救われた。
しかし……勇者は死んだ。
この世界の希望であるラングルドは、俺たちの慢心のせいで死んでしまったのだ。
見知らぬ土地の冷たい地面に放り出された俺たちの頭上には、ただ無情な空が広がっているだけだった。
これで、もう魔王に勝てる術は完全に残されていない。
俺たちの復讐も、世界を救うという使命も、勇者の死と共に完全に潰えたのだ。
――もう、何もかも終わりだ。
そう絶望した俺たちは、満身創痍の体を引きずりながら、勇者パーティーの最高管理者である『調律者』様の元へと帰還する道を選んだ。
これ以上、絶対に、仲間を失いたくなかったからだ。
だが、この時の俺はまだ、本当の地獄がこれから始まるのだということを、理解していなかった。
第十五話
視界が真っ白に染まり、内臓が引っ張られるような強烈な浮遊感の後、俺たちは見知らぬ土地の冷たい地面へと無様に放り出された。
「かはっ……!」
肺から空気が絞り出され、地面の土を舐める。
混乱する頭を無理やり叩き起こし、周囲を見渡した。隣では、ナターシャが荒い息を吐きながら身をこわばらせ、ヘンリーが弓を杖代わりにふらふらと立ち上がろうとしている。
「ここは……」
追撃はない。空間そのものが歪むほどの巨大な魔力の残滓だけが、俺たちの肌にへばりついていた。
間違いない。あの瞬間、魔王の凶刃が俺たちの肉体を切り裂くより一瞬早く、ラングルドが命と引き換えに発動した『転移魔法』が完了したのだ。
俺たちは、ラングルドに命を救われた。
だが……それは同時に、この世界における唯一の希望である『勇者』が死んだという、覆しようのない絶望の事実を意味していた。
勇者は、死んだ。
あの暗く冷たい魔王城の玉座の間で、心臓を貫かれ、血の海に沈んだ。
「ああ……あああ……っ!」
ナターシャが、地面を叩きながら泣き崩れた。ヘンリーも無言で天を仰ぎ、強く唇を噛み締めている。俺は、自身の無力さに吐き気すら覚えながら、ただ震える拳を地面に押し付けることしかできなかった。
俺が甘かったのだ。
順調すぎる進軍に慢心し、魔王が逃げ出したなどとふざけた自惚れを抱かなければ、あいつは死なずに済んだ。俺が殺したようなものだった。
もう、魔王に勝てる術は残されていない。
俺たちの復讐も、魔王討伐という使命も、すべては水泡に帰したのだ。
これ以上、前へ進むことは死を意味する。
もう誰も、失いたくない。大切な仲間を、これ以上理不尽な暴力で奪われるのはご免だった。
そう痛感した俺たちは、満身創痍の体と折れきった心を引きずりながら、王都へと足を進めた。
勇者パーティーの最高管理者である、『調律者』様の元へ帰還するために。
王都の中央にそびえ立つ、白亜の巨城『エデンの神殿』。
その最奥にある壮麗な謁見の間は、俺たちの絶望など知る由もないほどに、冷たく神聖な空気に満ちていた。
「——よくもノコノコと帰ってこれましたね。勇者一行……いいや、肝心の勇者がいなくなった『腰抜け共』よ」
玉座の上から俺たちを見下ろすのは、豪奢な法衣に身を包んだ一人の老人だった。
この調律者様の年齢は、とうに100歳を超えているという。魔王の脅威によって明日をも知れぬこの過酷な世界において、何故か今日まで生き長らえてきた、異常なまでの幸運の持ち主。世界の管理者たる絶対的な存在だ。
「は……!! 申し訳ありません! 調律者様!!」
俺たちは、磨き上げられた大理石の床に額を擦り付け、深く土下座をした。
言い訳などできるはずもない。俺たちの失態で勇者を死なせたのだ。どんな罰でも受ける覚悟だった。ただ、許しを請うしかなかった。
「私は調律者として……この世界の管理者として言おう。貴様らには大いに失望したぞ」
氷のように冷たい声が、謁見の間に響き渡る。
俺はさらに深く額を床に押し付けた。隣でナターシャの肩が小刻みに震えているのがわかる。
だが、続く言葉は、俺たちの予想を裏切るものだった。
「良いでしょう。勇者パーティーの残党共よ。私はそなたらを許します」
……え?
俺は思わず顔を上げそうになった。
「もちろん、それはそなたらが掛け替えのない仲間を失った苦しみを考えた結果である」
「あ、ありがたいお言葉……!」
ヘンリーが震える声で感謝を口にする。
許された。この絶望の中で、せめて生き延びることだけは許されたのだと、安堵の息を漏らしかけた。
しかし。
「ただし」
調律者の目が、爬虫類のように細められた。
「それはそれとして、世界はお主らを許してくれない。このままでは、お主らは天国に行けないであろう」
「……は?」
俺の喉から、間の抜けた声が漏れた。
何を言っているんだ?
「だから、私が直々に手を下すことにした」
カツン、と。
調律者が、手にした豪奢な杖で床を突いた。その瞬間、老人の全身から、謁見の間の空気を一瞬で真空に変えるほどの、途方もない圧の魔力が膨れ上がった。
なんで……調律者様が、杖を手に取っている?
もしかして……俺たちは、最初から見捨てられていたのか?
「これは『天誅』である。この制裁を甘んじて受ければ、そなたらの天国への道は開かれるであろう」
慈悲を装った、あまりにも残酷な処刑宣告。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、張り詰めていた何かが決定的にブツンと音を立てて千切れた。
この世界に、情けなんてものは最初からないのだ。
ただあるのは、目を覆いたくなるような理不尽と、強者が弱者を踏みにじる厳しい現実だけ。
その絶対的な真理を、今までの俺は理解していなかった。都合の良い奇跡や、正義が必ず報われるなどという甘い幻想を抱いていた。
だけど、ようやく分かった。
「クソっ……!!!」
俺は立ち上がり、背中の大剣を抜き放った。
「クソオッ!!!」
この世界は——。
「クソオオオォオオォオオォッ!!!!」
最初から、救いようのない『地獄』だったんだ。
俺は、この狂った世界への果てしない怒りと憎悪を大剣の刃に込め、己の限界を超える速度で玉座の調律者へと斬りかかった。
どんな手段を使ってでも、こいつだけはここで殺す。
しかし、俺の渾身の刃が届くよりも遥かに早く。
調律者は、ひどく退屈そうに杖を一振りした。強者の余裕すら通り越した、虫けらを払うような動作だった。
「世界反転——”滅”」
その直後、謁見の間を塗り潰すほどの、あまりにも強烈な光が爆発した。
音が消え、視界が完全に真っ白に染まる。
凄まじい衝撃波が俺の体を打ち据え、全身の骨が軋む音すら光の中に溶けていった。
ああ。
俺、死んだな。
意識が明滅する中、俺の脳裏に走馬灯が駆け巡る。
ナターシャもこれを喰らって、死んでしまったのかな。
俺は結局、彼女を守れなかった。
ラングルドも……ヘンリーも……ナターシャも……!!
