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【恋愛×デスゲーム】しわあわせ 序章【小説】

第一話

 心臓の鼓動が、うるさい。

 耳の奥でドクン、ドクンと鳴る不快なリズムは、生きている証などではなく、死へのカウントダウンのように思えた。

「……余命、三年。長くて、ですが」

 無機質な診察室で、医師が告げたその言葉が、今も脳裏にこびりついて離れない。

 三谷篤(みたにあつし)は、病室のベッドの上で、自らの胸に手を当てた。薄いパジャマ越しに伝わってくるのは、欠陥を抱えた臓器の、ひどく頼りない拍動だった。

 拡張型心筋症。それが、篤の体を蝕む病の名だった。

 まだ十八歳。高校を卒業し、これからの人生という広大なキャンバスに、どんな色を塗っていこうかと胸を弾ませるはずの年齢だ。しかし、篤のキャンバスは、すでに黒く塗りつぶされることが確定していた。

 理不尽だと思った。なぜ自分だけが。

 だが、その運命を呪うたびに、篤の脳裏には一人の女性の顔が浮かぶ。

 母親だ。

 篤の母もまた、同じ心臓病を患っていた。遺伝的なものだったのか、それとも残酷な偶然だったのかはわからない。ただ、篤が物心ついた頃から、母は入退院を繰り返していた。

 それでも、母はいつも笑っていた。青白い顔をして、細くなった腕で篤を抱きしめ、「あっちゃんは、私の希望だよ」と囁いてくれた。

 その母が亡くなったのは、篤が中学生の時だった。

 病室の独特な薬品の匂い。規則的な心電図の電子音。徐々に冷たくなっていく母の手の感触。すべてが、昨日のことのように鮮明に思い出せる。

 最期の時、母は酸素マスクを外し、苦しい息の合間を縫って、篤にこう言った。

『あっちゃん……聞いて』

『母さん、喋っちゃだめだ!』

『いいの。もう、時間がないから……。貴方は、たくさん恋をしてね……。そして、愛すと決めた人を……守り抜きなさい』

 それが、母の遺言だった。

 愛する人を守り抜く。その言葉は、呪いのように、あるいは祝福のように、篤の胸の奥深くに刻み込まれた。

 だからこそ、篤は生きたかった。母の言葉を胸に、誰かを愛し、誰かを守れるような、そんな人生を送りたかった。

 しかし、現実は残酷だった。母を殺したのと同じ病魔が篤の胸にも巣食い、同じように死の淵へと彼を追いやろうとしている。

「守るどころか……三年以内に死ぬんだな、俺は」

 自嘲気味な笑みが漏れた。

 その時だった。

 視界が、不自然に歪んだ。

「え……?」

 病室の白い天井が、ぐにゃりと渦を巻き、視界全体が強烈な閃光に包まれた。

 目を閉じる暇すらなかった。意識が白く染まり、体が浮き上がるような感覚に襲われる。重力が消失し、心臓の鼓動すら聞こえなくなる。

 そして、次に目を開けた時、篤は全く見知らぬ場所に立っていた。

     *

「……ここは?」

 足元には、雲のように白く、しかし大理石のように硬い不思議な床が広がっていた。見上げれば、太陽が存在しないにも関わらず、真珠のような淡い光を放つ空が無限に続いている。

 空気は薄く冷たく、無臭だった。病院の匂いも、街の排気ガスの匂いもしない。まるで世界から隔絶された、無菌室のような空間。

 ふと周囲を見渡すと、篤は息を呑んだ。

 自分と同じように、呆然と立ち尽くす人、人、人。

 数え切れないほどの人間が、この広大な空間に集められていた。ざっと見積もっても五百人はいるだろうか。

 年齢層は、不思議なことに偏っていた。皆、若い。高校の制服を着た者、大学生風の私服を着た者、リクルートスーツに身を包んだ者。下は十八歳から、上は二十五歳くらいまでの男女ばかりだ。

「おい、なんだよここ!」

「ドッキリか? 撮影のカメラはどこだ!」

「スマホが……圏外だ。どうなってるの?」

 至る所で、不安と混乱の声が上がり始める。

 篤も自分のポケットを探ったが、スマートフォンは病室に置いたままだ。そもそも、自分が今どういう服を着ているのかすら認識していなかった。見れば、病院のパジャマではなく、普段着ているパーカーとジーンズにすり替わっている。

(夢か……? いや、現実感が強すぎる)