過去と現在の記憶が混濁する。
死の淵で、俺の魂は時空を超えて懺悔を繰り返していた。
……そっか。
やっぱり、俺は無力だ。
俺は結局、愛する二人を守れなかったんだ。
深い、深い闇の底へ落ちていく。
(………………)
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
数秒か、あるいは数時間か。
チリチリと肌を焼く熱と、喉を詰まらせる砂埃の匂いで、俺は目を覚ました。
重い瞼をこじ開けると、砂埃や煙が辺りを舞っているのが見えた。
ここは……?
瓦礫の山と化した、神殿の跡が見える。
まさか。
俺は……生きているのか?
あんな、神の怒りのような破滅的な魔法を至近距離で喰らってなお、俺は生き延びたというのか。
この時の俺は、自分が死の淵で『何かの新しい力』に覚醒したのだと、本気で思っていた。小説や演劇でよくある、土壇場での王道展開。俺もついに、勇者のような理不尽な力に目覚めたのだと。
しかし、今思えば現実はそう甘くはなかった。
人はそう簡単に変われないし、都合よく強くなれるわけがない。
それが、この残酷な世界の絶対的なルールだったのだ。
俺は、軋む体を無理やり動かして立ち上がり、前を睨み据えた。
今度こそ調律者を殺すという、確かな覚悟を示すために。
しかし、立ち込める煙の向こうにいたのは、調律者だけではなかった。
俺の視線の先。
俺と調律者の間の直線上に、一つの人影があった。
「あ……」
俺の喉から、空気が漏れるような音が鳴った。
そこには——全身が黒焦げになったナターシャがいた。
俺の世界で、最も大好きな人。
誰よりも優しくて、最後まで俺たちの運命を共にしようとしてくれた彼女は。
俺をかばうように両手を広げ、立ったまま、すでに息絶えていた。
第十六話
足元には、赤黒く染まった瓦礫と、数え切れないほどの物言わぬ骸が転がっていた。
鼻をつくのは、焦げた肉と鉄の匂い。
かつて白亜の美しさを誇っていた王都の街並みは、今や見る影もなく破壊され、絶望の炎に舐め回されていた。
「…………」
その地獄の中心で、俺はただ一人、血に濡れた大剣を引きずりながら立ち尽くしていた。
俺がやったのだ。
調律者を殺し、そして……この世界で最も大切な人であったナターシャを失った。
そのあまりの悲しみと、行き場のない怒り、狂気の底なし沼に呑み込まれた俺は、理性を失い、目につくものすべてを破壊した。数百人という無辜の民の命を、この手で無残に刈り取ってしまった。
かつて人々を守るために剣を取ったはずの俺は、今や、魔王よりもおぞましい大量殺戮者(モンスター)へと成り果てていた。
「——そうか。君は調律者を殺したうえに、大切な人を失った悲しみのあまり、数百人の無辜の民を殺した大量殺戮者になってしまったんだね」
唐突に、その声は響いた。
背筋が凍るような、粘り気のある、ひどく楽しげな声。
顔を上げると、立ち込める黒煙を割って、一人の男が歩み出てきた。
その顔には、今のこの凄惨な状況を心の底から楽しんでいるような、醜悪極まりないニヤニヤとした笑みが張り付いている。
魔王だった。
俺たちの運命を狂わせ、家族を奪い、勇者を殺した、すべての元凶。
「ああ。そうだな……」
俺は、驚きよりも先に、どこかひどく冷め切った、ダルそうな声を返した。もう、怒りすらも麻痺してしまっていたのだ。
「……で。何しに来た、魔王。殺すぞ」
血糊のへばりついた大剣をゆっくりと持ち上げ、切っ先を向ける。
だが、魔王は俺の殺気を受けても、全く意に介する様子はなかった。
「殺す……? 怖いねェ! でも……俺は君には他の誰にもない魅力があるんだと、前々から思ってたんだよ。なあ、そうだろ? マルス」
「……??」
狂人の戯言に、俺は眉をひそめた。
「君はとっくに気づいてるはずだ。細かい話を抜きにすると、君は……勇者が死んだ今、この世界で俺の次に強い生命体となった」
魔王は、まるで新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
「だから、そんな君を、俺はどうしても従順な『駒』にしたいんだ」
「……は??」
俺の口から、乾いた声が漏れた直後だった。
ドンッ、と。
胸の奥に、熱した鉄の杭を打ち込まれたような衝撃が走った。
「が……! が、は……ッ」
口から大量の血が噴き出す。
視線を落とすと、俺の胸の中央を、魔王の手から伸びた禍々しい漆黒の魔剣が、背中まで完全に貫いていた。
いつの間合いを詰めたのかすら、今の俺には認識できなかった。
「もちろん、君に拒否権はない」
魔王は、俺の耳元で甘く囁いた。
「俺の魔剣は、貫いた対象を問答無用で『堕天』させることができる。そして、堕天した人間は全員、俺の意思のままに動く操り人形だ。……まあ、貫いた対象がもし既に死んでいたとしても、死ぬ直前の状態で蘇らせて人形にする形になるがな」
その言葉の意味を理解した瞬間、俺の全身の血液が氷のように冷え切った。
「なら……勇者であるあいつも……ラングルドも……既に……」
「ああ、そうさ」
魔王は、至上の喜劇を語るように、歓喜の声を上げた。
「だが……勇者だけではない。半分不死身のヘンリーも……そして、君の最も大切なあの女も、既に俺の操り人形さ」
「……クソ、が……」
ごめん、ナターシャ。
俺……どうやら、これからも人をたくさん殺さなきゃならないらしい。
死してなお、俺たちはこの悪魔の奴隷として、かつて守りたかった世界を破壊し尽くすための剣として振るわれ続けるのだ。
「他に何か言う事あるかい?」
魔王が、勝利を確信した顔で見下ろしてくる。
「……とっとと死ね。クソジジイ」
俺は、最後の力を振り絞り、呪詛の言葉を吐き捨てた。
すると、魔王はニヤアッと口角を耳まで裂くように笑った。
「それなら無理だねえ。何故なら、俺はつい最近……完全に『不死身』になったからねェ」
「ふじ……み……?」
俺の意識が、急速にブラックアウトしていく。
魔剣から流し込まれる絶望と狂気の呪いが、俺の魂を黒く塗りつぶしていくのを感じた。
「君にはそのことは教えない。これは重大な俺の秘密だからね……万が一、君の記憶が復活したとき困るからね」
魔王が何かを語り続けていたが、もはやその声は遠い水底から聞こえるノイズのように、意味を成さなくなっていった。
ごめん……ナターシャ。
俺は……本当は、君と一緒に魔王なんか倒しに行きたくなかったんだ。
ただ、怖かったんだ。
また……魔王に、俺のたった一つの大切な人が殺されるのが、心の底から嫌だったから。
だから……あの旅の中で、魔王をあまり苦労せずに倒せそうだと思ったときは、心底嬉しかった。これでやっと、君を脅威から解放できると。
でも……現実は違った。
魔王は圧倒的に強かった。
そして……世界は、俺たちにどこまでも厳しかった。
結果として、俺はたくさんの人を……罪のない人々を殺した。
挙句の果てに、俺の大切な人は……全員死んじゃったなあ。
全く……クソみてえな……人生だったぜ。
だから……もし、来世なんてものがあって、もう一度やり直せるなら。
君ともう一度恋をして……
ありふれた結婚をして……
子供を一緒に育てて……
ただ、静かに、幸せになりたい……な。
(………………………)
こうして、俺の長く苦しい走馬灯は終わり、俺の意識は完全な闇へと落ちる……。
……はずだった。
「え?? ここは……?」
まばゆい光に包まれ、俺はゆっくりと目を開けた。
吹き抜ける風が、心地よい夏の匂いを運んでくる。
気づけば、俺は見渡す限りに広がる、真夏の花畑の中に立っていた。
赤、白、黄色、青。
色とりどりの無数の花々が、風に揺れて太陽の光を反射している。
血の匂いも、焦げた死体の匂いもない。ただ、むせ返るような花の甘い香りだけがそこにあった。
俺は……死んだはずじゃなかったのか。
ここは……あの世? 楽園? それとも天国??
いや、大勢の無辜の民を殺した俺は、間違いなく地獄の業火に焼かれるはずなのに……なんで、こんな美しい場所にいるんだ。
「マルス〜! こっちだよ!!」
不意に。
ずっとずっと聞きたかった、あの澄んだ鈴のような声が耳を打った。
俺は、弾かれたように声がした方向へと振り向いた。
すると……そこには。
純白の、ウェディングドレスのような美しい花嫁の衣装を身にまとった、ナターシャが立っていた。
彼女の黒髪が、真夏の風にふわりと舞う。
「ナターシャ……」
「マルス! ぼーっとしてないで!! 結婚式の続き、ほら早くやるよ!!」
彼女は、昔と少しも変わらない、あの少し勝気で眩しい笑顔で俺を急かした。
結婚式……。俺の、走馬灯の続きか?
いや、違うな。
彼女に触れられるこの温もりも、風の感覚も、あまりにも鮮明すぎる。
多分、ここはあの世とこの世の境界……魂の終着点なのだろう。
それなら、最後に未練がないようにしないとな。
そう思った俺は、花畑を真っ直ぐに歩き、彼女の細い体を力強く、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
「わっ……マルス?」
俺は何も言わず、彼女の艶やかな黒髪にそっと触れた。
本当に綺麗な黒髪だなって、心の底から思った。この髪を撫でるのが、俺はずっと好きだった。
そして、不思議そうに微笑むナターシャを見つめ、はっきりと言葉を紡いだ。
「ありがとう。君に出会えて……本当に、幸せだった」
それから俺は、彼女から少しだけ離れると、足元の花畑の中からよりすぐりの美しい花を集め、小さな花束を作った。
それを、彼女の小さな両手に手渡す。
「どうか、俺のことを……」
忘れて、天国へ行ってくれ。
そう言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
「マルス……?」
「いいや。なんでもないや」
俺は優しく微笑み返すと、彼女に背を向けた。
そして、花畑の果て……空の色が赤黒く濁り始めている、絶望の地平線に向かって、一人で歩き始めた。
「君はついてくるな。これから先は、俺が行くべき地獄だ……」
その時だった。
「駄目ェ!! 私を置いてかないでえ!!」
背後から、ナターシャが泣き叫ぶような声を上げ、俺の背中に強く、強くしがみついてきた。
俺の腰に回された彼女の腕の力は、尋常ではなかった。俺がどんなに優しく引き剥がそうとしても、彼女は決して離そうとしなかった。
「ナターシャ……なんで。君は行かなくていいんだ」
「私もね! 堕天してたときに、魔王に操られてたくさん人を殺したから! 私も地獄に行くべきなの!!」
彼女は、俺の背中に顔を押し付け、ボロボロと涙を流しながら叫んだ。
「だから! 私も一緒に、その罪を背負わせて!!」
「ナターシャ……でも、お前を地獄になんて……」
「一人で!! 一人で苦しまないでえ!!!」
その悲痛な絶叫が、俺の胸の奥の最も柔らかい部分を、鋭く貫いた。
ああ……。
俺は、強がって一人で地獄の業火に焼かれようとしていたけれど。
本当は、怖かった。ずっと一人になるのが、何よりも恐ろしかったんだ。
「ナターシャ……俺は……」
俺は、震える彼女の手を、自分の手でそっと包み込んだ。
「俺は……やっぱり、君がいないと駄目だ」
俺の言葉を聞いて、彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、心の底から嬉しそうに、太陽のように笑ってくれた。
「うん!! 一緒に地獄で償おう!! ずっと、ずっと一緒だよ!!」
彼女の手を強く握り返す。
目の前に広がるのは、罪人を焼く果てしない苦痛の業火。
だが、隣で微笑む彼女の手の温もりがある限り、俺の魂が折れることは永遠にないだろう。
——こうして、俺たちは共に手を取り合い、決して離れることなく、地獄の業火へとその身を投じたのだった。
第十七話
「息がない。……二人共、完全に死んでるな」
ひどく冷え切った廃墟の空気に、僕——エミール・ハーヴェストの声が虚しく響いた。
足元には、たった今、僕の右腕から放たれた凶刃によって心臓を貫かれた銀髪の戦士マルス・エマーソンと、彼をかばって絶命したナターシャ・メイデイの亡骸が転がっている。
「ああ。そうだね。僕もさっき確認した」
背後から、瓦礫を踏みしめる足音が近づいてきた。
緑色の髪をした魔法使いの少年が、静かに二人の亡骸を見下ろしている。
「にしても、コイツラ規格外に強かったなあ。俺……最後は全く役に立たなかったぜ」
彼は、自嘲気味に肩をすくめた。
「改めて名乗っておく。俺はエリオット・テンペスト。分かりにくかったら『緑髪』で良いよ」
「あ……ああ。よろしくな、エリオット」
「ああ! よろしく!」
僕たちをこの狂った追っ手から二度も救い出してくれた恩人。その飄々とした態度の裏に、どれほどの覚悟と魔力が秘められているのかは分からないが、今の僕たちにとってこれほど頼もしい仲間は他にいなかった。
(………………)
その日の夜。
僕ら三人は、王都の周縁部にひっそりと佇む、打ち捨てられた空き家で身を隠すように寝泊まりすることになった。
埃っぽい床に毛布を敷き、エリオットとマーシャが寝静まったのを確認してから、僕は一人、窓から差し込む青白い月明かりを見つめながら考え込んでいた。
——いよいよ、明日だ。
明日、僕たちは王都の中枢へと潜入し、勇者ラングルドと、彼を裏で操っているであろう最高管理者『調律者』との最終決戦に挑む。
冬祭りの日、故郷の村が焼き払われた夜に聞いた情報によれば、勇者ラングルドは現在、王国の『騎士団長』という最高権力の座に君臨しているらしい。そして、伝承通りであれば、世界の理を司る調律者は、王都の中心に新設された白亜の巨城『エデンの神殿』の最奥に鎮座しているはずだ。
敵の居場所は分かっている。
だが、僕の心には、底なしの泥沼のような迷いが渦巻いていた。
もし、僕たちが首尾よく調律者や勇者を殺せたとして……その後、僕たちはどうなる?