 頬をつねってみるが、確かな痛みが走る。そして、胸の奥でドクンと鳴る不快な動悸も、これが現実であることを容赦なく突きつけてきた。

『——やあ。死に損ないの若者たち』

 突如として、その声は響いた。

 どこから聞こえてきたのかわからない。鼓膜を通してではなく、脳の髄に直接へばりつくような、圧倒的で、無機質で、ひどく無邪気な声。

 その瞬間、五百人の若者たちの喧騒が、嘘のようにピタリと止んだ。

 誰もが息を呑み、声のした方向――虚空を見上げた。

 そこには、何もなかった。いや、「空間そのもの」が意思を持っているかのように、陽炎のように歪み、揺らめいていた。不可視の巨大な圧迫感が、空間全体を支配している。

『神、とでも呼んでもらおうか。君たち五百人を、この天界へと招き入れたのは私だ』

「な、なに言ってんだよ……! 帰してくれ!」

 一人の青年が、恐怖を振り払うかのように叫んだ。

 しかし、虚空の声は青年の悲鳴など聞こえていないかのように、淡々と事実を告げる。

『帰すことはできない。なぜなら、君たちは皆、放っておけば【三年以内に死ぬ運命】にある者たちだからだ』

 その言葉に、群衆が息を呑む音が重なった。

 三年以内に死ぬ?

 篤は目を見開いた。なぜ、それを知っている? 自分が余命三年であることは、つい先ほど医師から宣告されたばかりのはずだ。

『そこのジャージの君は、半年後に白血病で。そっちのスーツの君は、明日の朝、交差点でトラックに轢かれて。あそこで震えている君は、来月、自ら首を吊って。……理由は様々だが、君たちは皆、若くして命を散らす運命にある。私は、その運命の糸を一時的に切り離し、ここに集めたのだ』

「だからなんだって言うんだよ! 悪趣味だぞ!」

『悪趣味? 当然だろう。私は、天界から人間を眺めるのに飽きたのだ』

 神の言葉が、空気を急激に凍らせた。

『君たちは這いずり回り、それでも生に執着する。最初は面白かったが、数千年と見ていれば退屈な喜劇だ。だから、私は直接介入し、極限状態の人間を見ることにした』

 神の意思が、空間をビリビリと震わせる。

『人間の底力を。憎悪を。愛情を。そして、そのたくさんの【しわをあわせる】様を、私は、見たいのだ。この目で、焼き付けたいのだ』

 しわを、あわせる。

 その言葉の異様さに、篤は背筋にひどい悪寒を感じた。

 しわ寄せ。誰かの幸福の裏には、必ず誰かの不幸がある。一枚の布のしわを無理に伸ばせば、別の場所に大きなしわが寄るように。

 他者の命を奪ってでも、己の生存という「しわ」を伸ばそうとする人間の業。それを「しわをあわせる」と表現したのだろうか。

『だから、お前達には、ここで殺し合いをしてもらう』

 ピチャリ、と。

 誰かの足元で、水滴が落ちるような音がした。

『ルールは単純だ。他者を殺せば、その者の残りの【余命】が君に加算される。そして最後まで生き残った一人が、五百人分の命――すなわち【永遠の命】を手に入れることになる』

 淡々と告げられたその言葉の意味を、理解するまでに数秒を要した。

 殺し合い。

 命の奪い合い。

 永遠の命。

「ふざけるな!」

「警察を呼ぶぞ! 誰か、警察!」

「嘘だろ……冗談きついぜ……」

 悲鳴、怒号、泣き声が混ざり合い、天界の空間を満たしていく。

『死の恐怖から逃れ、永遠の時間を手に入れる。どうだ? 魅力的だろう。お前たちが普段、隠し持っているどす黒い欲望を解放し、他者の命を奪い合え。己の生存のために、隣人を殺せ。私は、その美しい惨劇を特等席で観賞させてもらう』

 神の言葉とともに、篤たちの足元の床が透明になり、下界の景色が透けて見えた。

 そこには、見慣れた大都会、東京の街並みが広がっていた。新宿の高層ビル群、東京タワー、入り組んだ首都高速道路。蟻の巣のように緻密な光の海。

『この天界の結界の大きさは、下に見える【東京】と同じほどしかない。お前たち五百人には、この広大な、しかし逃げ場のない箱庭で、最後の生存者になるまで戦ってもらう』

 東京と同じ大きさ。

 一見広く思えるが、五百人が隠れ潜み、殺し合うにはあまりにも狭い。そして何より、ここで殺し合いが起これば――

(たくさんの人が、死ぬ……)

 篤の脳裏に、凄惨な光景が浮かんだ。血に塗れた若者たち。悲鳴。命乞い。

 そんなことは、絶対に許されない。

 篤は、持病の心臓が警鐘を鳴らすのを無視し、強く拳を握りしめた。

 母の言葉が、耳の奥で響いている。

『貴方はたくさん恋をして……愛すと決めた人を守り抜きなさい』

 愛の対極にあるもの。それは、憎しみであり、無関心であり、そして「人殺し」だ。

 誰かを殺してまで、生き残りたいとは思わない。たとえ自分の余命が三年だとしても、自分の命を長らえるために他者の未来を奪うなど、母との約束を、自分自身の尊厳を捨てる行為に他ならない。