間違いなく、世界中の人々から「希望の象徴を殺した大罪人」として、世界の敵(テロリスト)として追われることになるだろう。
それに、城へ攻め込めば、勇者の狂気など何も知らない、ただ国を守るためだけに剣を握っている何の罪もない騎士団の人間たちを、たくさん殺さなければならなくなる。
僕が手を血に染めるのは構わない。すでに僕の右腕は、魔王の呪いによって悍ましい魔族の腕へと変貌しているのだから。
だが、マーシャは違う。
僕の復讐に彼女を巻き込み、彼女の手まで血に染め、一生世界中から憎まれるような十字架を背負わせてしまっていいのだろうか。
マーシャが……不幸になるかもしれない。
僕らは……本当に、勇者を殺さないといけないのだろうか?
そんな弱音が、不意に脳裏をよぎった。
「……なあ、マーシャ」
月明かりの下、隣で丸くなっている愛しい少女の背中へ向かって、僕は思わず囁きかけていた。
起きているはずがないと思った。ただ、自分の抱えきれない不安を、言葉にして吐き出したかっただけなのかもしれない。
しかし。
「どうしたの……? エミール」
毛布が擦れる音と共に、マーシャがゆっくりと身を起こした。
その瞳は少しだけ眠そうに瞬いていたが、僕を見つめる視線は真っ直ぐで、温かかった。
僕は、薄暗い部屋の中で、己の情けない胸の内を正直に打ち明けた。
「僕……君を、不幸にするのが怖いんだ」
「どうして?」
「だって……僕らが勇者や調律者を殺せば、君まで世界中から恨まれることになる。君にそんな過酷な運命を……」
マーシャは、僕の口を塞ぐように、優しく首を横に振った。
「大丈夫だよ」
彼女の声は、夜の静寂に溶け込むように静かで、そしてどこか悲痛な響きを帯びていた。
「私の先祖はね……今まで、たくさんの人達を不幸にしてきたの。だから……私が苦しむのは、当然のことなのよ」
「え……? それって、どういう……」
「ごめんね、エミール」
マーシャは、膝の上で両手を強く握りしめ、うつむいた。
「私……真実を君に伝えるのが、ずっと怖かった。君は……自分のすべてを奪った元凶として、調律者のことをとても憎んでいたから。でも……もう、言わなくちゃいけない。あの事件の真実を。そして……『勇者の本当の殺し方』を」
「勇者の……殺し方?」
「まず、大前提としてなんだけど。……勇者は、調律者を殺したところで、絶対に殺せないの」
「……え」
僕の思考が、一瞬停止した。
旧勇者パーティーのヘンリーは、たしかに「調律者を殺さない限り、勇者は死なない」と言っていたはずだ。
「何故なら……調律者が持っていた『世界の理を書き換える権能』は、既に魔王によって奪い取られてしまっているから。だから……今のこの世界の実質的な管理者は、調律者じゃなくて『魔王』なの」
「え……そんな! それって……!」
僕は反射的に立ち上がりそうになり、慌てて声を押し殺した。
「それじゃあ……! あの狂った勇者を生み出したのも、世界が地獄みたいになっているのも、全部魔王が悪いってことじゃないか! マーシャ!!」
「……うん。そうだね」
マーシャは、苦しげに頷いた。
「それなら、僕が夢の狭間でやったあの契約は……! 俺の寿命と右腕を代償にしたあの『禁忌の術』は、いったい何だったんだ……!」
魔王は、僕を騙していたのか。
自分を殺させるための駒として、僕を蘇らせたというのか?
激しい混乱と怒りで呼吸が荒くなる僕の手を、マーシャの両手がそっと、しかし力強く包み込んだ。
「大丈夫。エミール、まだ焦らなくて良い」
彼女の澄んだ瞳が、僕の怒りを鎮めるように見つめてくる。
「だって、君が使った『禁忌の術』は、勇者たちが操られている『堕天』とは根本的に違うものだから。魔王と契約したからといって、君の魂まで魔王に操られることは絶対にないわ」
「マーシャ……どうして、禁忌の術のこと……そんなに詳しく知っているの?」
「うん。私ね……一回、魔王に権能を奪われたあとの『調律者様』に直接会ったことがあるの。そのときに、色々と教えてもらったんだ」
「そう……なんだ」
「だから、権能が魔王の手にある以上、勇者を殺すには『魔王』そのものを殺すしかない。……そして、その魔王は今、完全な不死身になっていて、除魔の力を持つ『1000年に一度の英雄の力』じゃないと倒すことができないの」
「そんな……!!」
不死身。英雄の力。
あまりにも絶望的な条件の羅列に、僕の目の前が真っ暗になりかけた。
いくら魔王の力をこの右腕に宿したところで、僕自身はただの田舎の剣士に過ぎない。英雄などと呼ばれる器じゃないんだ。
そんな絶望に囚われそうになった僕の頬に。
温かくて、ひどく柔らかい感触が触れた。
「……え?」
マーシャが身を乗り出し、僕の頬に、そっと口づけをしてくれたのだ。
驚きで見開かれた僕の目に、月明かりに照らされて微かに頬を染めた彼女の、優しさに満ちた笑顔が映った。
僕は、その口づけへの返答として、震える彼女の華奢な体を、壊れないようにそっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、エミール」
僕の腕の中で、マーシャは力強く言ってくれた。
「君なら……絶対に、その『英雄』になれるよ」
「ありがとう。マーシャ」
僕の胸の奥底で、くすぶっていた不安が消え去り、確かな覚悟の炎が灯った。
そうだ。魔王がなんだ。英雄がなんだ。
僕は、この腕の命が尽きるまで、彼女を守り抜くと誓ったんだ。
そう決意を新たにした、その瞬間だった。
——ズキッ。
「……ッ!?」
僕の左腕に、焼けた鉄串を突き立てられたような、鋭く強烈な激痛が走った。
最初は、これまでの戦闘で負った傷がうずいただけだと思った。
しかし、反射的に左腕へと視線を落とした僕の目に飛び込んできたのは……
暗闇に紛れるようにして飛来し、僕の左腕の上腕部に深々と突き刺さっている、一本の『黒い弓矢』だった。
しかも……この傷口から一瞬にして全身の血液が沸騰するような、内臓がドロドロに溶かされるような感覚……!
ただの矢じゃない。これは、劇薬なんて生易しいものじゃない、『致死の毒矢』だ!!
「が……はッ……!」
声が出ない。
一瞬にして視界がぐにゃりと歪み、脳の酸素が急速に奪われていく。立っていることすらできず、僕は床に崩れ落ちた。
やばい……息が、できない……意識が……!
「エミール!!? 嘘っ、エミール!! しっかりして!!! エミール!!!」
僕を抱き起そうとするマーシャの悲鳴が、ひどく遠くの出来事のように、頭の中でぐるぐると反響する。
視界の端で、物音に気づいたエリオットが跳ね起きるのが見えた。
くそ……。
致命傷だ。早すぎる。
一体、どこから……誰がこんな精度の狙撃を……。
抵抗する間もなく、僕の意識は真っ暗な絶望の底へと急速に沈んでいった。
(………………)
——バァンッ!!
僕が気を失った直後、空き家のボロボロの木製ドアが、乱暴に蹴り破られた。
吹き込んでくる夜風と共に、室内に圧倒的な『死』の気配がなだれ込んでくる。
「おお……! やはり、あのエミールが倒れている……!」
土煙の中から姿を現したのは、人間とは明らかに異なる禍々しい角と、異常に発達した筋肉を持つ巨漢の魔族だった。
男は、床に倒れ伏す僕の姿を見て、下卑た笑い声を上げた。
「流石は、魔王様が最も信頼している人間だな……ヘンリーの野郎は。世界に一本しかない『最強の毒矢』を、わざわざ仕入れて俺たちのために撃ち込んでくれるなんてな」
「ヘンリー……!? あの時、死んだはずじゃ……!」
マーシャが、僕を庇うように両手を広げながら、鋭い視線を男に突き刺した。
「それと、貴方は魔族だね。その桁違いの瘴気……ただの魔物じゃない。上級魔族?」
マーシャの問いかけに、男はひどく不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「上級魔族……? フン、そんな下等な奴らと一緒にされると困るな。俺たちは”黒神(こくしん)”。魔王軍の中でも五人しかいない、魔王様直属の親衛隊だよ」
男は、太い腕を誇示するように胸を張った。
「まあ、俺の同僚であるマルスとナターシャの二人は、ついさっきお前らに殺されたみたいだけどな……!」
「そう……」
マーシャは、杖の柄を強く握りしめた。
「やはり、元勇者パーティーの人達は、全員魔王の操り人形(駒)だったのね」
「ああ、そうだ。ほとんど正解だ。でも残念ながら、肝心の『勇者』についてだけは、俺も詳しい事情は知らないがね」
黒神と名乗る魔族は、ニヤリと邪悪に笑った。
「だが……この展開は、お前たちに想像できたか?」
「……え?」
マーシャが怪訝な顔をした、その時だった。
蹴り破られたドアの枠、その外側から、コツ、コツという静かな革靴の足音が聞こえてきた。
その足音の主は、崩れかけた空き家の入り口で一度立ち止まると、まるでお茶会にでも招かれた紳士のように。
ひどく律儀に、そして優雅な動作で、残っていた半開きのドアをゆっくりと押し開けた。
巨漢の魔族が発していた暴力的な瘴気が、その足音の接近とともに、まるで怯えるようにシュンと萎縮していくのがわかる。
足音の主は、崩れかけた空き家の入り口で一度立ち止まった。
そして、まるでお茶会にでも招かれた紳士のように。ひどく律儀に、そして優雅な動作で、残っていた半開きのドアをゆっくりと押し開けた。
その男は、魔族の頂点に立つ存在でありながら、高潔さと「礼儀」というものを誰よりも深く理解していた。
何故なら、その男こそが、この狂った世界の実質的な支配者たる『魔王』だったからだ。
「こんばんは。マーシャ・アドミニストレーター」
月明かりに照らされたその姿は、あまりにも人間離れした美しさを湛えていた。
仕立ての良い漆黒の衣服に身を包み、その微笑みには一切の敵意も殺気も感じられない。ただ、そこに「在る」だけで、周囲の空間そのものが彼にひれ伏しているかのような、絶対的な威圧感。
肺に吸い込む空気すら重く冷たく感じられ、マーシャは本能的な恐怖で全身の産毛が総毛立つ感覚を覚えた。
「嘘……なんで、ここに……魔王が……」
マーシャの喉から、掠れた声が漏れる。
王都の中枢、あるいは魔王城の最奥にいるはずの絶対悪が、なぜ王都周縁のこんなみすぼらしい空き家に、自ら足を運んでいるのか。
マーシャの震える問いかけに対し、魔王は悪びれる様子もなく、ひどく理路整然と答えた。
「奇襲だよ。マーシャ・アドミニストレーター」
魔王は、手袋に包まれた指先で優雅に夜の闇を指し示した。
「奇襲こそが、数ある戦術のなかで最も効率的であり、『最強』だと俺は思っている。どんなに優れた力を持つ者でも、無防備な寝首を掻かれれば死ぬ。至極当然の理屈だろう? 君もそう思わないかね?」
圧倒的な強者でありながら、決して正面からの力押しにこだわらず、最も確実で残酷な手段を選ぶ。
それが、この男が長きにわたって世界を蹂躙し続けられた理由なのだと、マーシャは絶望と共に理解した。
「……ッ!」
マーシャは弾かれたように身構え、愛用の杖を魔王へと突きつけた。
杖の先端に、残された彼女の全魔力が集中し、パチパチと青白い火花を散らす。
「無駄だ。マーシャ・アドミニストレーター」
魔王は、マーシャの杖の切っ先を見ても、瞬き一つしなかった。ただ、哀れな小鳥を見るような、ひどく冷ややかな憐憫の目を向けた。
「君は、俺達を前に何もできない。外の気配を探ってみたまえ」
言われて、マーシャはハッと息を呑んだ。
静まり返っていたはずの夜の森。だが、意識を研ぎ澄ませると、空き家を取り囲む木々の隙間から、無数の赤い眼光がこちらを覗き込んでいることに気がついた。
地を這うような低い唸り声、幾千もの足音、そして、かつてエミールの仲間を殺した悍ましい『魔王の幻影』たちの気配。
「あと数時間もすれば、全世界に散らばっていた数万の魔族たちや、数百の俺の幻影が、完全にこの空き家を包囲する。君たちに逃げ道はないし、ここで俺を出し抜くことも不可能だ」
完全なるチェックメイト。
魔王の宣言は、事実であった。この絶望的な戦力差を前に、小手先の魔法など何の意味も持たない。
「でも……!」
マーシャは、震える膝に必死に力を込め、魔王を真っ直ぐに睨み返した。
彼女の背後には、毒矢に倒れ、顔面を蒼白にして苦しそうに呼吸を続けるエミールがいる。
彼を死なせるわけにはいかない。絶対に。
「魔王が死んだら……あなたと繋がっているすべての魔族や幻影は、一緒に死ぬんでしょ?」
マーシャの鋭い指摘に、魔王は少しだけ意外そうな顔をした後、楽しげに手を叩いた。
「……当たりだ。よく理解しているね」
魔王の瞳の奥で、昏い喜びの炎が揺らめく。
「だが、それは『この俺を倒してから』言いたまえよ」
挑発。
いや、彼にとってはただの事実の確認にすぎないのだろう。不死身の肉体と、神をも凌駕する力を持つ自分を、虫けらのような人間が殺せるはずがないという、絶対の自信。
――しかし、マーシャの脳内では、かつて調律者から聞いた「世界の真実」が、鮮明な輪郭を持って反芻されていた。
『魔王を倒せば、権能の繋がりによって勇者は死ぬ』
『そして、不死身の勇者を殺す唯一の手段は、大元である魔王を殺すことである』
勇者を殺さなければ、エミールはずっと世界の敵として追われ続ける。
魔王を殺さなければ、エミールはこの毒で命を落とす。
すべての元凶が、今、目の前にいる。
万に一つも勝ち目はない。普通の方法では、絶対に。
マーシャは、そっと背後を振り返り、意識を失っているエミールの横顔を見つめた。
冬祭りの雪の中で、「俺が君を守る」と不器用に笑ってくれた彼の顔が浮かぶ。
(エミール……君は、ずっと私を守ってくれたよね)
今度は、私が君を守る番だ。
たとえ、その代償がどれほど恐ろしいものであったとしても。
マーシャは、ゆっくりと正面に向き直り、魔王を見据えた。
その瞳から、一切の恐怖と迷いが消え失せていた。
ただ、底なしの深い愛情と、身を焦がすような決意だけが静かに燃えている。
そう。
彼女は、覚悟を決めたのだ。
自らの家系に伝わる、決して触れてはならない絶対の禁断。
もう一度、あの『禁忌』を犯す覚悟を。
第十八話
圧倒的な「死」の気配が、廃屋の冷たい空気を完全に支配していた。
魔王は、マーシャの数歩手前で悠然と足を止めた。