「やめろ……」

 篤の口から、乾いた声が漏れた。

 周囲のパニックにかき消されそうな、小さな声だった。

 だが、胸の奥から湧き上がる怒りと絶望が、彼を突き動かした。

「やめろ…………やめろぉおおお!!!」

 篤は、枯れた声で喉を震わし、血を吐くような叫びを空間に響き渡らせた。

 しかし、神はその叫びを一瞥だにせず、ただ無情にも、愉悦を孕んだ声で宣言した。

『これより、デスゲームを始める。最後に生き残った者が勝者だ!』

 ゴーン、と。

 世界を終わらせるかのような、重々しい鐘の音が響き渡った。

 同時に、空の真珠色の光が赤黒く染まり、白い大理石の床が、血のような薄暗い赤色へと変貌していく。

 周囲の若者たちの雰囲気が、明らかに変わった。

 先ほどまでの戸惑いと恐怖は、徐々に「猜疑心」と、そして「生への執着」へと変貌しつつあった。

「お前ら……俺に近づくな!」

「いやっ、こっち来ないで!」

 隣にいる人間が、次の瞬間には自分の喉笛を掻き切る敵になる。その事実に気づいた者から、互いに距離を取り始めた。

 空気が、重い。

 五百人分の殺気が、肌を刺すように痛い。

(……終わりだ。もう何もかも)

 篤は、絶望のあまり膝から崩れ落ちそうになった。

 三年以内に死ぬ運命。そして今、強制的に参加させられた殺し合いのゲーム。

 自分はここで、誰かを殺すこともできず、ただ無惨に殺されて終わるのか。母との約束を果たすことも、誰かを愛することも、守ることもできずに。

 視界が滲む。心臓が、限界を訴えるように激しく脈打つ。

 目線を地にそらし、すべてを諦めようとした、その寸前だった。

 ふと、篤の視界の端に、一人の少女の姿が映った。

 彼女は、篤から少し離れた場所に立っていた。長い黒髪に、白いワンピース。ひどく華奢な体つき。

 周囲の人間が狂気と殺意に飲まれ、あるいは逃げ惑う中、彼女は武器になりそうな物を探すでもなく、ただ一人、そこに立ち尽くしていた。

 周囲が殺気に包まれる中、彼女は、篤と同じように涙袋に露をためていた。

 ポロポロとこぼれ落ちる涙を拭おうともせず、彼女は小刻みに肩を震わせ、声を震わせ続けている。

「いやだ……。こんなの、間違ってる……」

 その姿が、どうしようもなく篤の心に刺さった。

 自分の命を守るために他者を敵視する群衆の中で、彼女だけが、あまりにも純粋に、この残酷な状況そのものを悲しんでいるように見えたからだ。

 篤は、無意識のうちに一歩、彼女の方へと足を踏み出していた。

 彼女もまた、この狂ったゲームを拒絶している。殺意の渦巻くこの世界で、同じように絶望し、同じように涙を流す存在。

 こんなにも優しく、他者を傷つけることを拒む少女が、三年以内に命を落とす運命にあり、今、神の娯楽のために殺し合いを強いられている。

 理不尽だ。許せない。

 篤の心の中で、諦めの感情が急速に引いていき、代わりに熱い何かが込み上げてきた。

『貴方はたくさん恋をして……愛すと決めた人を守り抜きなさい』

 母の言葉が、再び脳裏に蘇る。

 恋が何なのか、まだよくわからない。

 だが、もし「守る」という行為が、理不尽に踏みにじられようとしている尊い存在に手を差し伸べることなのだとしたら。

 篤は、震える足に力を込め、少女の前に歩み出た。

 遠くで、誰かの湿った悲鳴が上がった。ついに、どこかで最初の「しわあわせ」が始まってしまったのだ。

「あ……」

 少女が、近づいてきた篤の存在に気づき、ハッと息を呑んだ。涙に濡れた双眸が、篤をまっすぐに見上げる。

「大丈夫だ」

 篤は、できるだけ穏やかな声を出そうと努めた。喉がカラカラに乾いていたが、必死に言葉を紡ぐ。

「俺は、君を傷つけない。……こんなふざけたゲーム、俺は誰も殺さないまま、生き残ってやる」

 それは、神への反逆の宣言であり、自分自身への誓いだった。

 自分の心臓がいつまで持つかはわからない。明日には止まってしまうかもしれない。

 だが、残された命がどれだけ短かろうと、この少女を、この理不尽な死から守りたいと、強烈に思った。

「一緒に来い。俺が、君を守る」

 篤は、ゆっくりと右手を差し出した。

 少女は、差し出されたその手と、篤の顔を交互に見た。

 怯えてすがりついてくるかと思った。だが、少女の反応は、篤の予想を僅かに裏切るものだった。

 彼女は、まるでひどい不協和音を聞いたかのように小さく眉をひそめ、篤の「胸の中心」をじっと見つめたのだ。

「……嘘つき」

 少女の唇から紡がれたのは、か細くも、ひどく冷徹な響きを持った言葉だった。

「え……?」

「あなたの心臓(おと)、もうボロボロじゃない。寿命だって、あと三年もないくせに」

 


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