一切の隙もなく、ただそこに立っているだけだというのに、マーシャの全身からじっとりと冷や汗が噴き出す。
息をするのすら恐ろしい。心臓が早鐘のように打ち鳴り、本能が「今すぐここから逃げろ」と警鐘を鳴らし続けている。
この数日の間、エミールと共に幾度も死地をくぐり抜け、血生臭い戦闘を経験してきたマーシャだからこそ、痛いほどに理解できた。
この目の前にいる優雅な男は、生物としての『格』が根本的に違う。
人間がどれほど知恵を絞り、束になって剣を振るおうと、決して届くことのない絶対的な次元の壁。神が気まぐれに生み出した、究極の暴力の結晶。それが魔王という存在だった。
「では、いくぞ。マーシャ・アドミニストレーター」
魔王は、虚空から漆黒の魔剣をゆっくりと引き抜いた。
刃が月明かりを吸い込み、底なしの闇のように鈍く光る。
「俺を楽しませろよ?」
ひどく楽しげな、無邪気すらも感じる声音。
その言葉に応じて、マーシャは強く奥歯を噛み締め、両手でしっかりと杖を構え直した。
もう、迷っている暇はない。
背後から聞こえるエミールの呼吸は、毒に侵されて限界が近づいていることを知らせていた。彼を救うためには、あの常軌を逸した魔王の動きを完全に止め、この戦況を根底から覆すほどの『理不尽な力』をぶつけるしかない。
マーシャは、自身の血脈——アドミニストレーター家に代々伝わる『禁忌の術』を起動するため、魂の奥底にある魔力回路を全開にした。
――禁忌の術。
それは、マーシャの家に伝わる、ある特定の『絶対的な危機』を除いて、決して使ってはならないと厳命されてきた魔術の総称である。
もし使用すれば、術者の魂や存在そのものに甚大な影響を及ぼす。だからこそお父さんも、お母さんも、幼い頃のマーシャに「絶対にこれだけは使ってはいけないよ」と、何度も何度も念を押していた。
けれど。その『使ってもいい唯一の場合』というのは……。
他でもない、今だ。
(私は、私の大切な人を守る……!!)
エミール。私の手を引いてくれた人。
私のことを霊体だと知らずに、ただ真っ直ぐに愛してくれた人。
(だから……お父さん! お母さん! 私に力を貸して!!)
マーシャの全身から、青白い魔力の奔流が天に向かって立ち昇った。
それは、空き家のボロボロの屋根を吹き飛ばし、夜空を覆う雲を一瞬にして渦状に捻じ曲げた。
「顕現せよ!! ――”大魔神バベル”!!!」
マーシャの悲痛な絶叫が夜空に響き渡った次の瞬間。
世界は、鼓膜を破るほどの轟々たる雷鳴と共に、禍々しい暗雲に完全に包み込まれた。
バリバリバリッ!!!
紫電が天を引き裂き、大地が悲鳴を上げて激しく揺れ動く。
空間そのものが歪み、次元の裂け目から、この世界のものとは思えない圧倒的な重圧(プレッシャー)がなだれ込んできた。
暗雲を割り、雷鳴を背負って、現世に『それ』は降臨した。
巨大なシルエット。空を覆い尽くすほどの威容。
人間の理解を遥かに超えた、神話の時代の息吹。
その圧倒的な光景を見上げた魔王は、恐怖するどころか、歓喜に顔を歪ませてパチパチと手を叩き始めた。
「素晴らしい……! なるほど、来たか!! この世界の理を司る”七神”のうちのひとつ、大魔神バベルが!」
狂気を孕んだ魔王の笑い声が響く中、遠く離れた森の中から空き家を包囲していた魔王軍の親衛隊たちも、その異常事態に気づきざわめき始めていた。
特に、かつて勇者パーティーの一員であり、今は魔王の駒と成り果てていたヘンリーは、遠眼鏡でその光景を覗き込みながら、明らかな動揺を露わにしていた。
「おいおいおい!! 冗談じゃねえぞ、あれはナシだろ!!」
ヘンリーは冷や汗を流し、弓を持つ手を震わせた。
「だってあれは……! 神話に語られる”七神”のうちのひとつ……! 『大魔神バベル』じゃねえか!! 人間ごときが喚び出していい代物じゃねえ!!」
ヘンリーの悲鳴にも似た焦燥を他所に、空き家の上空に浮かぶ巨大な神の影——大魔神バベルが、低く、地鳴りのような声でマーシャに問いかけた。
その声は空気を震わせるのではなく、直接マーシャの脳内に響き渡る。
『――ちっぽけな人間の娘よ。貴様……我をこの現世に呼んだ対価、どう支払うつもりだ?』
神の問いかけ。
それは、願いを叶えるための無慈悲な『取り立て』の宣言だった。七神の力を行使するには、それ相応の、世界を天秤にかけるほどの重い代償が必要となる。
マーシャは、吹き荒れる暴風の中で、ゆっくりと頷いた。
「そんなもの、決まっている。それは……」
言葉を紡ぐ前、マーシャは背後を振り返った。
苦しげに顔を歪め、意識を失っているエミールの姿。
あの冬祭りの夜、雪の中で彼が言ってくれた言葉が蘇る。
『俺は君を守る。だからさ。マーシャ、これからもよろしくな』
あの不器用な笑顔が、私のすべてだった。私の、この世界でのたった一つの光だった。
(……ごめんね。エミール)
涙が一滴、マーシャの頬を伝い落ちた。
(私ね。もう、君と一緒にいられない)
マーシャは再びバベルを見上げ、震えのない、澄み切った声で宣告した。
「私の存在や記憶を……この世界から、すべて『消す』ことだ」
命を差し出すのではない。
魂を削るのでもない。
『マーシャ・アドミニストレーター』という人間がこの世界に存在したという事実そのものを、歴史から、そして愛する人の記憶から完全に抹消する。
それが、神を動かすための、彼女のすべてを懸けた究極の代償だった。
『……ほう』
バベルの巨大な目が、興味深そうに細められる。
『つまり、お前は……この世界のすべてのものから忘れ去られることを代償とするのだな? 愛する者の心の中からすらも、お前の痕跡は跡形もなく消え失せるぞ。それでも良いのだな?』
マーシャは、涙を拭い、力強く頷いた。
後悔はない。彼が生き延びてくれるなら、自分のすべてが消えてしまっても構わない。
『……ククッ! アハハハハッ! 良いだろう……!! 交渉成立だ、人間の娘よ!!』
バベルの哄笑が天を揺るがす。
同時に、マーシャの足元から、彼女の存在を分解するような眩い光が溢れ出した。
身体の感覚が急速に薄れていく。
足先から、指先から、自分の輪郭が光の粒子となって世界に溶け込んでいくのが分かった。
視界が、白く、そして暗く染まっていく。
(エミール……生きてね。絶対に……)
愛しい人の名前を心の中で何度も反芻しながら。
こうして、マーシャ・アドミニストレーターの意識は、深く、永遠の闇の中へと落ちていった。
第十九話
私は……死んだのかな。
大魔神バベルに己の存在すべてを対価として捧げ、私の意識は深い、深い闇の底へと沈んでいったはずだった。
ちゃんと、私は「マーシャ」として死ねたのだろうか。
エミールを守るという、たったひとつの願いは叶ったのだろうか。
すべてが白く塗り潰されたような無の空間で、ふと、懐かしい匂いがした。
陽だまりの匂い。土埃の匂い。そして、甘くて少し焦げたような、お菓子の匂い。
ああ、走馬灯が見える。
私の頭の中を、色褪せたセピア色の記憶たちが、まるで古い幻灯機のようにカラカラと音を立てて駆け巡っていく。
この走馬灯は、きっと……優しかった私のお父さんとお母さん。
そして、あのロイド・アガルタとの、大切で、どうしようもなく不器用だった日々の記憶だ。
懐かしいな。
ロイド……。
私との、君のあの約束……どうやら、果たせそうにないよ。
それに、エミール。
君を幸せにできなくて、ごめんね。ずっと一緒にいられなくて……!
ずっと………。
エミール…………。
……?
あれ……。
エミールって……。
いったい、誰だっけ?
(………………………)
暗い。
冷たい。
そして、熱い。
矛盾する感覚が、この僕エミールの意識を無惨に引き裂こうとしていた。
ここはどこだ? 僕は死んだのか?
いや、違う。激しい痛みが、僕がまだ「生きている」ことを強烈に主張している。
体内を駆け巡る猛毒の瘴気。それはまるで、意思を持った無数の蟲のように僕の血管を這いずり回り、細胞の一つ一つを食い破ろうとしていた。
だが、僕の身体を破壊しようとしているのは、毒矢の瘴気だけではなかった。
「ぐあああああっ……!!」
声にならない絶叫を上げる。
僕の右腕——残された寿命と引き換えに契約した『魔王の腕』が、尋常ではない熱を帯び、どす黒い紫色の瘴気を爆発的に噴き出していたのだ。
体外から侵入してきた最強の毒。
そして、体内に宿る魔王の呪い。
二つの『魔』の力が、僕の肉体という狭い器の中で主導権を争うように激しく衝突し、暴走を始めていた。
(身体が……破裂する……っ!)
毒の瘴気と魔王の呪いが致死量を超えて飽和し、僕の生命力を急速に食い潰していく。
息ができない。意識が保てない。
このままでは、あと数秒で僕は内側から弾け飛び、跡形もなく消滅してしまう。
『——目を覚ませ、エミール・ハーヴェスト』
不意に。
極限の苦痛の渦中で、澄み切った鐘の音のような声が響いた。
「……え?」
その声を聞いた瞬間、僕を苛んでいた灼熱の苦痛が、ふっと遠のいた。
いや、痛みが消えたわけではない。僕の『意識』だけが、苦痛に喘ぐ肉体から切り離され、より深い魂の深淵へと引きずり込まれたのだ。
視界が開ける。
そこは、現実世界の廃屋でもなければ、魔王のALICEのような純白の空間でもなかった。
足元には波紋の広がる水面のような黒い床。見上げれば、星一つない漆黒の空。
ここは、僕自身の精神世界——魂の一番奥底。
そして、波紋の立つ水面の上に、一人の男が立っていた。
「貴方は……」
僕は息を呑んだ。
金糸のように美しい髪。純白で神聖なオーラを放つ甲冑。
その顔立ちは、僕の故郷を焼き払い、両親を奪ったあの憎き『勇者ラングルド』と、瓜二つだったのだ。
以前、魔王のALICEに取り込まれた時に、一度だけ僕の心の中に現れ、助けてくれたあの男。
「どうして……貴方が、ここに……」
僕は警戒と混乱が入り混じった声で尋ねた。
男は、ラングルドのような狂気を孕んだ笑みではなく、どこまでも優しく、慈愛に満ちた瞳で僕を見つめ返した。
『久しぶりだね。本当は、もう二度と君の前に現れるつもりはなかったんだ。僕の存在は、君を惑わせるだけだからね』
男は静かに語りかける。
『でも、君の肉体が今、致命的な危機に瀕している。体外からの猛毒と、体内の魔王の呪い。二つの極大の瘴気が衝突し、君の生命力はあと数秒で完全に尽きる』
「分かってる……。僕は、死ぬんだな。マーシャを……置いて……」
僕は悔しさに唇を噛み締めた。
守ると誓ったのに。彼女の笑顔を、僕が守り抜くと決めたのに。
『諦めるのはまだ早いよ、エミール』
男は、ゆっくりと僕へと歩み寄ってきた。
『君の肉体は今、致死量の瘴気に満たされている。だが、生命というものは不思議なものでね。絶対的な死の危機に直面した時、肉体は生き残るための最終手段——魂の奥底に眠る防衛本能を強制的に起動させることがある』
「防衛本能……?」
『そう。猛毒と魔王の呪いという二つの“魔”を中和し、排除するための唯一の力。それが、君の魂の核に封じられている“退魔の力”だ』
男が僕の胸——クルーガーさんから受け継いだ心臓のあたりを指差す。
その瞬間、僕の胸の奥から、微かな『黄金の光』が漏れ出していることに気がついた。
『千年に一度、星の意思が人の形をとって現れる。それが、君たち人間が“英雄”と呼ぶ存在だ。君は、その1000年に一度の器として生まれた』
男は、まるで昔話を語るように穏やかに言う。
「僕が……英雄? 冗談だろ。僕はただの、泥に塗れた復讐者だ。魔王の力を借りてまで、生にしがみついた薄汚い人間だ!」
僕は自嘲気味に叫んだ。
「それに、もし僕にそんな力があるなら、どうして今まで……両親が殺された時や、マーシャが苦しんでいる時に、その力は目覚めなかったんだ!」
『英雄の力は、あまりにも強大すぎるんだ。だからこそ、普通の人間として生きている間は、魂の奥底に堅く封印されている。それが解放されるのは、世界が本当に危機に瀕した時か……あるいは、器である君自身が、人間の限界を超えた死の淵に立たされた時だけだ』
男は、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
『今、君の体内では、猛毒と魔王の呪いが飽和し、生命のリミッターが完全に外れかかっている。今なら、君自身の意志で、その封印を解くことができる』
「封印を解く……僕が、英雄の力を……」
『しかし、よく聞いてほしい』
男の表情が、かつてなく真剣なものに変わった。
『この力を解放すれば、君の身体は猛毒を中和し、魔王の呪いすらも屈服させ、現実世界で蘇ることができるだろう。だが、それは同時に、君が“人間の枠を外れる”ことを意味する』
「人間の、枠を外れる……?」
『そうだ。英雄として完全に覚醒した者は、もはや普通の人間としての平穏な人生を歩むことはできない。世界の理に組み込まれ、逃れられない過酷な宿命を背負うことになる。そして……』
男は、少しだけ悲しそうに目を伏せた。
『君は、かつての僕がそうであったように……この狂った世界のシステムである“勇者”を、そして“魔王”を殺さなければならなくなる』
勇者を殺す。
それは、僕が最初から望んでいたことだ。復讐のために、僕はここまで血まみれになって進んできた。
でも、この男の言う「勇者を殺す」という言葉には、僕の個人的な復讐とは違う、もっと重く、途方もない絶望が込められている気がした。
『力を望むかい? エミール。平穏な死を受け入れるか、それとも……人間であることを捨て、修羅の道を歩むか』
究極の選択。
もしここで死ねば、僕はこれ以上苦しむことはない。理不尽な世界から解放される。
でも。
『……マーシャ』
僕の脳裏に、現実世界で泣き叫んでいる彼女の顔が浮かんだ。
僕を庇うように両手を広げ、絶望的な強敵の前に立ち塞がろうとしている、あの不器用で、誰よりも優しい少女。
「ふざけるな……」
僕は、顔を上げた。
「僕がここで死んだら、マーシャはどうなる。エリオットはどうなる。……クルーガーさんが僕に託してくれたこの命は、こんなところで終わらせるためにあるんじゃない!」
僕は、自分の胸元を——黄金の光が漏れ出している場所を、強く握り締めた。
「人間でなくなる? 過酷な宿命? ……上等だ。そんなもの、とうの昔に背負ってやるって決めてるんだよ」
僕の瞳から、迷いが完全に消え去った。
「力を貸してくれ。僕は……マーシャを守る。この狂った世界を、僕が終わらせる!!」
僕の決意の叫びが、精神世界に響き渡る。
その瞬間。
僕の胸の奥で燻っていた黄金の光が、爆発的な勢いで膨れ上がった。
光は僕の全身を包み込み、猛毒の瘴気と魔王の呪いを、圧倒的な純度で呑み込み、中和していく。
痛みが消える。代わりに、世界そのものを書き換えられるような、果てしない万能感が身体の隅々まで満ちていく。
『……素晴らしい。やはり、君は僕が見込んだ通りの男だ』
光の中で、男が満足そうに微笑んだ。
その身体が、下から徐々に光の粒子となって崩れていく。彼の役目は、これで完全に終わるのだ。
「貴方は……一体、誰だったんだ?」
僕は、消えゆく男に最後にもう一度尋ねた。
男は、ラングルドと同じ顔で、けれど全く違う、本当に優しくて温かい笑顔を浮かべた。
『僕の名前は、もう忘れてしまったと言っただろう? ……強いて言うなら、かつて君と同じように、この理不尽な世界に抗おうとした、ただの敗北者さ』
光の粒子が、男の顔の半分まで到達する。
彼は、最後に僕に向かって、希望に満ちた瞳で言った。
『でも、君なら……僕を……勇者を殺せると信じているよ。頑張れよ。僕のたった一人の弟!』
「……っ!」
その言葉を最後に、男の姿は完全に光の中に溶けて消え去った。
弟。
その言葉の意味を考える暇もなく、僕の意識は、猛烈な速度で現実世界へと引き戻されていった。
(…………………)
現実世界。廃墟と化した空き家。
圧倒的な殺気と絶望が、この場を支配していた。
緑の髪をしたエリオットが、ボロボロになりながら片膝をついている。
その前方には、傷一つ負わず、乱れた息ひとつ吐いていない漆黒の魔王が悠然と立っていた。
「そろそろ……終わりにしようか。さらばだ! エリオット・テンペスト!!」
魔王が大きく踏み込み、エリオットの首を刎ね飛ばすべく、漆黒の魔剣を無慈悲に振り抜く。
エリオットは死を覚悟し、目を閉じた。
マーシャの絶望の悲鳴が、廃墟にこだまする。
——間に合え!!
僕は、意識が肉体に戻った瞬間、爆発的な力で地面を蹴った。
死にかけていた身体のはずなのに、羽が生えたように軽い。
思考の速度も、筋肉の反応速度も、今までの比ではない。世界が、まるでスローモーションのように感じられる。
僕は、魔王の凶刃がエリオットの首に届くコンマ一秒の隙間に、神速で滑り込んだ。
大剣を抜く暇すらない。
だから僕は。
呪毒と魔王の呪いを完全に屈服させ、黄金のオーラを纏った『左腕』を、無造作に突き出した。
——カァァンッ!!!!
鼓膜を破るような、甲高く、そして圧倒的な質量を伴った金属の激突音が、廃屋に木霊した。
「……な!?」
魔王の表情が、この夜初めて、明確な驚愕に揺れた。
絶対に砕けないはずの、呪いと魔力で鍛え上げられた魔王の漆黒の魔剣が。
刃の中ほどから無惨にへし折れ、粉々の破片となって虚空に砕け散っていたのだ。
魔王は、自身の剣を破壊した『あり得ない現象』を確認するため、ゆっくりと前を見た。
エリオットも、信じられないものを見る目で目を見開いている。
「マジ、か……」
エリオットが呆然と呟く。
心臓を止めるほどの猛毒の矢を受け、完全に意識を失って死の淵にいたはずの僕が。
折れた魔剣の軌道上に立ち、自身の左腕一本で、その一撃を弾き飛ばしていたのだ。
毒の苦痛など微塵も感じさせない。
僕の全身からは、魔王の瘴気をも中和し、空間そのものを平伏させるような、圧倒的で神聖な魔力が『黄金のオーラ』となって立ち昇っていた。
「……ほう」
魔王は、折れた剣の柄を捨て、歓喜に肩を震わせた。
「お前。死の淵で……1000年に一度の『英雄の力』を、完全に覚醒させたのか」
僕は、静かに腰の大剣を抜き放ち、その刃先を魔王の喉元へと真っ直ぐに向けた。
もう、迷いはない。
僕の魂は、この瞬間から人間の枠を外れ、神すらも殺す修羅となったのだ。
「ああ、そうだ。……そして、これからここで行われるのは、抗いようのない悲劇だ」
僕の声は、どこまでも冷たく、そして絶対の自信に満ちていた。
「すべてを奪ってきたお前と、狂った勇者にとっての……最悪の悲劇だがな」
「面白い」
魔王は、口元を三日月のように歪め、僕を見下ろした。
「やってみろ。……英雄風情が!!」
交差する両者の殺気。
空間が悲鳴を上げ、天上の大魔神すらも見下ろすこの場所で。
1000年に一度の英雄として完全に覚醒した僕と、史上最悪の魔王との、絶望を終わらせるための最後の戦いが、今ここに幕を開けたのだ。
